外苑茶房

神宮外苑エリアの空気を共有し、早稲田スポーツを勝手に応援するブログです。

「韓国野球の源流」

2011-02-04 19:10:56 | 大学野球
月曜日に話題にさせていただいた金永祚(キム・ヨンジョ)さんに関して、多くの方々からお問い合わせをいただきました。

私は、一冊の本でキムさんのことを知りました。
「韓国野球の源流」~玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス(新幹社。大島裕史。2000円+税金)
5年ほど前に出版された本です。
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実に中身の濃い本です。
ですから、内容を要約することは不可能に近いです。

キムさんにまつわるエピソードに登場する人物が凄い。
例えば、キムさんと杉下茂さんが所属した帝京商業の監督は名将・天知俊一さん(元・明治大学監督、中日ドラゴンズ監督。野球殿堂入り)。

1937年(昭和12年)、杉下さんの所属に関する騒動が勃発して、帝京商業が甲子園を辞退するという事件に発展。
それで準優勝の日大三中に巡ってきた出場機会ですが、これまた辞退したのが「行きたければ自分たちの力で行く」と言い切った藤田省三監督(後に、法政大学と近鉄で監督)で、選手には関根潤三さんがいました。

ちなみに、二転三転の結果、甲子園に出場した東京代表は早実だったということです。

1943年(昭和18年)、キムさんは早稲田大学の専門部法科に入学。
「合格通知を受け取った私は、その場で泣き叫びたいほど嬉しかった」とキムさん。

その年の野球部には500人の入部希望者がいたそうですが、連日の凄まじい走り込みで、最後に残ったのは僅か20人。
その20人の中に、キムさん、石井藤吉郎さんらがいました。
「私の野球選手生活を通して、最も一生懸命練習をし、精進を重ねていたのは、早稲田大学の時期であった」と、キムさんはおっしゃいました。

戦後、秋山、土井、杉浦、長嶋、佐々木らを揃えた史上最強の東京六大学選抜軍にアジア大会で戦った1955年(昭和30年)、韓国チームの三番打者・捕手がキムさん。

試合前に、「私は早稲田大学の出身です。国の事情もあって、(韓国選手が日本チームに対して)厳しくあたるけれど、気にしないでください」と、キムさんは日本ベンチに挨拶においでになったそうです



そして、1959年(昭和34年)にアジア大会が神宮球場で開催された時、韓国チーム代表として来日されたキムさんの言葉。
「この美しい球場は、僕にとって第二の故郷のような気がします」
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戦争によって、一家の悲願であった早稲田大学を、キムさんは卒業することができませんでした。

しかし、帝京商業の天知俊一、早稲田の飛田穂洲という名将から薫陶を受けたキムさん。
「私が野球の基本を身につけた1930年代の日本球界は、徹底的に精神面を前面に打ち出していた」
「幼稚ないたずら坊主だった私は、野球を通して人間修業をすることができた。したがって私は、スポーツが単純に競技技術にとどまらず、人格の陶冶と人間形成の手段でなければならないという、理想の信奉者である」との手記を残されました。


キムさんは、58歳でお亡くなりになりました。

母国にお帰りになった後も、早稲田で野球ができたことを誇りにされ、しかし学業を全うできなかったことを残念に感じていらっしゃったキムさん。
キムさんの長女ヤンスさんは、キムさんが死ぬ間際まで口ずさんでいた「都の西北」を、現在でも歌うことができるそうです。

Comments (3)
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