ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

ユタ旅行 その1

2023-06-27 12:01:14 | 生活
ユタ旅行とは、筆者の2023年メモリアル・デー3連休の旅行記である。メモリアル・デーとは、米連邦政府が五月最終週の月曜に指定した休日で、もともとは南北戦争(シヴィル・ウォー)の戦死者を追悼した日を起源とするが、公式に休日になったのは第一次世界大戦の戦没者追悼を目的としたものという(ウィキペディアより)。夏の始まりを思わせるタイミングでの連休のため、出不精の筆者でさえも毎年長屋を出てどこかへ出かけている。今回はソルト・レイク・シティだ。日本では広末涼子さんと鳥羽シェフのダブル不倫が盛り上がっていて、久しぶりにキャンドル・ジュンさんの顔を見ることもできた。


この一人旅の思い出は以下の通りだ。参考にしたもらいたい。


①サンノゼ空港へ
土曜日の早朝の出発だ。サンノゼのノーマン・ミヤマ空港近くには、一日10ドル未満で駐車できる場所があり、短期旅行の場合は往復ウーバーを使うよりもそれを使った方が安くすむ。今回はジョイ・パーク・フライという駐車場を使ってみた。ジョイ・パーク・フライは廃工場のような雰囲気の場所にあり、カジュアルな恰好をしたエチオピア人達が管理していて、暗闇の早朝に訪れるとやや恐ろしさを感じるが、問題ない。筆者と同様に安駐車場を求めた平民旅行者が集まって、空港までシャトルに乗り込む。



②ソルトレイク空港
サンノゼ空港からユタ州ソルトレイク空港まではたった二時間のフライトなので、人にもらった香水臭い文庫本を読み終える間もなく到着してしまった。州都と言えども町はさほど大きくなく、空港はダウンタウンのすぐ近くだ。空港の開放的なガラス窓からは雪の残る山が近くに見えて気持ちがいい。だが連休初日のレンタカーコーナーは混雑していて、1時間ほど待つ羽目になった。連休に最安のレンタカーショップを選ぶと概してこうなる。隣接する他のレンタカー屋はガラガラ。たった10~20ドル多く払えばこうしたトラブルは避けられるのだが、筆者と同様に安レンタカーを求めた平民旅行者が集まってイライラを募らせていた。だが、筆者は運のよく最安の普通車が売り切れたため、ワンサイズ上のSUV車を同じ値段で借りることができたのだった。


③アンテロープアイランド州立公園へ
セイバーズで日よけキャップを入手したのちに北上する。最初の目的地はアンテロープアイランド州立公園である。ソルト・レイク・シティはその名の通り“グレート・ソルト・レイク”という塩湖に面していて、アンテロープ島が州立公園として整備されている。アンテロープ島はグーグルマップで見れば、ソルトレイク市から北西に伸びる半島のような形状をしているがその陸地との接続エリアは大きな湿地でアクセスがない。島へ行くには半島の先にある橋まで北上しなくてはならないのだ。ラジオ9.09から流れるフォークミュージック、雪の残る山を見ながら気持ちのいいドライブになる。こういった雪が積もる山があるとヒトは山肌から季節を感じたりするものだ。



④クラウン・バーガー
会社の同僚のKOBAYASHIという男がかつてユタで暮らしていた。その男に、『ユタへ寄るならばクラウン・バーガーを食べるとよい』と言われていた。高速を下りてアンテロープアイランド州立公園へ向かって西進している途中にたまたま王冠マークのクラウンバーガーを見つけたので、入ってみた。カウンターには槐色の服を着た店員が沢山いて、店内はファストフードというよりは、ダイナーのような居心地の良さがある。出てきた“クラウンバーガー”は、ベーコンがたんまり入ったボリューミーな肉食バーガーで、チーズの味も濃厚でなかなか美味しかった。



ユタ州は白人が、それも混血が進んでなさそうな白人が多い印象だ。黒人はほとんど見ない。当時モルモン教徒によって入植されたこのエリアが、南北戦争にも深く関わっておらず、奴隷制とも縁のない生活をしていたようだ。ユタ州の車のナンバープレートはアーチーズ国立公園の岩が描かれたものと、星条旗に“In GOD We Trust” の一文が入ったものの二種類がある。モルモン教の人々は主に後者のプレートをつけているのかも知れない。クラウンバーガーで腹いっぱいになった筆者はアンテロープアイランド州立公園へと急いだ。モルモン教はかつて一夫多妻制をとっていたことから“異端”とされ、戦争にまで発展したそうだ。有名人がW不倫しても戦争にはならず、ただただテレビで退屈平民が盛り上がるだけで、有名人もそのうちに復帰するのだから、『世界は良くなった』ってことでいいのかしら。

栗尾和尚

2023-06-13 04:47:56 | 生活
栗尾和尚とは筆者の浪人生活時代の友人である。とある地方都市の予備校の寮で一年間共に暮らしていた。その怒髪天を突くかのような直毛ヘアスタイル、切れ長で鋭い目つき、それに口を尖らせた不機嫌そうな表情からは、誰も彼が和尚だとは思わない。だがずんぐりな体型には愛らしさがある。予備校のない片田舎からその寮に集まった浪人たちには頭のおかしな人が多く、筆者にとっては楽しい一年間であった。栗尾和尚はその浪人生活を特に素敵にしてくれた人なので、ここに記録したい。尚、栗尾和尚は故郷の県で“短ラン・ボンタン”といったいわゆる昭和ヤンキー用の違反制服の製造会社に就職したという情報を最後に音信が途絶え、現在行方が分からなくなっており、本ブログは捜索も兼ねて実名で表記をする。


この友人との思い出は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。


①和尚の存在
寮生たちは4月の入寮とともにすぐにグルーピングを始め、ほどなくして複数の友達グループが形成される。予備校生活には特別な集団活動が無いために、このグルーピング期に遅れをとると、後になってグループの環に入ることは難しくなり、孤独な寮生活を強いられる。もちろん馴れ合いを好まず、あえて友人を作らない孤高の寮生もいる。筆者は運よく大手のグループに入れていたが、栗尾和尚は完全に出遅れていた。それでも寮の玄関に掛けられた在・不在を表示する名札の所為で、『3階に“和尚”って名前の人が住んでるよね。』『気になるよね。』と、栗尾和尚の存在は既に寮内で話題になっていた。


②和尚デビュー
そのうち大手グループの寮生たちは、夕食後の一階の食堂に集まって、皆でワイワイ勉強するようになっていた。するとある晩、目つきの悪い不機嫌そうな男が食堂にやってきてやおら勉強を始めたので、筆者らはどう接触していいものか当惑し、しばらく距離を置いていた。だがその男は翌日もやってくる。その翌日もやってきた。そしてついに和尚デビューの時が来た。『え!?君があの和尚!?』から始まって、父親の名前は“昭和”であること、弟の名前には特にギャグがないこと、今年が二浪中で弟に学年を抜かれたことなどの自虐ネタを駆使して、一気に大手友達グループに溶け込んでいった。一つ年上の栗尾和尚は、皆から『和尚さん』と、さん付けで呼ばれて親しまれた。


③マンガ狂の和尚さん
当時の和尚さんは砂漠の緑化に興味があり、農学部への進学を希望していた。しかし残念ながら二浪目でも成績の向上は見られなかった。その原因の一つが和尚さんのマンガ狂いである。和尚さんのマンガ好きは度を越していた。マンガを与えると非常に高い集中力で延々と読み続けてしまう。和尚さんも自身の悪癖を自覚しており、受験戦争が佳境に入るとマンガ絶ちを試みていた。だが筆者らが悪戯で、和尚さんの留守の間に和尚さんの部屋へ勝手にマンガを放り込むから大変だ。和尚さんは食堂に降りてこない。そっと和尚さんの部屋へ覗きに行くと胡坐をかいてマンガを読んでいる。それを見てクスクス笑ったりしたものだ。


④和尚さん涙目事件
そんなことばかりやっていたので和尚さんはセンター試験で思うような結果を出せず、志望する国立大農学部への進学が厳しい状況へ追い込まれた。さらに“滑り止めのそのまた滑り止め”と高をくくっていた“日本で一番名前のスケールが大きな大学”にも落っこちて、さすがに動揺を隠せずに食堂で青ざめた表情で頭を抱えていた。そのときタイミングが悪いことに、同じく二浪目で医学部進学を強く目指していたオギちゃんが食堂へ飛び込んできて、私大医学部への合格を皆に告げて男泣きを始めたものだから、食堂は一気に祝福ムードになっていた。“あれ、そういえば和尚さんは?”と思い筆者は和尚さんを探すと、人のいい和尚さんは涙目で『オギちゃんよかった、オギちゃんよかった!』と皆と一緒になって祝福していたので、筆者は笑いたいような泣きたいような気持になったのだ。


何とか東海地方の私学の農学部への進学を果たした和尚さんとは、進学後もまめに連絡をくれていたので関係が続いていた。一度彼の下宿先へ遊びに行ったことがある。部屋にはサブカル臭が強めなマンガやビレッジバンガードに置いてありそうな文庫本が並べられ、何やらバンド活動も始めたとか、住職らしくない雰囲気を帯びていた。その日は何故か正月で、正月休みの動物園前で写真を撮ったりしたものだ。当時の和尚さんは学校教師の父親(昭和)のことを快く思っていなかったが、何ともなしに『和尚さん、和尚さんはやっぱり教師になるんじゃないかな・・って、俺は思うんだよね』と言えば、『ならんしネ!』と一喝された。

米国内で車を輸送する。

2023-06-10 18:35:51 | 生活
米国内で車を輸送するとは、米国内で車の輸送を外注することをいう。米国駐在員でも筆者のように州をまたいで転勤する人間は多くないだろう。筆者は思い出すだけでもこれまで5回程度の車の輸送を行ってきたが、ご存じのとおりここ米国では日本式のきめこまやかなサービスは期待できず、必ずといってよいほど楽しいイベントが発生する。今回はそれらの出来事を思い出しつつ書き記し、後世の人々の助けとしたい。日本ではジャニー喜多川氏の醜聞が表ざたになり始めている。


この思い出話の概要は以下の通りだ。参考にしてほしい。


①発注1
英語不得手な駐在員にとって、運送会社に直接電話で問い合わせ、ピックアップ元やドロップオフ先の説明、それに値段の交渉を行うのは大変に億劫だ。そこでグーグルで『車の運搬』と検索し、適当なウェブサイトへ入ると、すぐに見積フォームに案内される。フォームに運搬日程や住所の入力ができるので、『これなら簡単だ!』と必要項目を入力して送信した途端、大量のテキストが届き始め、電話がひっきりなしにかかりパニックに陥る。こちらとしては特定の運送屋へ連絡したつもりなのだが、どういうわけだか複数の連絡先から大量の問い合わせが届き始めるのだ。あくまで筆者の予想であるが、車の輸送に関しては①顧客情報収集屋、②手配ブローカー、③トラック会社(運転手)の3つの組織が絡んでいる。ウェブサイト先の相手は③に見えて実はただの①で、入力した情報が複数の②にわたり、②から大量の連絡があるというシステムのようだ。特に最近はメールやテキストもオートメーション化が進んでいるので、毎日同じ内容のテキストがやってきて、大変なストレスを感じる。とはいえ孤独な30代独身日本式サラリーマンにとっては、急に世界から必要とされてる感じを受け、楽しい時間でもある。




②発注2
ブローカーどもが提示してくる金額は、商談成立後にブローカーに支払う手配手数料と、運搬時に直接トラック運転手に支払う運送料の合計だ。けちな30代独身日本式サラリーマンは、大量にやってくるテキストメッセージの中から一番安い金額を提示するブローカーに連絡する。しかし中には商談がまとまりつつある頃になって急に、『運転手がその値段では無理だと言い始めた!』などと言ってくるブローカーがいる。こちらもその段になっては、他を当たるのが面倒臭いのでついつい承服してしまうという算段だ。この場合はブローカーではなく、トラック業者の質が悪い場合が多いと思われる。なぜならブローカーに支払う金額は変わらないからだ。運転手がブローカーに最初に安値を伝え、客が釣れたら金額を上げてくるのだ。ブローカーにとってもこのような運転手は厄介なはずなので、運転手とブローカーの関係が浅いことも予想される。であるからこういった場合はしっかりと断って他を当たる方がいい。筆者のように “ノーと言えない日本人” でいると、当たり前のように契約を守らず、理不尽を言い始め、いくら怒ってもカエルの面に小便のような態度の運転手とすったもんだをする羽目に合う。とはいえ普段はたいへん孤独な30代独身日本式サラリーマンは、そういうすったもんだも何だか生身のニンゲンとの触れ合いに感じ、終わってみればよい思い出になってしまう。ちなみに契約が済んでしまえばブローカーにとっては仕事は終わりなので、トラック業者の連絡先を教えられるだけで残りのフォローアップは一切なく消え去る。



③運転手
そのうちトラック業者から連絡があるが、安い業者の場合には大型トレーラーがそのまま宅までやってくるシステムなので、運転手はこちらが指定した日時などは気にもせず、『明日はどうだ? 明後日はどうだ?』とあちらのスケジュールの都合に合わせて連絡が入るのがうるさいし、深夜でも構わずやってくる。到着も同様にアップデートが少なく、こちらの都合を聞いて時間を調整してくれるようなサービスは期待できない。一人暮らしの30代独身日本式サラリーマンにとってはイライラばかりが募る。さらにこの国は世界中からの移民であふれている。長距離トラック運転手として働く人にネイティブ英語話者が少ないのは想像できるだろう。これが次によく起こるトラブルだ。経験上運転手には中東系と東欧系の人々が多い。特にウクライナやベラルーシといった東欧系の人々は優しい反面、英語が聞き取りづらく、相手もこっちの拙い英語をあまり聞き取らないために滑稽なコミュニケーション問題がしばしば発生する。相手は政治不安(など)のための移民の人々で、こちらのようなお気楽駐在員とは全く違う背景の人々なのは承知だが、『一体全体こんな外国で、何で通じにくい外国語で、お互い一生懸命しゃべり合っているのだろう』と思うと吹き出しそうになる。それでもコミュニケーションが成立したときには不思議な喜びが生まれ、幸せを感じるというものだ。やっとこさ引っ越し先で運転手のトレーラーを迎えると最終支払いになる。彼らは現金しか受け付けないにも関わらず、日曜や深夜にふいに現れるので、予め現金を手元に用意しておいた方がいい。



以上はあくまで安値で車を移動させる場合に起きるイベントであり、当然金を積めばこのようなイベントは期待できないので注意してほしい。車を10台以上載せたトレーラーが到着し、筆者の車が前方に載せてあると他の車を一度下ろさなくてはいけないように思えるが、運転手はガタガタゴトゴトとフレームを動かして器用に筆者の車だけを下ろしていく。彼らの仕事に少し憧れを憶える。好きな曲を聞きながら、景色を見ながら、全米中をひたすら走る。車内には人間関係のストレスはなく、好きなときに家族と好きなだけ会話をしながら走ればいい。ただただ自分が一日何マイル走るかだけが勝負。独身日本式サラリーマンはたいへんだ。走ったつもりでも方向が違ったり、むしろ歩いた方がよかったりもする。

ミッション・サンタクララ

2023-06-04 02:57:51 | 生活
ミッション・サンタクララとは、サンノゼのサンタクララ大学内にあるカトリック教会のことである。2023年のベイエリアに、ついに初夏の匂いがしてきた。日の出が早くなった早朝には気温に温かみがあって夏を感じるし、仕事の帰り道は車内に差し込む西日が強く眩しい。曇天模様が重苦しい冬期の週末は長屋でじっとぼうっとしていることが多かったが、晴天の先週末は外に出てみる気持ちになったので、ミッション・サンタクララへ出かけてみた。日本ではG7サミットで西側主要国首脳がヒロシマに集まり、広島風お好み焼きを作ったりしているそうだ。


この散歩記録の詳細は以下のとおりだ、参考にしてもらいたい。


①サンタ・クララ
ここではまずウィキペディアで得た知識を知った風に書かせてもらう。サンタ・クララのサンタは“聖”で、クララとは中世イタリアの修道女のことだ。彼女は、『清貧・弱者救済・自然崇拝』をカトリック信仰に取り入れて教えを広めた修道士フランチェスコに付き従ったイタリア人修道女のことで、欧州の言語の違いで“クレア”や“キアラ”とも呼ばれているそうだ。ご存じのとおり北アメリカの西海岸に最初にやって来た欧州人は、カトリック伝道を目的としたスペイン人で、次々に教会(=伝道局=ミッション)を建てて原住民に布教活動を行った。各教会には聖人の名が冠され、このミッション・サンタクララはそのひとつだ。


②サンタ・クララ大学
ミッション・サンタ・クララはサンタクララ大学の中にある。日曜日の大学校内は一般開放されているようで、ゲートは検問もなく通過でき、がら空きの駐車場に車を止める。駐車場があるエリアは比較的新しい建物が多く、部活動のための各種スポーツ競技場なども充実しており、古い教会がある雰囲気は全くない。ぴちぴち白人ギャルとイケメン白人男たちが砂を敷いたビーチバレーコートで非常にエロい汗をかいているのを尻目にしばらく歩くと、すぐに地図看板が見つかり、教会の方向へ向かった。歩道の四辻には必ず校内の地図看板がある。筆者のように外部から教会を見に来る人が多いのかもしれない。



③ミッション・サンタ・クララ
少し歩くと校内の中央を走るメインストリートに着く。そこは綺麗に区画された芝生にヤシの木がポンポンと生える気持ちの良い空間で、背景の青空で景色はなお映える。そのメイン通りを西へ行けば教会が見えてくる。ベージュ色のレトロな建物は正面ファサードに少しだけ彫刻が飾れれているもの、シンプルな造りで可愛らしい。建物は20世紀に再建されたもので、オリジナルのものではないそうだが、半円型の瓦や併設された中庭の雰囲気などから歴史を感じる。教会の中ではちょうどイベント毎の準備中らしく、学生バイトが椅子を運んだりして忙しそうだったのであまり見学できなかった。建屋の南側に木製の屋根付き通路があって、そこから藤の花が垂れ下がり、これが見ごろを迎えていたようで、多くの人(主に中国人)がカメラを持って訪ねてきていた。筆者は亀戸天神の藤まつりのことを少し思い出した。とにもかくにも庭の手入れが行き届いていて、教会だけでなく草花にも癒される空間になっている。そして時に教会の鐘が鳴り響いたりと、何だか気分がよい。芝生に寝っ転がって日光浴をしている女学生らの胸元が露わなのも嬉しいものだ。


小一時間の散歩である。大学の空気を味わって若さを少しだけ取り戻せもするので、なかなかよいスポットだ。天気の良い日などは、文庫本を持って出かけて芝生に寝転び、日光浴と読書に耽るふりをして、教会の鐘を聞きながら胸元露わな女学生をジロジロ見るのも悪くない。チャットGPTという対話型AIが世を席巻しているそうだが、筆者の文章の拙さや意味の無さから、筆者が架空の30代独身日本式日本式サラリーマンではなく、実在する30代独身日本式サラリーマンであることは今のところ明白だろう。脳の価値は下がる一方だ。