
ニュースとしてはチョッと鮮度が落ちましたが、奈良県明日香村にある「都塚古墳」が、ピラミッドのような極めて珍しい形をしていた古墳であると教育委員会などが発表し、各報道機関が伝えました。そして16日(土)には現地説明会が開かれ約4100人の見学者が詰めかけ、一時は約1時間半待ちという人気ぶりだったそうです。
この都塚古墳は地元では金鳥塚の方が馴染みの呼び方だそうで、昔から蘇我稲目の墓とする説があったようです。それには大まかに3つほどの根拠が挙げれれています。1、都塚古墳は6世紀後半に造られたとみられ、蘇我稲目が死んだ570年と時期がほぼ一致する。2、都塚古墳がある場所は、蘇我氏とゆかりの深い地域であり、近くには蘇我稲目の息子の蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳があり、馬子の邸宅の跡とされる「島庄遺跡」もある。3、蘇我稲目は高句麗から来た2人の女性を妻にしたと「日本書紀」に記されるなど高句麗と関係が深かったと思われる。
偶然なのかタイミングよく「歴史読本」10月号は「古代最強の豪族蘇我氏」を特集しているので早速購入しました。しかし残念ながら「都塚古墳」に関連する記事は1行もありませんでした。
都塚古墳の被葬者が誰であるかは「 墓誌銘」でも出てこない限り正確な人物比定は無理だと思います。このことは多くの古墳の被葬者にも言えることで、例えば「箸墓古墳」が「卑弥呼の墓」と言っても状況証拠の繋ぎ合わせであって、その状況証拠が極めて曖昧であれば決定的なものは墓誌銘しかないのです。
話は飛びますが、我々が習った歴史では「蘇我氏」は「渡来系氏族」とされていました。代表的なのが門脇禎二の蘇我氏の系図と朝鮮・百済などの関連史料から稲目の曽祖父・満智と百済の官人・満致とが同一人物で大和朝廷に招来された、とするものです。
流石に最近では「蘇我氏」=「渡来系豪族」とは言わなくなったようで、歴史観と言うものも時代時代で大きく変わってくるものです。今、歴史の試験を受ければ当時の正解とは異なった答えを要求されてガックリ来ることでしょう。
「大化の改新645匹」と覚えた「大化の改新」などと今わ言わないのだそうです。今は「乙巳(イッシ)の変」と言うのだそうです。皇極四年(645)六月十二日、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した事を指して「大化の改新」と習ったのですが、現在はこの入鹿暗殺によるクーデターとその後に起こる一連の政治改革と分けて考え、645年に起きたクーデターを「乙巳の変」、その後の政治改革を「大化の改新」と言うのだそうです。
この都塚古墳は地元では金鳥塚の方が馴染みの呼び方だそうで、昔から蘇我稲目の墓とする説があったようです。それには大まかに3つほどの根拠が挙げれれています。1、都塚古墳は6世紀後半に造られたとみられ、蘇我稲目が死んだ570年と時期がほぼ一致する。2、都塚古墳がある場所は、蘇我氏とゆかりの深い地域であり、近くには蘇我稲目の息子の蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳があり、馬子の邸宅の跡とされる「島庄遺跡」もある。3、蘇我稲目は高句麗から来た2人の女性を妻にしたと「日本書紀」に記されるなど高句麗と関係が深かったと思われる。

東方のピラミッド 将軍塚の威容・長寿王の墓とも言われています。
ピラミッド形古墳のルーツを辿れば、大陸から朝鮮半島にかけて勢力を誇った高句麗の王族の石積み塚古墳に行き着くそうです。日本では、6世紀後半まで有力者は前方後円墳に葬られていました。稲目の娘を母とする3人の天皇(用明天皇・推古天皇・崇峻天皇)の陵は方墳で築かれ、方墳は蘇我氏のシンボルとされてきたことも論拠になっています。
都塚古墳の被葬者が誰であるかは「 墓誌銘」でも出てこない限り正確な人物比定は無理だと思います。このことは多くの古墳の被葬者にも言えることで、例えば「箸墓古墳」が「卑弥呼の墓」と言っても状況証拠の繋ぎ合わせであって、その状況証拠が極めて曖昧であれば決定的なものは墓誌銘しかないのです。
話は飛びますが、我々が習った歴史では「蘇我氏」は「渡来系氏族」とされていました。代表的なのが門脇禎二の蘇我氏の系図と朝鮮・百済などの関連史料から稲目の曽祖父・満智と百済の官人・満致とが同一人物で大和朝廷に招来された、とするものです。
流石に最近では「蘇我氏」=「渡来系豪族」とは言わなくなったようで、歴史観と言うものも時代時代で大きく変わってくるものです。今、歴史の試験を受ければ当時の正解とは異なった答えを要求されてガックリ来ることでしょう。
「大化の改新645匹」と覚えた「大化の改新」などと今わ言わないのだそうです。今は「乙巳(イッシ)の変」と言うのだそうです。皇極四年(645)六月十二日、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した事を指して「大化の改新」と習ったのですが、現在はこの入鹿暗殺によるクーデターとその後に起こる一連の政治改革と分けて考え、645年に起きたクーデターを「乙巳の変」、その後の政治改革を「大化の改新」と言うのだそうです。
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