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【会津野】「君の名は」と「君の名は。」

2017年07月08日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

今日は映画のお話を。

昨年(2016年)大ヒットした「君の名は。」をご覧になった方も多いことですよね。

ここから述べる映画の名前で、最後に「。」がついているのは2016年の映画。「。」がついていないのは1953年公開の映画のことです。

1953年公開の「君の名は」は、まだ私が生まれる前の映画なので、昔大ヒットした映画だったくらいしか知識がありませんでした。

今年1月30日のエントリー【会津野】短大生の卒業研究では、会津高田の街中にあった「新富座」のことを書きました。この新富座でも、「君の名は」を上映していた昭和20年代末期は、溢れる女性の鑑賞者が駆け付け、飲み屋は男性、映画館は女性という暗黙の棲み分けが起きたと年配の方は話します。

ストーリーは、太平洋戦争を生き延びた男女が、数々の「すれ違い」を経て最終的に結ばれるもの。過去の映画評を見ると、あまり良い評価はないものの、日本中が熱中し、1953年の配給収入ランキングは、この映画の第一部と第二部が1位と2位にランクインしたほど、たくさんの人が観ました。

先日、河野真理江さんが2015年に書かれた論文を収録している「ヤミ市文化論」(ひつじ書房)を読んでいたら、「映画『君の名は』論」というのがありました。ここでは、主人公たちが「すれ違う」たびに、相手の名前を聞けないまま過ぎていくものの、どこかに恋の成就を予感させ待ち続ける描写を挙げ、フロイト学派の言うマゾヒスト的分析が出てきます。

鑑賞者である一般の人々も、肉食系というよりは草食系だったのかもしれません。

一方、2016年の「君の名は。」が大ヒットしたことは、とてもよく覚えています。2016年の興業収入ランキングでも、堂々の1位に輝きました。

「君の名は。」では、隕石により失われた街を生きる主人公らの「すれ違い」が多く描かれ、最後まで「すれ違い」を続けるものの、恋の成就を予感させる結末で終わります。

東日本大震災で失われた街をモデルにしていることは明らかで、時代背景的にかなり多くの共通点が感じられます。

ジャレド・ダイヤモンドの一連の著作を読むと、人類600万年の歴史を通じ、ヒトの脳の働きや考え方というものは変化しておらず、時代背景が似ている状況では、1953年から2016年までの63年の開きがあっても、人々の行動はあまり変わらないものだと実感できます。

太平洋戦争のときの会津を考えると、この地域は戦争被害に逢っておらず、軍人を送り出す地域であったことがわかります。東日本大震災の時の会津は、同じ福島県にありながら原発事故による避難を強要される状況にはなく、避難者を受け入れる一大基地となったことを思い出します。

会津という地域は、この2つの大きな出来事に対しては、中心ではなく、周縁地域でありました。

いまの会津の人々は、明らかに草食系が多い。(これは私の実感)

近頃、JR只見線の2011年災害(東日本大震災とは異なり、福島新潟豪雨による災害)からの復旧工事を行うことが決まりました。この路線は太平洋戦争後の電力需要を賄う目的で、多くの水力発電所を建設するため、資材を運ぶ目的で敷設されました。

これも、少し近い出来事です。

いままでの関係性を振り返ると、現在(2017年)の会津は、1955年(昭和30年)前後の会津の状況にとてもよく似ています。

昭和30年代の会津の人々は、どうやって暮らしていたのだろうか?

これからいろいろと調べてみよう。

今日も素敵な一日を過ごしましょう。

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