おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。
私は、かねてから「自然」ってなんだろうという疑問を持っています。
よく宿の前の田んぼや山を眺め、「自然がきれいだね」と、人々は言います。田んぼは、農家の方々が耕作している「人工」の土地だし、山だって林業家が植林した木ばかりの土地。それなのに「自然」と表現する人々が多い。
そんななか、会津出身の博士「小室直樹」の著書「新戦争論」に、「自然」に関わることの関係性があったので、ちょっと引用してみます。
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文明が崩壊した状態は、野蛮である。野蛮とは自然状態のことである。本能のおもむくままということである。文明社会は、今さら、『自然』に戻るわけにはいかない。『自然』とは、文明社会がもっとも恥ずべきもの、百方手を尽くして避くべきものである。
日本人は自然が好きだ。自然を愛好し、人工は忌むべきものと考える。
しかし、この表現をぎりぎりまでつめてゆくとたいへんなことになる。文明の否定につながりかねない。『人工』こそ文明の核心である。これを大真面目で排斥するなど、正気の沙汰でない。近代人は、もはや自然に戻るわけにはいかないのだ。
日本人が『自然』を愛するというとき、それは、自然そのものではない。日本人が愛しているのは、自然の『風情』であって、自然ではない。自然に加工して文明の所産を作り上げるが、その際はなるべく自然の風情を残そうというだけのことだ。
なんのかんの言っても、やはり文明の果実は欲しい。テレビも車も飛行機も欲しくてたまらない。立派な政府だって欲しいだろう。
昔から、我が国には『手入れ』といういい言葉があるではないか。我が家の庭を自然のまま放置して、草ぼうぼうというのは、やはり具合が悪い。近所からも悪口を言われる。ちゃんと手入れはするが、自然の風情は残すスタイルにする。
つまり、自然の愛好とは、しょせん『趣味』の次元の問題にすぎない。見栄や外聞の程度だ。文明すなわち人工という原則を忘れてはいけない。
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この本は、「戦争」というものはどういうものか、なぜ起きるのか、その背景は何かというようなことを深く掘り下げているもので、この文章は戦争と文明の関わりの部分に出てくるものです。
日本人の愛好する「自然」は、「自然の風情」であるとし、「加工」のときに自然の風情を残すかが、「自然」として評価されるキモであることが読み取れます。
野山を放置すれば、草ぼうぼうとなるのは「自然の所産」ですが、それよりも、除草してきれいに保つ方が「自然」として評価される。
いま、作物や加工品について、人々が「自然だな」と感じる境界線を考えているのですが、「風情」というヒトによりちがう感覚を持つものがその根幹であるならば、境界線そのものを考えることが不毛なことと感じてきました。ただ、もう1段、思考を深め、自分のなかで解決したい気もします。
今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。
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