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【会津野】「貸はらっぱ」を社会学的調査の反省から考えてみる

2016年05月10日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

ぱらぱらと雨降る14℃の会津野です。

「調査されるという迷惑」(宮本常一、安渓遊地著)を読みました。

ここに大内宿の事が出ていましたので、少し長いですが引用してみましょう。

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福島県の会津若松南方山中に大内という宿場がある。今から四年前(宮本常一がこの文章を書いたのは1972年なので1968年のこと)に、私の友人相沢つぐお君がここを通りあわせて、古い宿場が昔のままのおもかげを残しているのに驚いて紹介した。昔は、会津の殿様が江戸へ出てゆくときにここを通ったのだが、明治になっては全く忘れられてしまっていた。そういうところなら、だんだんさびれて廃村になってゆくはずだが、村人は勤勉で、宿場の仕事で食えなくなると、たくさんの田をひらき、山にはスギ、カラマツなどを植林し、農業で生活のたつ村をつくり上げてきた。近頃は、出稼ぎに出るのもいるが、こういう山の中にあっても自立出来るまでの村にしたのは偉大なことであろう。相沢君は、この村の変貌する前にこの村のことを詳しく記録し、またできればこの形のままで保存維持したいと考えて、村人立ちに働きかけた。

(中略)

貧しいから残ったのかどうかは、全国の実例を見ればすぐにわかることで、むしろ維新以来の変動を村全体が乗り切ることが出来たから残ったのであった。

(中略)

一つ一つの村は、村落共同体として強く結合されているように見える。しかし今日では、そういうような村は少ない。だから大内でも、わずかばかりの刺激でも村の中にヒビが入ってしまうのかもしれないが、自信を失って、自らの手で村を崩壊させていくほど悲惨なことはない。調査などといわれるものの多くにはこれに似た現象がみられる。村の人がせっかく一生懸命に協力したのに、それは村が時代遅れだという宣伝にしかならなかったという例は少なくない。

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いまの大内宿は、町並みが保存され、観光資源として生き残っています。宿場→農業→観光地という足跡をたどりました。

上の文章は、宿がある会津美里町高田の事を連想させられます。かつての高田は、周りの農地から上がる農産物の集積地として立地し、商業を営む方がいた町です。現在は大きく廃れているものの、わずかな商業者が生計を立てながら町が存続しています。この高田に、「まちおこし」を目的とした調査が入っても、調査結果は単に時代遅れという言われる事が多いのも実状。

町の人々が、自分で立ち上がらないと大内のような足跡は残せません。商業地なのだから、商業を起こす。どんな小さな商業でも、存続出来る商業を起こす。失敗しても失敗しても存続出来る商業を模索する。これがいまの高田に必要なことなんだろうなと感じます。

先日カミサンが手に入れてきた雑誌「ソトコト」には、「貸はらっぱ」の記事が出ていました。その記事は、コミュニティを作る目的を「貸はらっぱ」という手法で実現させたことが紹介されています。高田の商店街の中にも、何にも使っていない空き地があります。1日だけでも新たな商業者に店を開いてもらう「貸はらっぱ」をしてみることも良いでしょうし、使っていない建物を1日だけ貸すような「貸店」も良いでしょう。

そうしないと結局は自らの手で崩壊させてしまう。

観光駐車場などの公的な場所を活用するよりも、私的な場所で思考錯誤しながら小さな商業を起こすようにしたいものですね。だって公的な場所だと、失敗したときに微妙な雰囲気になってしまいますもんね。

今日も素晴らしい一日をすごしましょう。

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