涅槃への一人旅

中年過ぎのオジさん、家族は独立して好き勝手にやってます。人間、死ぬときは一人。残った人生、もっと勉強してもっと知りたい。

86日目 生駒山々頂③

2018-09-17 17:24:02 | 山登り
サボっていた訳ではないが、暑さや天気の関係で、山登りは5週間ぶりになってしまった。しかも関西を襲った台風21号の影響が甚大であったため、もっとも安全そうな生駒山(大阪と奈良の県境で標高642m)に登ってきた。

生駒山は縦走を含めると5回目になるが、山頂に登ったのは42日目と54日目の二回だけ。登り口は54日目と同じ辻子谷コースをとった。近鉄石切駅から登り始め、神前神社、水車、興法寺を通ったが、景色は同じため写真はカット。山頂に到る途中の道にいきなりロープが張ってあり、「辻子谷コースは通行禁止」との表示があった。しかしそのロープを越えて下山してくる人に聞くと「少し崖崩れがあるけど大丈夫ですよ!」との返事。まあ犯罪ではなさそうなので、私も人の後をついて山頂を目指すことにした。

確かに山道の終わりの方で、少し崩れていて粘土質が露わになっていたが、子ども以外は登れる程度であった。無事山頂に辿り着き、その後今までに掲載を忘れていた「薬師如来が御光臨」したと言われる旧鶴林寺に行こうとしたが、生駒山の東側は台風の影響をモロに受け、倒木だらけ。



さすがにこれがどこまで続くのか不明のままでは危険と感じ、行くことを諦めた。それで入口の写真だけ。


その後はケーブルは使わず、普通のルートで下山したが、今まで何故か宝山寺をスルーして来たことに気が付いた。入口に大きな鳥居の写真が表紙のもの。

宝山寺がこれほど大きく、由緒ある寺とは知らなかった。まずは境内の様子。


驚くべきことに、背後の巨大な崖肌に仏像が彫られていた。それを拡大してアップしたが、何分解像度をかなり下げているので見れるかどうか??



さて、数十日をかけて前編いうか本編の全文を紹介してきた。いわゆる“後編”については、ネット“浄土への道標”で検索すれば分かるように、大体の感じをつかむことはできると思う。しかし一言一句違わず公開することが孫である私の使命と思う。では祖母の言葉で始めます。


浄土への道標 後編序文

 昭和56年9月、西暦1981年に浄土への道標前編を出版できました。それに続き今回第二の不思議を仏よりご指示頂き、後編として発刊することにしました。
 実は前編は、昭和5年7月18日より昭和20年4月7日まで233回に及ぶ大作で、その後何のお話しもなかったのは、その間国内外共に激動を極め、太平洋戦争があり、岐阜市内でさえ第1回昭和20年7月9日に市内の大半灰塵し、第2回は7月19日岐阜駅、各務原に多大の被害を受け、東京、大阪は勿論のこと遂に8月6日広島、8月9日には長崎に原子爆弾投下で壊滅的な損害で文字通り焦土となり、続いて8月15日に敗戦の詔勅下りました。幸いにして家財及び『浄土への道標』の仏本の原稿等は空襲の厄をまぬがれたのは、仏の御加護の賜物と感謝のほかありません。
 今一つは、林領一、量子家にも5人の子どもの教育、両親の死去、子供の就職結婚と幾多の出来事があり、漸く我を省みれば早、50有余年の年月を経ていました。光陰矢の如し、3回の転居をへて、現在に至りました。
 昭和56年の夏となり、前編の道標脱稿以来一度も仏よりお話なかりしも、其の節第二の不思議表れたとの事をおさとしありし折、不思議の瑞兆、昭和56年8月に至り、主人が同居の孫の教材用として、発砲スチロールのプランターに茄子の苗木三本植えておいたのが紫色の花をつけ実を結んだ。
 主人領一も茄子の花は無駄花が無いと言っておられたが、何時迄たっても実が大きくならないのでおかしいなあと思っていた処、いつのまにか小さい茄子の表面に絵が描かれている。よく見ると紫色の表面に黄金色の金龍が向かい合って描かれていた。細かい精密な龍で何としても不思議の瑞兆である。知らない間に自然に描かれていたのであり、大切に家宝として保存する。
 第二の不思議については、昭和5年11月11日記事の中に不思議現れたらの事を予告あり。(道標上巻105頁・・・筆者注:元本のことです)


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1 コメント

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茄子 (旅人)
2018-09-19 12:23:42
35年ほど前、私は岐阜の祖父母宅に行き、ケースに入ったこの“茄子”なるものを見たことがある。色は紫で、乾燥してしぼんでいたが、その表面に金色っぽい模様があったのを覚えている。出来立ての時に、写真を撮っておいて欲しかった。

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