涅槃への一人旅

中年過ぎのオジさん、家族は独立して好き勝手にやってます。人間、死ぬときは一人。残った人生、もっと勉強してもっと知りたい。

126日目 書籍紹介“催眠と前世”

2024-07-20 14:41:40 | 超常現象
 前回の投稿以来、色々と勉強してきたが、この“心霊”といわれる世界も実に難しい。何が真実で、何が虚偽かの判断をつけることは現実世界でも困難なことが多いが、心霊の世界ではなおさらで、「心霊などあるはずがない!」という立場に立てばすべてが虚偽になる。世間の多くの人はそのように考えているが、「科学は観察から始まる」という信条に忠実であろうとすれば世評に惑わされる訳には行かない。じっくりと観察し、仮説を立て、実験を繰り返し、証明していく。その初期の段階からなかなか抜け出せない分野なのであろうが、仮説を立てられない以上、まだ観察を続けて行くしかない。
 20数年前、米国精神科医のブライアン・ワイス氏の『前世療法』という本を読んでビックリした。本の背表紙に翻訳者の連絡先がのっていたので、電話をした記憶がある。「本当のことか?」と聞きたくて二言三言交わしたが、バカなことを聞いたものだと今では思う。これ以来、日本でも“催眠と前世療法”のブームが到来したが、当時は映画の『タイタニック』が流行っていた。催眠下で「自分はタイタニック号に乗っていた」と発言するクライアントが多いとある本に書かれており、さすがにこれは映画の影響と考えるのが妥当であった。私が現在の日本の催眠療法家の第一人者と考えている大谷彰氏は、「催眠下では、抑圧と空想の入り混じった精神分析でいうところの一次思考過程が表出される。長続きしない偽記憶も生産され、事実確認が必要で、米国の法廷では発言内容は採用されない」とある学術雑誌で述べている。まさにその通りで、“前世”での出来事などという発想はまったく出て来ない。
 ではワイス氏の『前世療法』(原著“Many Lives, Many Masters”は1988年発刊、日本語訳は1991年)を観察していこう。氏は、1944年生まれ。コロンビア大学で化学を学び、エール大学医学部に進学。子供の死を契機に精神科医となり、大学・病院などで部長・教授などの要職につき、専門分野でも多くの論文を発表していて、伝統的な科学的思考が頭を占めていた人物である。この段階だけでも私よりははるかにまっとうな精神科医であり、発言も信用できると思うが、1982年頃に同じ病院で働く20代の検査技師キャサリンの治療を始めてから人生の方向が大きく変わっていった。1年を越す標準的な精神科治療では彼女の神経症(強迫観念、恐怖症)は改善せず。博士が数百例の実施経験を持つ催眠療法を施すことになった。“過去に体験した人生”を思わせるような、年代や名前、出来事や周囲の状況などを詳しく、しかも多くを語っていった。催眠を受けるごとにキャサリンは改善していき、語る内容も繰り返しが多くなってきたため、1984年頃には治療を終了している。色々と面白い“過去世”や数人の“マスター”からの訓示も出てくるが、特に興味を引いたのは第5章にある「ロバート・ジェロッド(Jarrod)があなたの助けを必要としている」とキャサリンがワイス氏に言った下りである。
 
 さて、『Discovering the Soul(「魂の発見」くらいの訳?)』を紹介したい。ロバート・ジャーモン(Jarmon)著、1997年発刊。副題は「ある精神科医と彼の患者の驚くべき発見」。氏は長年内科医として働き、精神科実習を受けてニュージャージ-で開業し、1987年から精神科治療に特化した。おもに退行催眠を使い、肥満や喫煙などの現在の問題を解決してきた。義母の死の際の不思議な現象、死んだ夫が訪ねてきたと訴える患者、1300度はあろうかという燃える石炭の上を裸足で歩く儀式への参加などを通して、徐々に神秘的なものに対して心が開かれていった。1986年、婦人科的な訴えのあるアンナという30代の看護師に催眠療法を施行したところ、19歳のエリザベスのことを語り始めた。10回ほどの人生を語って改善していったが、蝶で飾られる「癒しの寺院」で働いていたとも話す。この頃ジャーモン氏はワイス氏の『前世療法』を読んでいた。両氏の父親には共通点が多く、義母二人も同じ病気で亡くなっていた。また育ったところも5マイル離れているだけであり、本には「ロバート・ジェロッドが助けを求めている」とも書かれていた。このため早速ワイス氏に電話をして会うことになった。患者のアンナは催眠下で「ワイス博士は年上の上級治療者。ジャーモン医師と一緒に働いている。神殿には柱があり、裏には庭園があり、長い白いローブを着ていた」と語り、ワイス氏が思い出した自身の“過去世”と共通点が多かった。
 
 以降もジャーモン氏は、ワイス氏と連絡を取りながら催眠療法を使って多くの患者を治療していき、様々な神秘現象を体験して行ったが、最後に“憑依とその治療”についての氏の意見を紹介したい。
 30代のクリスという男性。不安、自己不信、夫婦不和の改善のための受診であったが、「邪悪なものが頭を支配する」という訴えもあった。教会で聞いたことのある悪の勢力と関係があるかも知れないため、司祭に相談するようジャーモン氏は伝えた。
 数日後の催眠セッション中、態度が急に変わり、「彼は私のものだ!」「私は離れない!」などと怒ったように話す。憑依の除霊で博士論文を書いた友人の臨床心理士のアドバイスを思い出し、「神の光が届きますように」「光の中に行きなさい」と諭すも「私は去らない!」と返答。催眠状態から徐々に現実に引き戻したが、患者は心の中のものを追い出したいと考えていた。
 祭司の立ち合いは拒否されたが、後日、看護師の協力を得て拘束具を準備し、催眠誘導は上記心理士が行った。クリスは奇妙な声で「私はグレゴリー。私は幸せ、ここに残る」という。光の中に戻ることを伝えるも怒り出す。聖水を顔にかけ、十字を切り、神の愛を伝えると、激しい衝突のあと急に静まり返り、「それは去った」とクリスは語った。4時間かけて憑いていると思われる残りの6人も去るよう説得した。その後1年間はクリスは穏やかであり、3年後はフラストレーションはあるものの怒り出すことはなかった。多重人格の恐れはあるものの、時間がかかることなどから勧めれる治療法ではなく、ジャーモン氏の肩についている天使も「ほっておけ、他に餌はある」と言っているらしい。

 バチカンでは今でもエクソシストが活動していると聞く。聖書には憑依と除霊の話がよく出てきており、キリスト教の世界では医療と宗教が各々の役割をもって共存しているのであろうが、本邦ではどうなのか?宗教がない分、すべてが医療に押し込まれている可能性があり、もしあるとすれば前世よりは憑依の方が重要なのかも知れない。

125日目 日本心霊科学協会

2023-10-09 09:09:00 | 研究発表
またまた久しぶりの投稿になった。言い訳にしかならないが、次の予定のお釈迦様御涅槃の最後の言葉をまとめる力量が欠けている、仕事が忙しくなった、その他のことをしなければならなくなった、などなどご理解のほどお願いします。

さて、日本心霊科学協会にも入会し、ここ半年は毎回関西支部会の例会に出席している。それでふっと「第20回心霊科学研究発表会」が9月24日に東京であることに気付き、私のブログもまずまずまとまって来たのでそこで発表することを思い立った。一般部門で申し込んだが、学術研究部門に回された。発表時間が25分とあるものの、7ページあるような抄録を提出したのでそれを早口で読む事になってしまった。聴衆にはお経の話ばかりに聴こえたと思う。

このブログで解説してきたことの繰り返しになり、新たな霊現象は出て来ませんが、要約されているので読みやすいかも。誤字、脱字を修正し、分かりやすいように一部追加した“抄録”を掲載します。

JPSA 第20回心霊科学研究発表会 論文抄録(令和5年)

【学術研究部門】
霊告「浄土への道標」の調査  TK(〇〇病院 精神科医師)

要旨 
 発表者の父方祖父である林領一(1902~1991年)は、昭和5年の28才当時、岐阜県内の工業高校の教師として働いていた。右耳後ろの腫れもの(リンパ節炎?)治癒後、地元の地蔵尊にお礼参りに行ったあとから霊告が始まった。おもに学校からの帰宅後、眠気をもよおしたあとにトランス状態となり、閉眼したまままたは開眼状態で仏教にまつわる話をし、長い時には一時間にもわたっていた。これを教員資格を持つ妻である発表者の祖母(1902~1989年)が速記し、昭和56年にその主要な部分をタイトル『浄土への道標』1)(以下,56年版と呼ぶ。)として自費出版した。平成25年に発表者らが仏典に関わる話を要約して“改訂版”2)として出版し、またネット上3)にも同タイトルで公表した。
 令和2年、縁あって56年版のもととなる“清書版”が親戚から発表者のもとに送られてきた。全三巻からなっており、和紙に墨で書かれ、綺麗な表紙で製本されていた。その中には速記したものを翌日あたりに清書したことがはっきりと書かれており、また鉛筆で速記した一部もみつかり、その内容も56年版に書かれていたものと同一であった。
 これらのことから、56年版『浄土への道標』に書かれていたことが実際に起こったことであることが断言できた。そしてそこに書かれている仏教説話について調べたところ、多くの個所で大乗仏教の経典に基づいていることが判明した。

1. はじめに
 霊告・霊訓といわれるような霊界通信はアラン・カルデックの『霊の書』をはじめ数々となされてきている。その多くは幽界、霊界、神界などの状況を伝えてきているものであり、その世界の美しさや素晴らしさ、不思議さ、そこでの生活や規則などはうかがい知れても、その内容の真偽を確かめるすべが現世に生きる平凡な我々にはない。シルバーバーチの霊訓でもその信憑性を判断するには、彼が語ることの論理性、首尾一貫性、そしてその語り口の高潔さからその内容を判断するしかない。
 発表者の父方祖父である林領一は、高校教員であった28才の当時から睡魔におそわれたあとにトランス状態となり、昭和5年7月から20年3月までの間の計233回にわたり寝言のようにして霊告を語ってきた。長い時には1時間を越えて話すことがあり、語る言葉を妻である発表者の祖母が速記し、昭和56年にその内容が出版された。林領一の孫である私たちはさらに要約して、平成25年に改訂版として同名タイトルで私費出版したが、インターネット(以下、ネット版)でもその内容は確認できる。
 林領一は、「前世では高僧であった」と述べており、本の内容にも多くの仏典に関わる話が書かれている。出版当時には専門家でしか確かめることの困難であったことが、検索エンジンの発達した今日では一般人でも調べることができるようになった。このためその調査内容を発表することとした。

2. 目的
 霊告・霊訓でも、霊媒や周囲が知らないことを霊が語り、後でその語った内容が真実であると確かめることができれば信憑性が高くなる。56年版と清書版の微妙な違いなどを確認し、また清書版を詳しく読んで信憑性を確かめることにした。

3. 本論
3.1.1 研究方法
 昭和56年に発刊された『浄土への道標』は、国会図書館、岐阜県図書館にも所蔵されているが、その元となった発表者祖母の直筆の清書版ともいうべき本は、令和2年に縁あって親戚から発表者の元に送られてきたものである。その内容を56年版と比べながら精査し、インターネットや仏教書で真偽を吟味し、必要時には大蔵経データベースを利用した。
3.1.2 背景
 林領一の略歴については、56年版、改訂版・ネット版に書かれている通りであるが、祖父は明治35年に岐阜県揖斐郡で出生。同胞8人中、第5子、3男にあたり、実家は炭問屋を営んでいた。祖母も同年に生れ、同胞4人中の第1子、長女。お互い21歳の時に結婚し、祖母の両親と同居するようになった。昭和7年頃には自宅を構え、五子をもうけるが、発表者はその第二子次男(昭和2年生まれ)の第二子にあたる。
 父方祖母の父、発表者の曾祖父(生年不明、昭和27年没)は当時、日本赤十字社に勤務しており、浄土真宗についてはある程度の知識を有していたと思われるが、祖父母に関しては清書版や本人を直に知る発表者から見ても仏教についてほとんど知識がなかったものと思われる。
3.2 研究結果
 56年版、清書版と既出の経典、仏教書で確認したが、出典の分からない箇所はあるもののほとんどが下記に示すとおり一致している。出典元を以下に示し、『浄土への道標』の本文についても一部を掲載したが、詳細については改訂版・ネット版をみていただきたい。また発表者は当演題に関わる内容をブログ『涅槃への一人旅』4)(以下、当ブログ)に投稿しており、そこで詳しく解説している。
3.2.1 浄土真宗に関わる話
・『浄土真宗聖典-勤行集―(小)』拝読用法語P166:「朝(あした)には紅顔ありて・夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」「紅顔むなしく変じて・桃李のよそおいをうしないぬるときは」の記載と漢字・ひらがな、句読点などが異なるくらいで、『浄土への道標』の文章とほぼ一致する。
・『浄土真宗聖典』(1988年初版、本願寺派発刊)P187:【72】「まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。・・・(以下続く)」という極楽往生についての因縁の説明がある。『浄土への道標』では2個所にこの話が出てくるが、ともに同じ内容ではあるものの「業識(がっしき)」が「業誠(ごうまこと)」になっており、同じところでの間違いがみられる。
・『浄土真宗聖典-勤行集-(小)』P42、高僧和讃:「本願力にあいぬれば 空しく過ぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」は、平仮名と漢字との差があるだけでまったく同じ文章である。
・『覚如上人拾遺古徳伝絵詞』黒谷源空聖人四末、第五段:法然聖人が京都・黒谷で説法した屋敷の縁の下に泥棒が忍び込んで、その法話を聞いていたという話であるが、『浄土への道標』では「摂津国の大泥棒」のタイトルになっている。56年版、改訂版では二度この話が出てくるが、『拾遺古徳伝絵詞』を含めた三者で大泥棒の出身地、殺されかけた時の様子、その後の状況などで微妙な違いがみられる。
・『蓮如上人御一代記聞書』(本願寺派“浄土真宗聖典”、P1252)(63):「-仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあり。ただわかきときたしなめと候ふ」という若い時からの信心の勧めであるが、ほぼ一致している。
同じく、「行住座臥」「猟、すなどりもせよ」の文言でも一致。
・『浄土への道標』では、浄土三部経の一つ、仏説観無量寿経の下品中生と十三観想の第十一番目が語られており、経典との一致点が多い。
・源信和尚の『往生要集』(1996年発刊、本願寺派『浄土真宗聖典-七祖篇』P837)の天人五衰についての記載:天人にも五衰があらわれ死にいたるという話ではあるが、色々な経典にでてくるも、五衰の内容で若干の違いがみられる。『往生要集』の五衰は、1頭上の華鬘が萎む、2天衣に塵垢が着く、3腋下に汗が出る、4両目がしばたく、5住まいを楽しまず(不楽本居)であるが、『浄土への道標』では五番目が「不楽本座」となっているだけで、他の経典に比べて一番近かった。
3.2.2 賢愚経に関わる話
・国訳一切経本縁部七(昭和5年発刊)P223、『賢愚経』35、「尼提、度する縁の品」:便処理を営みとしていた尼提が、釈迦牟尼のお目にとまり、徳を積むという話であるが、前半部分で一致点が多い。経典では尼提の前世譚が書かれている。
・国訳一切経本縁部七(昭和5年発刊)P138、『賢愚経』20、「難陀の一灯」:有名な「貧者の一灯」の話であるが、経典には難陀や釈迦の前世譚が語られている。
・国訳一切経本縁部七(昭和5年発刊)P176、『賢愚経』27、「迦旃延、老婆を教へ貧を売るの品」:迦旃延が、布施するものが何もないという老婆に説く話であるが、『浄土への道標』では「念仏を唱える」などとあり、多少の違いがみられる。
3.2.3 法句譬喩経に関わる話
・法句譬喩経悪行品第十七第二話(真理の偈と物語『法句譬喩経』現代語訳、2001年発刊):釈迦牟尼の「九横の大難」の一つで、「琉璃の殺釈」といわれている。コーサラ国のビルリ王に釈迦族が殲滅された大難である。いくつかの経典で言及されており、災難を恐れた目連尊者が人々の救済方法を釈迦に進言したが、「釈迦族の宿縁が熟して、その報を受けようとしている」と言って申し出はすべて斥けられた。しかし目連は神通力によって4,5千人の舎衛国人を鉢の中に入れて虚空の星宿の際においたが、ビルリ王の進軍後に多くの人々が殺された。目連が舎衛国人を救ったことを釈迦に報告すると、確認してみよと言われ、鉢の中を見てみるとみな亡くなっていた。釈迦は「生老病死など七事は免れることはできない」と目連に説いている。『浄土への道標』には、1ビルリは第二皇子であり、兄を殺して王位についた、2鉄鉢に入れて5千の人を虚空に上げたがすべて亡くなっていた、3「生老病死禍業因縁はどうすることもできぬ」と七事について記載されており、引用元は法句譬喩経であると断定した。
・法句譬喩経無常品第一第六話(真理の偈と物語『法句譬喩経』現代語訳、2001年発刊):仏説四不可得経にも説かれているが、神通力を持つ四人の兄弟が寿命の尽きることを知って空中、市中、大海、大山に身を隠した話である。『浄土への道標』での隠れた順番は、空中、海の底、須弥山、町中となっており、須弥山がでてくることから引用は法句譬喩経と判断した。
3.2.3 法華経に関する話
・譬喩品第三『三車火宅』と信解品第四『長者窮子』:『長者窮子』の話を「三車一車」として説明しているなどの間違いはあるが、話の内容は概ね経の本筋とよく合致する。小乗よりは大乗が重要であることを説いている。
・56年版の昭和7年第7回2月6日にでてくる話であるが、方便品第二にある「我は、仏願をもって観じて六道の衆生を見るに貧窮にして福慧なし 生死の険道に入って相続して苦絶えず」とほぼ同じ文章が記載されている。『浄土への道標』には「華厳経の終りの方に」と書かれており、明らかな間違いがみられる。
3.2.4 その他の経典
・国訳一切経本縁部七(昭和5年発刊)P34,『百喩経』54、「蛇の頭と尾と共に前に在るを争う喩」:経典よりは『浄土への道標』の方が長く、教訓が述べられている。百喩経からの引用はあと1,2ケ所あり。
・金光明最勝王経第六巻『妙憧』:釈迦牟尼が自ら「私は80歳で成仏する」と述べたところが一致する。
・大般涅槃経(昭和11年原田霊道著『新訳 大般涅槃経』P229)、『第17 解脱道の十徳(高貴徳王菩薩品)四、闡提の成仏』:四匹の蛇、逃げる臣下と追う五人の旃陀羅、六人の盗賊や行手を阻む大河や渡河のための筏の話であるが、喩の部分では一致点が多い。
・仏遺教経『大八人覚』:「汝達比丘、若し諸の苦難を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。知足の法は、即ち是富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すと雖も、猶お安楽為りとす。不知足の者は富めりと雖も而も貧し。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の憐憫する所と為る。是れを知足と名づく」という知足についての説明であるが、ほぼ同じ文章が『浄土への道標』の見出し「知足」で書かれている。
・中阿含経中阿含大品十九善生経第十九の「六非道」の話:南伝仏教の『シンガーラの教え』にも「財を散ずる六つの門戸」という題名で出てくる。六非道とは、1飲酒、2夜に出歩く、3祭礼舞踏などの熱中する、4賭博など、5悪友、6怠惰とあるが、4、6が『浄土への道標』で一致した。

4. 結果と考察
林領一夫婦には仏教的知識があるという自覚はまったくなく、しかもナルコレプシー(睡眠発作と入眠時幻覚を特徴とする疾患)のように急に睡魔が襲い、トランス状態に至り、話し方を変えがなら複数人からの情報であるかのように語り出す。それを教養のある妻が鉛筆で速記し、翌日あたりに筆で清書していた。難しい漢字は林の魂か林に憑いた霊か、または途中まで同居しており多少の知識のあった妻の実父に聞いている。このため意味と価値のある文章が現代まで残された。
大正6年に漢訳経典が国訳大蔵経として和訳され始め、昭和5年には多くの経典が国訳一切経として一般に読めるようになったが、霊告はその年から始まっている。林領一か量子が国訳経典を読んでいたのではないかと勘ぐってしまうが、その場合では祖父母、曾祖父みなが嘘をついたことになる。また清書版には量子が「自分で速記した」「なるべく正確に速記した」と書いているし、当時は両親と同居はしていても5歳と3歳の幼児を抱えていた。霊告は多い時で連夜に渡り、「翌日清書しようとしたが」という量子の記述もあり、速記したメモもみつかっている。また清書版に書かれた林量子の文面にも、その一部を代理で清書した実父の文面にも国訳経典の話は一切出てこない。国訳経典などを読んでそれを写したにしては引用元についての記載に正確性が欠けるところがみられる。(『覚如上人拾遺古徳伝絵詞』を『拾遺古読本』としたり、『賢愚経』を『賢愚禄』としてみたり、『八大人覚』を『大八人経』としてみたり、『天寿国繡帳』を『天寿国曼荼羅経』としてみたりなど)。林領一が語った仏教に関わる多くのことは、時に一言違わず、時に大筋では経典に似るものの「念仏」の重要性を説くものになっており、この点も国訳経典を写したこととは異なる。当ブログ120日目に記載しているように、祖母とその実父が祖父の語った文言について話し合っている時に、トランス状態の祖父からの解説が加わっている。そして清書版に書かれた言葉を祖母が自信がないために56年版では省いていた。これらのことから、総合的にみても漢訳経典を読んで人為的に作成したとは考えにくい。
56年版の昭和5年57回11月22日の終りの方に、林領一は覚醒後「自分はずっと以前、前世の時に高僧に生れて多くの衆生を済度した。あれから長らく浄土に居て、此度済度の為出て来れり。」との記載がある。当ブログ21日目の昭和5年第9回10月4日には「(〇)(=林が語ったとされる印)何かしら喉に入った。ああ印度と云うは暑いですね、これが印度ですか、よう来ますね、ああガンジス河が流れて居る、ここがブタガヤで御釈迦様が御修行なさった処じゃ菩提樹が有る。向うの方に見えるのは・・・」との記載。ネット版・改訂版では昭和5年第14回10月18日に「今から三千年前の昔の御修行がありありと思い出されて仏様の御修行を話させてもらった」と言ったあと、子どもたちに言及している。改訂版・ネット版の昭和6年第33回3月16日には、自分の心情を吐露したあと「私は前世はインドの国にいたが、中々暑かった。今生は豊葦原瑞穂国に生まれた。この内に因縁あって来た」との記載がある。覚醒後に語ったり、子どもの話などをしながら語っていたりするところを見ると、林領一の本霊が語っているようにみえる。林領一の妻の量子の実家の菩提寺が浄土真宗大谷派であり、『浄土への道標』には浄土真宗に関わる話が多くでてくることから林領一の前世の一つは大谷派の僧侶と考えられたが、特定するヒントは得られなかった。
 トランス状態は変性意識状態とも呼ばれ、瞑想や催眠、強度の疲労などで現れる。催眠では「意識野が狭窄」して、被暗示性が亢進してくるといわれているが、意思決定や問題解決などをつかさどる前頭葉前野から、心理的葛藤を調整する前部帯状回が分断されていることがfMRIなどで確認されたという報告がある5)。巫女型霊媒や林領一の霊告のような心霊現象に対しても、同様の検査で霊が作用する部位やその作用によって活動してくる脳の部分は判明するかも知れないが、霊がどのような機序で物質であるはずの脳に影響を与えるかは分からないであろう。心霊研究においては、事例報告も重要ではあろうが、量子脳理論や超ひも理論などの近代物理理論からの推論も必要と考えているが、当ブログが終わった訳ではないので発表者はその続きをして行かなければならない。

まとめ
1 発表者の祖父の霊告を祖母が速記してまとめた『浄土への道標』について述べた。
2 この本にでてくる数々の仏教説話を調べた結果、浄土真宗的な色彩は濃いものの、もとの経典の多くを確認することができた。
3 『浄土への道標』の信憑性と、祖父の前世についての考察も行った。
4 霊告・霊訓の中でも、このように仏典について数多く語る例を発表者は知らない。

参考文献・資料
1) 林量子編集『浄土への道標』、昭和56年9月発刊
2) 林量子著、みなもとしん編集『仏界交信 浄土への道標』、2013年2月発刊
3) 浄土への道標、URL:http://minamotonoshin.life.coocan.jp/
4) 涅槃への一人旅、URL:https://blog.goo.ne.jp/afvqv103
5) 大谷彰、催眠誘導ハンドブックP149、2013年金剛出版発行

124日目 説明⑯“聖道門と浄土門(2)”

2022-12-18 10:13:21 | 宗教
123日目で説明したように、“聖道門と浄土門”の二回目の話しは、昭和5年第49回の11月14日夜に始まっている。清書版の始まりは短い。

 聖道門と浄土門との御説教(続き)

宵に(量子の)母一人でひねっている。量子草臥れてうとうとしている間 別に何のお話しもなかりし由。
起こされて目を覚ます。△△(柳ケ瀬)の来らるるのを御待兼だったかの如く室に入り床につくとすぐにお話声あり

以下、ネット版・改訂版の本文が続く。

 “聖道門と浄土門”についての理解は、浄土教では後者が重要なのは明らかであるが、林領一も話をしながら「迷って来た」との発言があるように、昭和5年第46回目と49回目の記事でも寝言の速記のためもありなかなかその内容が分かりづらい。それで、46回目11月10日にその説明のために引き合いに出された“刈萱(かるかや)道心と石堂(いしどう)丸”、“山伏弁円”、“日野左エ門の御教化”の説話を調べてみた。

【刈萱道心と石堂丸】
・13世紀頃、仏教説話として語られるようになり、様々なバリエーションがあるらしいが、本家本元と思われる高野山刈萱堂で購入した“刈萱と石堂丸絵傳”(著者は徳富元隆、発刊は大正13年前後と思われる)からその話の概要をまとめてみた。
・今から800余年前、筑前の守護職加藤兵衛尉繁昌が、「石堂川の地蔵堂にある石を妻に与えよ」との夢のお告げにより、やっと授かったのが繁氏、こと刈萱道心である。
・繁氏はある武将の娘桂子姫を妻に迎えたが、たまたま出会った亡き父の友の娘である千里姫の美しさに引かれ、妾にした。
・千里姫は繁氏の子供(石堂丸。ちなみに繁氏の幼名でもある)を懐妊していたが、桂子姫による暗殺計画を知って、侍女の兄の住む播州に身を隠した(この時、桂子姫の部下が「忠義のためなら命を捨てる」と言う別の娘の首を、念仏を唱えつつはねている。後にこの部下も出家)。
・もともと世の無常を感じていた繁氏は、桂子姫の部下に事情を聞いてから自分の不徳を恥じ、出家を決めた。桂子姫は夫の出奔に恨み悶え、その後に狂い死にした。
・高野山で「一旦捨てた浮世には思いをかけぬ」を誓い、覚心上人の弟子となり、円空坊等阿と名乗った。この時、繁氏21歳。
・夫や父を慕う気持ちから、千里姫は14歳の石堂丸を連れて高野山へと向かった。
・高野山の麓に辿り着いた二人であるが、女人禁制のため石堂丸だけが山を登った。
・石堂丸は奥の院で出会った僧侶(繁氏)に父の所在を尋ねたが、「繁氏は先日亡くなった。」と言われ、その墓を示された。石堂丸は「余りに嘆くは父君の後生のさまたげになる。母親を大切に」と諭され、下山した。繁氏は数珠をつまぐり合掌して見送った。
・麓に降りると母は既に32歳で亡くなっており、山で会った親切な僧侶を頼りに再度高野山に登った。
・石堂丸は刈萱堂で繁氏の弟子となって出家したが、ついぞ実の父親であることは知らされなかった。
・繁氏は、親子地蔵尊を製作・入魂して、厄除けとして堂内に設置した。


【山伏弁円のご済度】
・覚如上人の『親鸞聖人伝絵』に書かれているが、親鸞聖人が関東でのご教化の頃の話であり、日野左エ門とほぼ同時期の説話である。
・仏法に怨を持っていた山伏弁円は、親鸞聖人に危害を加えようとして板敷山々中で待ち伏せしていたが、どうしても会うことが出来なかった。
・刀杖を手にはさみ、自から聖人のいる稲田の草庵に押し入った。
・聖人は、ためらいなく弁円の前に出られた。それを見た弁円は、親鸞を殺害しようという気持ちが忽ちなくなってしまう。

【日野左エ門の御教化】
・ネットで調べてみると、茨城県陸奥の枕石寺がヒットした。この寺は関東の真宗二十四輩と言われる鎌倉時代からの古寺であり、開基が入西房道円こと日野左衛門尉頼秋である。明治44年発刊の佐竹智應編『御開山聖人御傳記繪鈔』に詳しく書かれているので、それを要約する。
・日野左衛門尉頼秋は時に遇わず、流浪して常陸国に至る。1216年11月夜、親鸞聖人一向が雪の中を訪れ、宿を請うた。
・断られた聖人一向は、門前の石を枕にして横になっていたが、夫婦そろって有難い夢を見た日野左衛門は驚愕し、一向を棲家に招き入れた。
・聖人の他力本願の教えを聞いた夫婦は立ち所に信者となり、日野左衛門は入西房道円と名乗った。

刈萱道心は京都・黒谷の法然聖人の元で弟子になった、など逸話にはバリエーションはあるが、高野山の絵伝を元にすると、出家して世俗を完全に捨てるというところは聖道門に通じる。一方、“山伏弁円”“日野左エ門”はともに親鸞聖人の関東ご布教時代の話であり、仏道と世俗との共存を説く浄土門の話であろう。祖父・林領一も聖道門と浄土門との説明に迷いがあったように、世俗として過ごしながら仏道に則った生活を送ることは極めて難しいことなのであろう。末法の世の中(仏法の教えだけが残る時代)では、我々凡夫には浄土門でしか救われない、極楽往生出来ないことが浄土教の教えであるが、阿弥陀如来の本願だけを信じることの難しさを伝えているように思う。

今回も前回と同様、仏典の出所についての記述はほぼしていない。仏教的な説明はあと数回で終わる予定であり、その後はこのブログで記載してきた現象の脳科学的、精神医学的な説明を行い、次に高校レベルの知識から現在勉強している物理学の視点ではどのような仮説が立てることが出来るかを述べていきたい。ただ後者については、健忘、記銘力低下、判断・理解力低下などの老化現象および寿命との競争になるため、保証は出来ません。

123日目 説明⑮“聖道門と浄土門(1)”

2022-10-21 21:30:59 | 独り言
 “聖道門と浄土門”は、ネット版・改訂版の昭和5年46回11月11日と、49回11月14日(後半の欠落部分はこのブログの43日目に追加で説明しています)の2回に亙って話されている。どちらも1時間はかかるような長い話であるが、このブログの14日目にも「刈萱道心と石堂丸」について触れたように浄土教においては重要なポイントらしい。ネット版・改訂版で掲載できなかったところをブログで補ってきたが、細切れになってきて私も混乱してきた。そのため46回と49回の全文を載せようかと思ったが、あまりにも文章が長いため、今まで通りの補填で繕うことにした。
まずは“聖道門と浄土門”の一般的な知識について説明したい。私が今受けている仏教の通信教育ではレポートを提出しないと進学できないが、二年次のテーマが『龍樹菩薩の教え(難易二道)について述べよ』(900字以内)であったため、提出したものを末尾に掲載したので参考にしてほしい。

 さて、昭和5年46回の11月11日午後8時、以下の記載で清書版が始まっている。
 
 本日、林の身内より林の兄嫁林○○ 林の生母の実家の人香田○○、二人来客有り。
少し御不快の御様子 附近の薬局にてノーシンを買求めおのみになった。
父窪田(義父)枕頭にて我建超世願―――読経
 やがて 
「フン △△(香田関係の親戚の名)は来とらまい どうしゃしらんが
 △△は来とるか あれは仲々よう参らして貰わんわ
 △△が来とらなんだら呼んでやってくれ」
  早速電話をかける
 「遠慮して出てこんなん様ではいかんわな
 矢張内中のものが喜ばんで 可愛想じゃなあ
 フフン たのむ
ごそんごそん(ママ)とやかましい ふふん」
 10分程たって
「向うの家に誰かよぼっておらんかな」とのお声。柳ケ瀬〇丁目の香田△△急いで来る。
 ややあって
「△△をつれてやって来ました どうぞ聞かしてやって」
 
 この後に改訂版・ネット版の“聖道門と浄土門①”の話が続いているが、またまた欠落部分に気が付いた。このブログ40日目の昭和5年第44回が11月9日であり、41日目は同年同月12日の47回目であるが、今回の46回目11月11日の後の記録が改訂版・ネット版に掲載されていなかった。少し長いが、追記しておく。

【ネット版・改訂版、昭和5年46回11月11日後半の欠落部分】
 亡祖父(窪田○十郎、量子方でブログ作成者の曾々祖父) 所感
(祖父) ようしてやて呉れたな、もう嬉しくて嬉しくて
   △△よく聞いたか
   浄土門の話、始終忘れん様に、腹立ったら南無阿弥陀仏 夜昼常に守るなり、南無阿弥陀仏唱うれば悪鬼退け、念仏申す処悪鬼が近寄らず、自から人柄が出来る。信を得さして貰ったら困らしてやろうと思って来ても自然に頭を下げてしまう。
(祖父) 私は嬉して嬉して、わしは浄土で聞かせて貰って喜んだ。
(〇)其処を取逃がした者は迷の中から
(祖父) わし等の居る時(存命中)そんな話聞けなかった、つまる処は其処じゃ、わしはもう嬉して嬉して感謝の日を毎日送らして貰える、もう短かいから余り御世話かけない様に
この次の不思議が表われたら罪の深い者は最後じゃ、どうぞ喜こばっしゃいな。
有難うございました、今日はお疲れでしたで誰も出て来ん様に。
(〇)遠い所から寄って来るとえらいが苦しい中からしてやりました。私の喜びは此の上もございません。
なに どうしました。
  南無阿弥陀仏唱うれば四天大王守りつつ萬の悪鬼を近づけず
  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 なに、よう聞いて呉れたな
  草臥れたで休ませて貰うわな。
父 我建超世願…… 読経
一同退出 やや過ぎて
(〇)△△もひねらせなさい、との事
 其の後寒気がして慄え出す、此の時母○○(量子の母)傍にありてひねって居たら不思議にも汗が身体中出て勿体なくも温まれたり。

8行上に記述されている「南無阿弥陀仏唱うれば四天大王守りつつ萬の悪鬼を近づけず」は、浄土和讃101(浄土真宗聖典-勤行集(小)-P42)にある。本文は「南無阿弥陀仏をとなふれば 四天大王もろともに よるひるつねにまもりつつ よろずの悪鬼をちかづけず」で、ほぼ同じ文書であろう。
今回は、超常現象の裏取りについての説明はほとんどなかったが、次回も“聖道門と浄土門”についての説明を続けたい。

【龍樹菩薩の教え(難易二道。聖道門と浄土門)について】・・・通信教育で提出したレポートに一部、説明を追加しています。
龍樹菩薩は、紀元150年頃に南インドに生れた。釈尊が『楞伽経』(龍樹菩薩が生まれたあとに成立した経典らしい)に、「有無の邪見にとらわれず・・・大乗の無上なる法を説き・・・念仏の教えに帰して安楽国(極楽浄土)に生まれる・・・」と予言した。龍樹菩薩はその通りの人生を送り、『中論』、『大智度論』、『十住毘婆沙論』などを著した。このため、日本仏教の『八宗の祖』、浄土真宗『七高僧の第一祖』と仰がれている。
浄土真宗では「聖道門と浄土門」とが説明されているが、道綽禅師(浄土真宗第四高僧)は『安楽集』のなかで、「末法の世では浄土の一門のみがただ一つの出離の道である」ことを明らかにされた。これを受けて、親鸞聖人は『正信偈』のなかで「末法の世においては、証し難い聖道門とは決別し、ただ浄土門のみが易く行ける道である」ことを明らかにされたが、この「証し難い聖道門」と「易く行ける浄土門」との難易二道に分けて説かれたのが龍樹菩薩であり、『十住毘婆沙論』の「易行品」にその内容が説明されている。
 龍樹菩薩は自ら問いを設けられた。「菩薩が初地(菩薩の最初の段階)に至るためには、堕する恐れのある諸々の修行を、久しく永い間しつづけなければならない。このような諸・久・堕の三難のない、易しい仏道修行の方法はないものだろうか」と。これに対し、「十方十仏の名号や阿弥陀仏等の諸菩薩の名号を聞信して、これを称するという仏道修行がある。これで、一念に本願の船に乗せていただいて、速やかに必ずお浄土への確かな道を歩ませて頂く身になるという一・速・必の信方便の易行がある」ことを説かれた。
 龍樹菩薩が、十方十仏のなかでも特に阿弥陀仏を重視したのは、「もし人われを念じ名を称してみずから帰すれば、すなわち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提(説明)を得」という阿弥陀仏の本願によるところである。親鸞聖人は、龍樹菩薩の教えを「信心正因・称名報恩」と受け取られ、「二道の鴻判は南天の功」と仰がれて「正信偈」「高僧和讃」の中で讃えておられる。

122日目 説明⑭“天人五衰”

2022-09-14 22:04:41 | 宗教
 昭和6年第77回目の11月20日、改訂版・ネット版では“火と水”のタイトルで書かれているが、珍しく書き出しから清書版との違いがまったくない。文章も短いため、前文を載せておく。

 そこで臨終の有無と云う事に話は及ぶが誰しもこの断末魔の叫びがある、如何なる高位高官爵位のある者も貧しい者も富んで居る者も一様に断末魔の叫びが起る、人間から……
ここにお出での方は凡夫よりも喜ばれた方ばかりじゃが、天上界にも断末魔の叫びの代りに五つの憔悴がある。第一には頭上の華蔓が萎む、二つには天衣が垢づき光が消える、三つには腋の下に汗が出る、四つには目の光がなくなり両眼がしはただく(ママ)、五つには本座を楽しまず、詳しく云えば華蔓が萎むとか水滴が出来るとか体臭がつくとか云ってやはり天人も死の直前に際して五つの憔悴がある、人間の中でも何時迄も病床に呻吟して看護して貰う人もあり、朝には元気で野良に仕事に出て夕べにはむくろとなって帰る人もある。そう云う楽な往生を遂げた人は断末魔の叫びがない、人間の体は火と水から成って居る。熱がするのは水の欠乏であって、ぞみぞみするのは火の欠乏である。彼の平清盛の臨終は水をかけたと云う話があるが、あれは水の欠乏である、頭寒足熱と云って………
人間界に生を受ける人は………人間界から天上界に行く人は心臓の鼓動が何時迄もぬくといと云う事である(胸の温まりが続く)

 「天上界の断末魔」をネットで調べてみると、林典佑氏の【天人五衰~三十三天の神々が死期に受ける苦しみ】というブログで詳しく語られていた。「天人五衰」については、増一阿含経、大毘婆沙論、法句譬喩経、正法念処経、仏本行集経、大乗理趣六波羅蜜多経、瑜伽師地論、大般涅槃経、摩訶摩耶経(偽経らしい)、往生要集で語られていると。
 私のブログの流れからも、当然引用元は“法句譬喩経”と思われた。他の譬喩を探すためにも身銭を切って、『法句譬喩経』現代語訳、「真理の偈と物語(上)」を6千円で購入。2001年初版発刊の本であり、(下)は高価なため、購入せず。そこでは、第一話の無常品第一に天人五衰と同じような記載があった。それを記すと、
 「昔、帝釈天は、五種の徳が身から離れていった(五徳離身)ので、『命が尽き、下って世間に生まれるであろう、陶器作りの家で、ロバとしての胎を受けるであろう』と、自ら知った。何が五種の徳(の衰え)なのであろうか。第一は、身体の表面の光が消えたこと(身上光滅)。第二は、頭の飾りがしおれること(頭上華萎)。第三は、これまで坐っていた座席が不快になったこと(不楽本坐)。第四は、腋の下で汗が出て異臭を放ったこと(腋下汗臭)。第五は、土ほこりが体についたこと(塵土著身)である。この五つの出来事によって、自ら、幸福が尽きようとしているのを知ると、たいそう憂えて、『三界の中で、人々の災苦を救えるのは、ただ仏のみであろう』と、自ら考えた。かくして、仏のもとに馳せ参じた」と話が続いている。
 
 “浄土への道標”の五つの憔悴の記述と若干異なるため、再度林氏のブログに戻って調べてみた。他の経典でも五衰の内容は良く似ているが、第四の「身体が汚れて臭くなる」の記述で異なってくる場合が多いとある。そこの代わりに、増一阿含経では「側近の女性達が逃げ出す」、法句譬喩経 では「身体から出ている光が弱くなる」、仏本行集経では「身体から出ている光が弱くなる」、摩訶摩耶経では「両眼のまばたきが多くなる(四者兩目數瞬)」、大乗理趣六波羅蜜多経では「両眼のまばたきが多くなる(四者兩目數多眴動)、往生要集でも「両の目しばしば眴(まじろ)く(四兩目數眴)」とある。
 “浄土への道標”でも、「目の光がなくなり両眼がしはただく(ママ)」と瞬目についての記載があるが、五衰の出てくる順番や記載内容全般について最も近いのが大乗理趣六波羅蜜経と往生要集と思われた。往生要集の五衰は、1 頭の上の華鬘(はなかずら)たちまちに萎む(一頭上華鬘忽萎)、2 天衣、塵垢に着せらる(二天衣塵垢所著)、3 腋の下より汗出づ(三腋下汗)、4 両の目しばしば眴(まじろ)く(四兩目數眴)5 本居を楽(ねが)はず(五不樂本居)である。
 せっかくなので、大般涅槃経でも確認することにした。117日目のブログで紹介した「新訳 大般涅槃経」(原田霊道著、昭和11年5月発刊)を調べたところ“天人五衰”は見つからず。その本の序文を読んでみると、大般涅槃経にも色々あるようで、すべてが現代語訳されている訳ではないことが分かった。それで大蔵経データベースを調べたところ、大般涅槃経十九に「一者衣裳垢膩(えしょうこうじ)。二者頭上華萎(ずじょうかい)。三者身体臭穢(しんたいしゅうわい)。四者腋下汗出(えきげかんしゅつ)。五者不楽本座(ふらくほんざ)」の記述を発見。「身体が汚れて臭くなる」は三番目に記載されており、「両目瞬目」は見つからなかった。
 偽経と言われている摩訶摩耶教は別にして、大乗理趣六波羅蜜多経と往生要集が“天人五衰”の内容、記載の順番がほぼ一致していることが分かったが、前者は8世紀に中国で編纂された経典であり、後者は10世紀に比叡山で源信和尚により著されたものであるため前者を引用したものと思われる。ただ両者とも、五番目は「不楽本居」になっており、“浄土への道標”や大般涅槃経で語られている「不楽本座」と一字だけ異なっている。まあ浄土真宗に所縁のある林領一のエネルギー体が往生要集に精通しているのは当然のことで、また今までのブログでも書いてきたように法句譬喩経、大般涅槃経なども読んできており、このくらいの記述の違いは起こりえるものと思われた。