涅槃への一人旅

中年過ぎのオジさん、家族は独立して好き勝手にやってます。人間、死ぬときは一人。残った人生、もっと勉強してもっと知りたい。

115日目 本文の追加と説明⑥“蓮如上人”

2022-02-25 16:44:36 | 宗教
私も浄土真宗の通信教育を受け、ある程度は仏教のことについて分るようになってきた。林領一のエネルギー体は、「前世は高僧であった」と言っており、話している内容から浄土真宗との所縁が深い人であったのは確かと思われる。第111日目では、『教行信証』『高僧和讃』、第113日目では『覚如上人拾遺古徳絵伝』について触れた。
第111日目で説明した本願寺派『浄土真宗聖典-勤行集-(小)』の「明日には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」の文章は、そもそも蓮如上人の御文章五帖十六に由来している。祖父のエネルギー体がこの勤行集と御文章のどちらを引用したかは判断できないが、その他にも蓮如上人に関わる話しがいくつか出て来るため、それらを紹介したい。

まずはネット版、改訂版の昭和5年11月8日の第43回。タイトルが“番頭”で話が始まっているが、話の途中で掲載が途切れている。ブログの40日目も、11月9日から始まっており、その間の記録が抜け落ちていることに気が付いた。で、下記にそれを示す。

【第43回 昭和5年11月8日“番頭”の続き】
若い青年は仲々喜こばんが、年寄ってからでは、御一代聞書又は御一代聴聞書にも有るが「若き時に念仏を得られ候」と云う事有り、若い時に、「年寄りては行歩も叶わず、眠気を催ほし候」よく眠らっしゃるのじゃな、寺に参るとよく御存じじゃ、年寄っては寺参りも自由でない、年のせいで眠ってしまうからどうしても若い時に真から喜こばして貰わなならん、少し位寝んでも何とも無い。わし一晩中殆ど寝ない事有っても何とも無い、其処で若い時、今の若い者は一週間の日曜を一週間の洗濯せなならんとして、洋食屋や芝居に入ったりして、それではいかんそれは業を作りに行く、其の暇に喜こばして貰う、さて其の暇じゃ、心を清めないかん、心の洗濯せないかん、昔は糠を使った。今洗濯するにも石鹸使いいくら風呂へ入っても垢落ちん、如来様のここ迄来たら一刻も取逃がしていかん、念仏唱えて居れば親子夫婦他人同志、まして喧嘩無い、腹立っても直に念仏唱えれば、八万四千の悪業は皆消滅して喜び喜びに充たして貰う、其の喜びをなあ、満喜光と云う 仏様が、喜こび喜こび念仏唱えれば貪慾、強慾も消え、八万四千の光明に照されても現在に於て立派な人高徳の人、まして未来では信心決定さして貰う、疑ってはならん、喜こび喜こび充ちた生活さして貰った、如来様のお蔭で一日無事暮さして貰った自分自身 罪も障りもこのまま着のみ着の儘で御助け願える。其の万分の一の御報恩の為に何をおいても称名念仏して、其の日其の日を暮さして頂く、自から人格が出来る。人と人と争うと自分が恥づかしい事じゃ、業なる事じゃと気がつく、そこ迄いかないかん。
わしは学問が無い、あいつ喜こんで居るで困らしてやろうと思ったけれど、二口三口しゃべる内に、ああわしが悪かった悪かったと赤い顔して帰って行った、お前気持ちが悪いかと云ったらああ悪かった悪かったと云って帰って行った。真に仏様の心が出来るとわし 心の中はどんな人にもわし 娑婆の人にはどんな心、娑婆の人と話すると、時によると嫌になる事もある。しかし如来様より、汝衆生を済度すうべしとの事に、
けれどわしの寿命も尽きて二、三日の中にお暇を貰う事になって居たら「汝の寿命まだまだ遠いぞよ」と云って如来様御身代りとしてわしは残った(十一月六日の事)
わしは、浄土に居る わしは正覚とらじと誓ってどうぞ喜こんで下さい。顔向け立たん、皆さんはどうぞ喜こんで下さい。南無阿弥陀仏の功徳に依って信心決定されて往生と決まる、おお有難や、勿体なやと毎日弥陀の実現を自身に実現さして貰って。
 此の時傍で聞いておいでになった仏様が(弥八地蔵様らしい)
仏 ご苦労だったな、草臥れてえらかった。時に皆が涙を出して居るこの話、よく聞かっしゃい。
今の喜こびを忘れていかん、之を機会にどうぞ喜こんで下さい。
毎日毎日寺へ参れと云うのじゃなし、南無阿弥陀仏
ひいてそれがなあ、信心決定さして貰ってこの方に届けさして貰うのじゃ。
仏 けれどもこの方の寿命は、もう短いぞえ、それを聞いて貰わな。
仏 どうぞ喜こんで呉れよ、わしも一寸用事あるから帰る、どうぞ。薬師も御守りして居るし、わしもどうぞ大切に。
○ それでは御別れします、さようなら。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  午後9時15分前
四、省略す
五、祖父(妻)の霊との物語
祖父 〇〇でございます。
○ おお〇〇さんか。
祖父 先程は有難かったなあ。
○ いいえ、どうしまして。
祖父 皆さんが喜こんでおいででした、一寸御許しを得て出て来ました、よくお話してやって下さったけど、又今日は私の身内、あなたの身内引寄せて、よく話してやって下さった。
娑婆から壁一重、一生一度の喜び。此の機を逃しては。
○ よく皆さん喜びなされたなあ、そう云うてもわしの姿も声も聞えないあなた、別にむつかいし話じゃない。
大きな船へ、小さな舟に乗って、「さあ乗ったら連れて行ってやる」とおっしゃったら、何の疑いも無し、わだかまりも無し、上手にやって呉れるか知らん、疑も何もいらん。
有難い事じゃな、勿体ない事ですな 南無阿弥陀仏
時があれば御報恩の為、南無阿弥陀仏、暇まる時でも南無阿弥陀仏。
喜び喜びの生活を喜こばして貰う、之が仏様を実現するのだ。
極楽の空にひびき渡る果てしも無い諸菩薩も聞かれた、どうぞ此の機会に仏縁を結ばして貰って聞かっしゃいな。
おお幸せの事じゃ。
祖父 家族も毎日毎日御苦労さんじゃ、どうぞ一生懸命其のつとめをやって呉れ。
○ どうぞあなた方が如来に。
祖父 どうぞやっておくれよ、頼むぞ、しばらくの暇も貰って出て来たわ。
○ お祖父さんお別れかな。
祖父 尽きない話、さようならさようなら御身体を大切にして下さい。
   南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
やや過ぎて
○ ああ、やっと寝ましたな、ああ寝た、やかましい事云いなさるな、
 此の頃枕元に線香をたく事にす(魔よけの為、幾分御楽な御様子)
○ 良い匂いがするな、「香は仏の使いなり」と云ってよい香がする、香をたくのは仏の使いと云う、数珠は百八の煩悩を断つと云って皆いわれがある。一に帰依仏、二に帰依法、三に帰依僧と言って、百八の煩悩を断って常に楽界を得べしと云う事なり、有難い事じゃな、
えらい咳なさるなあ、誰じゃ知らんが、もう休んで貰おうかな、わしも休ませて貰う、大分沢山来て見える、まあ皆さん休ませて貰うわな。
父(義父)、我建超世願…………………読経
礼をしてお喜びの御様子
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


やや長い挿入ではあったが、これから本題の説明に入りたい。
上記の追加文の冒頭に、蓮如上人の『御一代記聞書』の一文がある。これも本願寺派“浄土真宗聖典”を引用すると、同部位の記載は下記の通りであり、ほぼ同じ内容の文である。

蓮如上人御一代記聞書(P24)
(63)「一 仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあり。ただわかきときたしなめと候ふ。」

次にネット版、改訂版の昭和5年11月11日の“聖道門と浄土門①”の中にある記事。前半には上記と同じ内容の文章があるが、中盤あたりで、「親鸞聖人は念仏在家で申すも宜しい、お寺は寺で念仏申すもよい、念仏を申す所行住座臥に所嫌わず、又蓮如聖人は「獵、砂どりをもせよ」と仰せらる、念仏所嫌わず行住座臥に念仏申す所必ず仏あり、有難い事じゃな」とある。“行住座(坐)臥”というのは、“つね日頃”くらいの意味で、この“浄土真宗聖典”ではよく出て来る言葉であるが、蓮如上人の「猟、すなどりもせよ」は『御文章一帖三、猟漁の章』で出てきており、浄土真宗では「日常生活をしながら」を意味している一般的な用語と思われる。ただ、“浄土への道標”では、猟が旧漢字の“獵”になっているものの、“すなどり”が“漁”ではなく“砂どり”となっている。まあ“すなどり”の本来の意味が潮干狩りのようなものなら“砂どり”と当て字にしてもそう大きな間違いではないように思う。

最後に昭和5年12月10日の、ブログでは55日目“御在所岳”の記事。
「御一大聞書に、前々住聖人、仰せられ候。聴問心に入れ申さんと思う人あり、信をとらんずると思う人無し、されば極楽は楽しきと聞いて参らんと思う人は仏になれず、弥陀を頼む人こそ仏にはなる。」とある。
『御一代記聞書』(P43(122))には、「前々住上人(蓮如上人)仰せられ候ふ。聴聞心に入れまうさんと思ふ人はあり、信をとらんずると思ふ人なし。されば極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ。」とあり、テニヲハ程度の若干の違いはあるが、ほぼ同じ文章である。


全般的には、蓮如上人への言及は少ないが、一言一句とまではいかないまでも、ほぼ違いのない文章が引用されている。あまりにも引用元と食い違いが少ないため、逆に元本をそのまま写したのではないかとの疑いが生じてしまうが、その点については110回目に説明した通りである。この辺りがエネルギー体の本性の一部を顕しているのであろうが、その正体については今後まとめて記載する予定でいる。