われわれ仕事の世界もややこしく、60歳近いからと言って中々引退させてくれそうにない。今日はその関係で、新しい知識の吸収と資格の更新のため、東京まで行ってきた。
場所は飯田橋と市ヶ谷の中間あたりにある法政大学の一校舎を借りた。
関西在住で、ほとんど旅行に行ったことのない私にとって、その辺りの検討すらつかない。で、ネットで色々調べてみると、近くに『靖国神社』があった。テレビ・新聞ではよく耳にするが、この目で見るのは初めて。早速行ってみるが、警察官と特攻服の人たちが結構目についた。
拝殿の写真
少し下がると、日本一の鳥居が見える。
靖国神社自体としては、明治2年に建てられ、天皇を中心として近代国家を作り上げた人たちの御霊を祀ることが目的であるよう。第二次大戦で、我が国に甚大な被害が及んだことに意義をはさむ人はいないと思うが、その原因についてしっかりと本質を把握し二度と同じことを繰り返さないと断言した論説はいまだ知らない。
そして法政大学にある会場に向かう。そこの5階から外濠をはさんで望む新宿方向の景色。
翌日は東京スカイツリーに行くことにした。表紙の写真であるが、あいにく曇り空で遠景が悪かった。東京駅、東京タワーの方角を写した。
東京には“谷”や“橋”の地名が多い。江戸開発当時は沼地もあれば山川の凸凹もあったものと思われる。その昔の手書きの地図も掲示されていた。少し見にくいですm(__)m
続編は、ネット版にも書かれているように、林夫妻の年齢は79歳に達しています。次女家族が同居しており、祖母の記録の不十分なところを次女が補っているようですが、本編とは異なりその文体や正確さ、内容は大分異なるものとなっています。そして家族についての記載も多い。その辺りも考慮に入れて、読んで頂けると有難いです。
昭和56年5月13日
折しも量子、『浄土への道標』編集中の時、午後曙町自宅に於いて次女夫婦、量子と在宅中、表の玄関に一人の修行姿の僧が来宅された。
いつもは鍵をかけているがこの時は、娘の主人の実母が4月13日に死去し、お寺さんにきてもらい法要をしてもらうので玄関のドアはあけてあった。そのドアをあけて入ってこられた僧に、娘の主人が持ち合わせなかったので200円御志として差し上げたら声もなく一礼して立ち去られた。量子も丁度台所でこちらから御姿を排した。娘も何となく不思議に思って東方を見るといずれかへ立ち去られた後だった。夕方主人領一帰宅されその話をしていると、リンリンと電話の声。電話に主人が出ると、南無阿弥陀仏・・・・・…と唱えて今日は有難うとお喜びのお言葉、さては弥八地蔵様がご来臨下さったと一同感無量の出来事なりしを記す。
昭和56年9月13日
グランドホテル鳳凰の間に於て、『浄土への道標』出版記念パーティ。有志43名で「道しるべのつどい」を持つ。各人に『浄土への道標』とカーネーションを配布する。詳細は録音テープに収納して保持。その後、9月16日より主人親善訪問でタイへ仏跡参拝、参拝の前にも仏様より持って行く薬の用意とこまごましたご指示あり。
昭和57年3月21日~25日
出雲方面へフルムーン夫婦グリーンパス旅行で、計らずも一畑薬師参詣する。
昭和57年4月30日 晩 午後10時過ぎ
この日、妻量子、女子師範のクラス会にて不在。主人は頭痛くて眠くて仕方ない状態、その時勿体無くも去る3月22日の出雲路巡りの節、縁あって一畑薬師へ参詣致せしに次のお言葉を頂き、翌日夢中でお話しをうかがい次に書きとめておく。
昭和57年5月1日
私は一畑薬師でございます。此頃中は御二人で態々お遠い所へ来て頂いてお目にかかれてうれしかった。その時、石に経文を書いて頂いたのが光り輝いている。
元は日本からみえた三人のお寺さんに守られて、百済から奈良に行くため、舟にのって浜田港につく予定だったが、途中嵐にあい難船して一畑近くの赤浦海岸に打上げられたのを、信心深い与一に拾われたのである。
百済では薬心寺と云うお寺に祀られていた。分身を残して日本の奈良に向うのが海岸に打ち上げられた。(会式は9月6日)
御方丈は七寸八分の金仏さんで左肩にすりきずがある。蓮台の上に見えた左肩のきずは波にもまれて出来たのである。
石に二人して書いたのは無量の二字であった。後から長男に電話したら、一畑薬師は日本の三大薬師の一つだと初めて知る。後よりうかがうに、一畑薬師のおはからいらしい。
場所は飯田橋と市ヶ谷の中間あたりにある法政大学の一校舎を借りた。
関西在住で、ほとんど旅行に行ったことのない私にとって、その辺りの検討すらつかない。で、ネットで色々調べてみると、近くに『靖国神社』があった。テレビ・新聞ではよく耳にするが、この目で見るのは初めて。早速行ってみるが、警察官と特攻服の人たちが結構目についた。
拝殿の写真
少し下がると、日本一の鳥居が見える。
靖国神社自体としては、明治2年に建てられ、天皇を中心として近代国家を作り上げた人たちの御霊を祀ることが目的であるよう。第二次大戦で、我が国に甚大な被害が及んだことに意義をはさむ人はいないと思うが、その原因についてしっかりと本質を把握し二度と同じことを繰り返さないと断言した論説はいまだ知らない。
そして法政大学にある会場に向かう。そこの5階から外濠をはさんで望む新宿方向の景色。
翌日は東京スカイツリーに行くことにした。表紙の写真であるが、あいにく曇り空で遠景が悪かった。東京駅、東京タワーの方角を写した。
東京には“谷”や“橋”の地名が多い。江戸開発当時は沼地もあれば山川の凸凹もあったものと思われる。その昔の手書きの地図も掲示されていた。少し見にくいですm(__)m
続編は、ネット版にも書かれているように、林夫妻の年齢は79歳に達しています。次女家族が同居しており、祖母の記録の不十分なところを次女が補っているようですが、本編とは異なりその文体や正確さ、内容は大分異なるものとなっています。そして家族についての記載も多い。その辺りも考慮に入れて、読んで頂けると有難いです。
昭和56年5月13日
折しも量子、『浄土への道標』編集中の時、午後曙町自宅に於いて次女夫婦、量子と在宅中、表の玄関に一人の修行姿の僧が来宅された。
いつもは鍵をかけているがこの時は、娘の主人の実母が4月13日に死去し、お寺さんにきてもらい法要をしてもらうので玄関のドアはあけてあった。そのドアをあけて入ってこられた僧に、娘の主人が持ち合わせなかったので200円御志として差し上げたら声もなく一礼して立ち去られた。量子も丁度台所でこちらから御姿を排した。娘も何となく不思議に思って東方を見るといずれかへ立ち去られた後だった。夕方主人領一帰宅されその話をしていると、リンリンと電話の声。電話に主人が出ると、南無阿弥陀仏・・・・・…と唱えて今日は有難うとお喜びのお言葉、さては弥八地蔵様がご来臨下さったと一同感無量の出来事なりしを記す。
昭和56年9月13日
グランドホテル鳳凰の間に於て、『浄土への道標』出版記念パーティ。有志43名で「道しるべのつどい」を持つ。各人に『浄土への道標』とカーネーションを配布する。詳細は録音テープに収納して保持。その後、9月16日より主人親善訪問でタイへ仏跡参拝、参拝の前にも仏様より持って行く薬の用意とこまごましたご指示あり。
昭和57年3月21日~25日
出雲方面へフルムーン夫婦グリーンパス旅行で、計らずも一畑薬師参詣する。
昭和57年4月30日 晩 午後10時過ぎ
この日、妻量子、女子師範のクラス会にて不在。主人は頭痛くて眠くて仕方ない状態、その時勿体無くも去る3月22日の出雲路巡りの節、縁あって一畑薬師へ参詣致せしに次のお言葉を頂き、翌日夢中でお話しをうかがい次に書きとめておく。
昭和57年5月1日
私は一畑薬師でございます。此頃中は御二人で態々お遠い所へ来て頂いてお目にかかれてうれしかった。その時、石に経文を書いて頂いたのが光り輝いている。
元は日本からみえた三人のお寺さんに守られて、百済から奈良に行くため、舟にのって浜田港につく予定だったが、途中嵐にあい難船して一畑近くの赤浦海岸に打上げられたのを、信心深い与一に拾われたのである。
百済では薬心寺と云うお寺に祀られていた。分身を残して日本の奈良に向うのが海岸に打ち上げられた。(会式は9月6日)
御方丈は七寸八分の金仏さんで左肩にすりきずがある。蓮台の上に見えた左肩のきずは波にもまれて出来たのである。
石に二人して書いたのは無量の二字であった。後から長男に電話したら、一畑薬師は日本の三大薬師の一つだと初めて知る。後よりうかがうに、一畑薬師のおはからいらしい。