涅槃への一人旅

中年過ぎのオジさん、家族は独立して好き勝手にやってます。人間、死ぬときは一人。残った人生、もっと勉強してもっと知りたい。

87日目 靖国スカイツリー

2018-09-24 15:18:46 | 旅行
われわれ仕事の世界もややこしく、60歳近いからと言って中々引退させてくれそうにない。今日はその関係で、新しい知識の吸収と資格の更新のため、東京まで行ってきた。

場所は飯田橋と市ヶ谷の中間あたりにある法政大学の一校舎を借りた。

関西在住で、ほとんど旅行に行ったことのない私にとって、その辺りの検討すらつかない。で、ネットで色々調べてみると、近くに『靖国神社』があった。テレビ・新聞ではよく耳にするが、この目で見るのは初めて。早速行ってみるが、警察官と特攻服の人たちが結構目についた。

拝殿の写真


少し下がると、日本一の鳥居が見える。


靖国神社自体としては、明治2年に建てられ、天皇を中心として近代国家を作り上げた人たちの御霊を祀ることが目的であるよう。第二次大戦で、我が国に甚大な被害が及んだことに意義をはさむ人はいないと思うが、その原因についてしっかりと本質を把握し二度と同じことを繰り返さないと断言した論説はいまだ知らない。

そして法政大学にある会場に向かう。そこの5階から外濠をはさんで望む新宿方向の景色。


翌日は東京スカイツリーに行くことにした。表紙の写真であるが、あいにく曇り空で遠景が悪かった。東京駅、東京タワーの方角を写した。


東京には“谷”や“橋”の地名が多い。江戸開発当時は沼地もあれば山川の凸凹もあったものと思われる。その昔の手書きの地図も掲示されていた。少し見にくいですm(__)m



続編は、ネット版にも書かれているように、林夫妻の年齢は79歳に達しています。次女家族が同居しており、祖母の記録の不十分なところを次女が補っているようですが、本編とは異なりその文体や正確さ、内容は大分異なるものとなっています。そして家族についての記載も多い。その辺りも考慮に入れて、読んで頂けると有難いです。


昭和56年5月13日
 折しも量子、『浄土への道標』編集中の時、午後曙町自宅に於いて次女夫婦、量子と在宅中、表の玄関に一人の修行姿の僧が来宅された。
 いつもは鍵をかけているがこの時は、娘の主人の実母が4月13日に死去し、お寺さんにきてもらい法要をしてもらうので玄関のドアはあけてあった。そのドアをあけて入ってこられた僧に、娘の主人が持ち合わせなかったので200円御志として差し上げたら声もなく一礼して立ち去られた。量子も丁度台所でこちらから御姿を排した。娘も何となく不思議に思って東方を見るといずれかへ立ち去られた後だった。夕方主人領一帰宅されその話をしていると、リンリンと電話の声。電話に主人が出ると、南無阿弥陀仏・・・・・…と唱えて今日は有難うとお喜びのお言葉、さては弥八地蔵様がご来臨下さったと一同感無量の出来事なりしを記す。

昭和56年9月13日
 グランドホテル鳳凰の間に於て、『浄土への道標』出版記念パーティ。有志43名で「道しるべのつどい」を持つ。各人に『浄土への道標』とカーネーションを配布する。詳細は録音テープに収納して保持。その後、9月16日より主人親善訪問でタイへ仏跡参拝、参拝の前にも仏様より持って行く薬の用意とこまごましたご指示あり。

昭和57年3月21日~25日
 出雲方面へフルムーン夫婦グリーンパス旅行で、計らずも一畑薬師参詣する。

昭和57年4月30日 晩 午後10時過ぎ
 この日、妻量子、女子師範のクラス会にて不在。主人は頭痛くて眠くて仕方ない状態、その時勿体無くも去る3月22日の出雲路巡りの節、縁あって一畑薬師へ参詣致せしに次のお言葉を頂き、翌日夢中でお話しをうかがい次に書きとめておく。

昭和57年5月1日
 私は一畑薬師でございます。此頃中は御二人で態々お遠い所へ来て頂いてお目にかかれてうれしかった。その時、石に経文を書いて頂いたのが光り輝いている。
 元は日本からみえた三人のお寺さんに守られて、百済から奈良に行くため、舟にのって浜田港につく予定だったが、途中嵐にあい難船して一畑近くの赤浦海岸に打上げられたのを、信心深い与一に拾われたのである。
 百済では薬心寺と云うお寺に祀られていた。分身を残して日本の奈良に向うのが海岸に打ち上げられた。(会式は9月6日)
 御方丈は七寸八分の金仏さんで左肩にすりきずがある。蓮台の上に見えた左肩のきずは波にもまれて出来たのである。
 石に二人して書いたのは無量の二字であった。後から長男に電話したら、一畑薬師は日本の三大薬師の一つだと初めて知る。後よりうかがうに、一畑薬師のおはからいらしい。

86日目 生駒山々頂③

2018-09-17 17:24:02 | 山登り
サボっていた訳ではないが、暑さや天気の関係で、山登りは5週間ぶりになってしまった。しかも関西を襲った台風21号の影響が甚大であったため、もっとも安全そうな生駒山(大阪と奈良の県境で標高642m)に登ってきた。

生駒山は縦走を含めると5回目になるが、山頂に登ったのは42日目と54日目の二回だけ。登り口は54日目と同じ辻子谷コースをとった。近鉄石切駅から登り始め、神前神社、水車、興法寺を通ったが、景色は同じため写真はカット。山頂に到る途中の道にいきなりロープが張ってあり、「辻子谷コースは通行禁止」との表示があった。しかしそのロープを越えて下山してくる人に聞くと「少し崖崩れがあるけど大丈夫ですよ!」との返事。まあ犯罪ではなさそうなので、私も人の後をついて山頂を目指すことにした。

確かに山道の終わりの方で、少し崩れていて粘土質が露わになっていたが、子ども以外は登れる程度であった。無事山頂に辿り着き、その後今までに掲載を忘れていた「薬師如来が御光臨」したと言われる旧鶴林寺に行こうとしたが、生駒山の東側は台風の影響をモロに受け、倒木だらけ。



さすがにこれがどこまで続くのか不明のままでは危険と感じ、行くことを諦めた。それで入口の写真だけ。


その後はケーブルは使わず、普通のルートで下山したが、今まで何故か宝山寺をスルーして来たことに気が付いた。入口に大きな鳥居の写真が表紙のもの。

宝山寺がこれほど大きく、由緒ある寺とは知らなかった。まずは境内の様子。


驚くべきことに、背後の巨大な崖肌に仏像が彫られていた。それを拡大してアップしたが、何分解像度をかなり下げているので見れるかどうか??



さて、数十日をかけて前編いうか本編の全文を紹介してきた。いわゆる“後編”については、ネット“浄土への道標”で検索すれば分かるように、大体の感じをつかむことはできると思う。しかし一言一句違わず公開することが孫である私の使命と思う。では祖母の言葉で始めます。


浄土への道標 後編序文

 昭和56年9月、西暦1981年に浄土への道標前編を出版できました。それに続き今回第二の不思議を仏よりご指示頂き、後編として発刊することにしました。
 実は前編は、昭和5年7月18日より昭和20年4月7日まで233回に及ぶ大作で、その後何のお話しもなかったのは、その間国内外共に激動を極め、太平洋戦争があり、岐阜市内でさえ第1回昭和20年7月9日に市内の大半灰塵し、第2回は7月19日岐阜駅、各務原に多大の被害を受け、東京、大阪は勿論のこと遂に8月6日広島、8月9日には長崎に原子爆弾投下で壊滅的な損害で文字通り焦土となり、続いて8月15日に敗戦の詔勅下りました。幸いにして家財及び『浄土への道標』の仏本の原稿等は空襲の厄をまぬがれたのは、仏の御加護の賜物と感謝のほかありません。
 今一つは、林領一、量子家にも5人の子どもの教育、両親の死去、子供の就職結婚と幾多の出来事があり、漸く我を省みれば早、50有余年の年月を経ていました。光陰矢の如し、3回の転居をへて、現在に至りました。
 昭和56年の夏となり、前編の道標脱稿以来一度も仏よりお話なかりしも、其の節第二の不思議表れたとの事をおさとしありし折、不思議の瑞兆、昭和56年8月に至り、主人が同居の孫の教材用として、発砲スチロールのプランターに茄子の苗木三本植えておいたのが紫色の花をつけ実を結んだ。
 主人領一も茄子の花は無駄花が無いと言っておられたが、何時迄たっても実が大きくならないのでおかしいなあと思っていた処、いつのまにか小さい茄子の表面に絵が描かれている。よく見ると紫色の表面に黄金色の金龍が向かい合って描かれていた。細かい精密な龍で何としても不思議の瑞兆である。知らない間に自然に描かれていたのであり、大切に家宝として保存する。
 第二の不思議については、昭和5年11月11日記事の中に不思議現れたらの事を予告あり。(道標上巻105頁・・・筆者注:元本のことです)