涅槃への一人旅

中年過ぎのオジさん、家族は独立して好き勝手にやってます。人間、死ぬときは一人。残った人生、もっと勉強してもっと知りたい。

120日目 説明⑫“不知足”“六非道財?”

2022-07-24 16:17:30 | 宗教
 昭和7年の第6回、珍しく2月としか清書版にも記載されていない。前の記録が2月26日であり、次が3月6日(正確には、第7回は2月6日と誤記?されている。)になっている。第6回と第7回に“不知足”と“六非道財”の話が出てくるが、ともに短いため、清書版をそのまま転記しておいた。

第6回 昭和7年2月 日
財界不況の為格銀行取付けせりとの話をなし居る内都合よく父窪田(筆者の曾祖父)来宅あり。直うとうとと昏睡状態になられ次の御話を承わるを得たり。幾分連関あるものの如し。

(〇)中阿含経にも華厳経にも大八人経にもある様に不知足、足る事知らず飽く事を知らぬ。守銭奴は仏の最も嫌われた事、而していましめられたと云う。苦悩を脱せんと欲せば知足を観すべし。知足を感じたる人は知足を得る人は地上に臥するとも尚安楽である(臥すか座すか不明なりしかば父窪田と量子語り居る時地上に寝る臥すとの御話ありたり)。安楽とは不落安楽とは普通に云う。知足を感じたる人は地上に臥するとも安楽である 貧しきとても富んで居る。不知足の人は常に六つの苦に悩まされ、而して知足を感じたる人から憐れに迎えらる。華厳経にもある通り………伴う六非道財(字の説明あり)、六つの非が生ずるのである。又華厳経にもある。中阿含経にもあるが………
 仏教に於ては其れに六つの悩みが伴って来る。即ち例えば賭博をするとか仕事をせずに居るとか、投機的、延をするとかある。それをやれば六つの非が生ずる。財産を失くするとかになる。この知足を感ずると云う事は困難な事である。仏と人間との区別、仏と人、願行である。願とは仏を衆生のものとする、行とは衆生が仏を………る事、言葉をかえて云うと願とは仏が衆生済度の為、発せられたる大誓願である。「我汝を救わずば正覚取らず。」その願は行を……れすものは行は願を招く。仏は如何にして仏果を得たかと云う事を研究して、願行を一つにならねばならん。例えば百里の道を行くにも右後左前にあらば一歩も進まず、願行が一致せなければいかぬ。前へ戻って知足を知る。その中、六非道財との区別、其の人達が救われるか否かと云う事を………そうすればよく分る。かかるあさましき徒ら者は弥陀の願行により救われると云う事が判ると思う。

 ああ しびれた
 おれ早うとうととしていた
と云って目を覚まさる

第7回 昭和7年2(3?)月6日
量子主人に夕食を進め乍ら談話していると目を明き乍ら左の御話あり。
 夕食中六非道財の話承わる。
 華厳経の終りの方に、「我仏眼を以って衆生を見るに、貧窮にして福恵なし 将に生死に入りて相続して苦しみ絶える事なし」まだずっと沢山有るが………華厳経と云う本知らん 中阿含経の六非道財、そんな事知らん。
  六つの災厄が伴なう
  其後量子主人にお釈迦様は御入滅遊ばされる前(みょうどう)と云う人にわしは80才で成仏すると云われたそうなが字はどう云う字を書くのですかと云うと 妙瞳ならんと教わる。又先日の御話や御釈迦様の御成仏の時の事を詳しく承わるを得たるも茲に省く。

 清書版なので、改訂版・ネット版や、このブログで掲載してきた記事と若干異なるが、当時語ったことに近い言葉が文章として残されているため、臨場感がある。“不知足”の説明で「大八人経」とあるが、『八大人覚』でみつけることができた。これは、『仏遺教経』(正式には『仏垂般涅槃略説教誡経』、漢訳は鳩摩羅什)で説かれており、中国でも仏教初学者が学ぶお経であったらしい。東京禅センターの天野氏の法話でその現代語訳をみつけたので、以下に引用する。
「汝達比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。知足の法は、即ち是れ富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すと雖も、猶お安楽為りとす。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦た意に称わず。不知足の者は富めりと雖も而も貧し。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲の為に牽かれて、知足の者の憐憫する所と為る。是れを知足と名づく。」
 昭和7年2月の記事の前半と、説明の必要がないくらい酷似している。改訂版・ネット版では記載されていないが、「地上に臥す」の部分を量子とその父親が「座すか?」と話し合っているところに、「臥す」と解説まで入れている。清書版の「不落安楽」は、初版本(昭和56年自費出版)には省かれている。「富楽安穏」が正しい言葉であったのであろうが、自信のなかった祖母(量子)がそれを省いたものと思われる。
ちなみに、『八大人覚』は、『中阿含』一八「八念経」にも出ているらしい。

 次に「六非道財」を説明したい。昭和7年第6回、2月には、「華厳経にもある通り・・・伴う六非道財」と記載されており、第7回の3?月6日にも「六非道財の話承わる。華厳経の終りの方に・・・」と書かれている。大蔵経データベースで検索したところ、中阿含経の中阿含大品19善生經第十九に「六非道」がヒットした。それによると、「求財物者 當知有六非道」(財物を求める者、まさに六つの非道の有るを知る)で説明が始まり、「種種戲求財物者」「非時行求財物者」「飮酒放逸求財物者」「親近惡知識求財物者」「常喜妓樂求財物者」「懶惰(なまけもの)求財物者」を“六非道”というらしい。(漢文であり、大体の意味は分かるであろうし、私の下手な書き下し文を載せるよりはましと思い、原文をそのまま転記した。下記の注を参考にして欲しい)。この六つの非道にそれぞれ六つの不利益があると。祖父母の本ではこの不利益は、「賭博をするとか仕事をせずに居るとか、投機的、延をする、財産をなくす」の五つが指摘されているが、賭博と仕事をしない、財産をなくすが中阿含経の善生経と一致している。大蔵経データベースで、「六非道」はみつけることが出来たが、「六非道財」の熟語となると見つからず。祖父のエネルギー体は、前世では「六非道者の財」とでも解して勉強していたのかも知れない。
 華厳経も勉強ついでに調べてみた。現代語訳は相当分厚く、高価であり入手は困難。何事も勉強と思い、大角 修著『善財童子の旅』という入法界品の現代語訳を購入して読んでみた。続いて、原田霊道著『現代意訳華厳経』を購入。前者では、『北路歴程 釈迦如来の故地37』に「知足の法」(無量歓喜知足光明の法門)を見付けることが出来た。後者では、知足・六非道に関わるような話はみつからなかったが、『他化自在天会第22 真証の生活(十地品)聖者の十大願』の中に「大願大行」を見付けることが出来た。
 ところで、7年3月6日の記事にある「仏願をもって・・・」以降は、法華経方便品第二に、「我以仏眼観 見六道衆生 貧窮無福慧 入生死険道 相続苦不断(我は、仏眼をもって観じて 六道の衆生を見るに 窮にして福慧なし 生死の険道に入って相続して苦断えず)」とあり、ほぼ同じ文章である。華厳経の終りの方ではなく、法華経の前の方の方便品の終りのところにある。これは祖母が法華経を華厳経と聞き違えて記載したにしては間違いが大き過ぎる。祖父のエネルギー体の法華経についての知識が、116日目でも説明したように不十分であったものと推測される。

 
 以上、“不知足”と“六非道財?”の話について説明した。色々な経典を引き合いに出して話が作られているが、『仏遺教経』の「大八人覚」から“不知足”の話が出てきて、そこから『華厳経』入法界品の知足や“願行”について連想したものと思われる。“不知足”に関わる経典と、中阿含経の“六非道”との直接の繋がりを見付けことは出来なかったが、祖父のエネルギー体の中では何らかの繋がりがあったものと思われる。

注)中阿含経はかなり古い経典と思われるが、日本に伝わった中国由来の漢訳経典は南伝仏教のパーリ語経典『シンガーラの教え』に相当するらしい。中村 元氏の文庫『原始仏典』P322に「財を散ずる六つの門戸」という見出しで説明がなされているので、下記に引用する。
「人の近づいてはならぬところの、財を散ずる六つの門戸とは何であるか?(一)酒類など怠惰の原因に熱中することは、実に、資産家の子よ、財を散ずる門戸である。(二)時ならぬのに街路を遊歩することに熱中するのは、財を散ずる門戸である。(三)〔祭礼舞踊など〕見せものの集会に熱中するのは、財を散ずる門戸である。(四)賭博という遊惰の原因に熱中することは、財を散ずる門戸である。(五)悪友に熱中することは、財を散ずる門戸である。(六)怠惰にふけることは、財を散ずる門戸である。」