年末でもあり、寒気が押し寄せて雪が降ると聞き、近場の菊水山456mに登ってきた。
26日目は六甲山系の最も西から東に向かって鉢伏山~旗振山~鉄拐山~栂尾山と登ってきたし、39日目はやや中央の再度山を登った。大体、その中間くらいにあるのが菊水山。
阪急新開地から神戸電鉄に乗り換え、北に4駅ほど。まずは登り始めの鵯越駅の景色。
すぐに気持ちのいい山道が続き、正面に菊水山が見える。
しかしその後は標高差200mはありそうな登り坂が続いた。天気もよく、雪もなく気持ちよく山頂に辿り着いた。それが表紙の写真。
菊水山々頂から西側を望む。手前に高鳥山が見えるがその向こうは先ほど案内した鉢伏山までの連続で、少し見えにくいが明石大橋から四国が分かる。
六甲山系を宝塚から須磨浦公園までと考えると、連続してではなく断続的ではあるもののその縦走路のかなりの部分に登ったことになる。あとは残されたところを繋いで行きたい。
いつもの続きです。前編との文体の違い、薬師さんの出番が多いなどの内容の違い、内容の正確さの違いなど、これらは林領一・量子が加齢により健康に気を付けてきたこと、同居して一部代筆した次女の存在による違いによるものと思います。日付が前後しているみたいですが、時間のある時に確かめておきますm(__)m
昭和58年7月14日 夜11時10分
今奈良へ行って来た。今日は呼びにみえた三薬師様が集まっておこし下さい、とお呼び下さった。それで線香の香がした。お薬師さんやった。今送ってもらって来た。一畑さんも多田さんもお呼びしたけどお食事中だったので待ってみえた。食事後11時頃まで布団の中で新聞を読んでいたので、TV放送での地震の事を心配してみえるが、西の方は心配いりません。東の方の高い空の風の動きが少し違うのであれば東の方だが、今のところは別に心配ない。何時、おきるなんてことは、そう心配せんでもええ。あなたの処はお守りしますから大丈夫じゃ。
先日、耳を治してもらったお礼を云った。奈良からみんなそれぞれの所へ帰られた。地震は東北の方がもう一ぺんあるかも知れません。それと駿河湾近くであれば、この二つでしょう。静岡、豊橋、恵那あたり、孫が東京に居るので心配です、と云ったら、あの辺は大丈夫ですとおっしゃった。
11時35分頃、支那から印度もう少し西迄行って来ます。南無阿弥陀仏……御念仏で空をとぶのは早い。すっと行けるもんや。邪魔になるものは何もない。今阿難さんにあった。浄土から出てみえた。インドの西方に阿難尊者をおまつりしてある。インドの西の方から仏教が入ってきた。阿難さんは気高い人や。初めて御会いします、と云われ……すっすっと行ってしまう。阿難さんがあなたはお幸せの人や、長生きして済度してくださいと云われた。疲れたといって眠る。時計12時を報ず。
天上界は雲一つない。下界は何も見えない。音楽は聞こえなかった。御念仏を唱えると、すーすーと行く。五色の雲がたなびき、綺麗な金色の鳥(七色位)が三羽、途中で出会いそれが案内してくれた。羽ばたきもちょっともしないし、すっと羽根を拡げたまま飛んでいる。自分はきれいな金々の衣を着ておった。
今日は4人でいい香りがすると喜んでいたが(偶然矢野さん来宅)台所で座っていたら線香の香がした。座敷へ行くと一層強く、何とも云えぬ気高い香がして不思議と喜ぶ。
私がお邪魔したので私の香や、とお薬師様がいわれた。今日は薬師の集まる日でしたので、お迎えに参りました。長い旅やった。20分位で印度まで行ってきた。山も川もない、何もない綺麗な雲の上を走るんやから早いわ。阿難さんは丸顔で少し太った人で、福々しく如何にも聡明な顔付きの人やった。お薬師さんとは違う顔やった。仏様から昔の姿にもどってお会いしたからよくわかった。その時の姿は少し太った人やった。
昭和58年7月18日 朝方
昨日、二女お花の「ささ百合会」20人でマイクロバスで京都行き。大垣インターへ入ったところで二度お線香の香りがして、どこからともなく
「御一緒します。」
と云われ、雨の予報にもかかわらず一滴の雨にもあわず7時頃帰岐。先生宅前でバス下車する前にも香がして、不思議やったと帰宅後話す。朝方、弥八地蔵様が、小さなバスで心配やった、1日お伴しました。帰りに荷物が……一寸危なかったとのお話。帰路のバスは何だか不安でお念仏を唱えていた。
昭和58年7月25日~26日 午前零時15分
多田薬師と一畑薬師へ今度の水害見舞に行ってきた。(山陰地方は大水害)二つの花束がすっと浮いてきて手元に届いた。そしたら、その花束の一つが、二女の顔になった。これは二女が多田薬師さん(もう一つは一畑薬師様へお供えして下さいと、矢野さんが持って見えた。)あんな花はみたこともない。この世にこんな綺麗な花はない。多田薬師さんへ先に行き、山の麓の宍道湖をこえて一畑薬師さんへ行った。多田さんに大雨が降って大変でしたね、と尋ねると、風もあったし、よう降りました、山門の仁王門の所が少しこわれたけど、昔はこの辺りは大変だったが排水がちゃんと出来ているので被害はなかった、いつも二女の事をお守りしているとおっしゃった。
次いで一畑薬師さんへ行き、しばらくぶりでした、大雨が降ってどうでした、と尋ねると、宍道湖にそってひどかった、この辺りは雨水がざあざあと流れ、田畑や左側の道路は赤土で途中こわれた箇所がある、正面の方は何ともなかった。この前お参り下さった折、書いた石をあげて下さったが、他の人が石をあげても下にならず、ちゃんと上になっている。それらいっしょに書いた人の字も済度になっている。お徳の高い方の石は、何時も上に出て光っている。奥さんも丈夫になられてよかった。大分楽になりました。
26日目は六甲山系の最も西から東に向かって鉢伏山~旗振山~鉄拐山~栂尾山と登ってきたし、39日目はやや中央の再度山を登った。大体、その中間くらいにあるのが菊水山。
阪急新開地から神戸電鉄に乗り換え、北に4駅ほど。まずは登り始めの鵯越駅の景色。
すぐに気持ちのいい山道が続き、正面に菊水山が見える。
しかしその後は標高差200mはありそうな登り坂が続いた。天気もよく、雪もなく気持ちよく山頂に辿り着いた。それが表紙の写真。
菊水山々頂から西側を望む。手前に高鳥山が見えるがその向こうは先ほど案内した鉢伏山までの連続で、少し見えにくいが明石大橋から四国が分かる。
六甲山系を宝塚から須磨浦公園までと考えると、連続してではなく断続的ではあるもののその縦走路のかなりの部分に登ったことになる。あとは残されたところを繋いで行きたい。
いつもの続きです。前編との文体の違い、薬師さんの出番が多いなどの内容の違い、内容の正確さの違いなど、これらは林領一・量子が加齢により健康に気を付けてきたこと、同居して一部代筆した次女の存在による違いによるものと思います。日付が前後しているみたいですが、時間のある時に確かめておきますm(__)m
昭和58年7月14日 夜11時10分
今奈良へ行って来た。今日は呼びにみえた三薬師様が集まっておこし下さい、とお呼び下さった。それで線香の香がした。お薬師さんやった。今送ってもらって来た。一畑さんも多田さんもお呼びしたけどお食事中だったので待ってみえた。食事後11時頃まで布団の中で新聞を読んでいたので、TV放送での地震の事を心配してみえるが、西の方は心配いりません。東の方の高い空の風の動きが少し違うのであれば東の方だが、今のところは別に心配ない。何時、おきるなんてことは、そう心配せんでもええ。あなたの処はお守りしますから大丈夫じゃ。
先日、耳を治してもらったお礼を云った。奈良からみんなそれぞれの所へ帰られた。地震は東北の方がもう一ぺんあるかも知れません。それと駿河湾近くであれば、この二つでしょう。静岡、豊橋、恵那あたり、孫が東京に居るので心配です、と云ったら、あの辺は大丈夫ですとおっしゃった。
11時35分頃、支那から印度もう少し西迄行って来ます。南無阿弥陀仏……御念仏で空をとぶのは早い。すっと行けるもんや。邪魔になるものは何もない。今阿難さんにあった。浄土から出てみえた。インドの西方に阿難尊者をおまつりしてある。インドの西の方から仏教が入ってきた。阿難さんは気高い人や。初めて御会いします、と云われ……すっすっと行ってしまう。阿難さんがあなたはお幸せの人や、長生きして済度してくださいと云われた。疲れたといって眠る。時計12時を報ず。
天上界は雲一つない。下界は何も見えない。音楽は聞こえなかった。御念仏を唱えると、すーすーと行く。五色の雲がたなびき、綺麗な金色の鳥(七色位)が三羽、途中で出会いそれが案内してくれた。羽ばたきもちょっともしないし、すっと羽根を拡げたまま飛んでいる。自分はきれいな金々の衣を着ておった。
今日は4人でいい香りがすると喜んでいたが(偶然矢野さん来宅)台所で座っていたら線香の香がした。座敷へ行くと一層強く、何とも云えぬ気高い香がして不思議と喜ぶ。
私がお邪魔したので私の香や、とお薬師様がいわれた。今日は薬師の集まる日でしたので、お迎えに参りました。長い旅やった。20分位で印度まで行ってきた。山も川もない、何もない綺麗な雲の上を走るんやから早いわ。阿難さんは丸顔で少し太った人で、福々しく如何にも聡明な顔付きの人やった。お薬師さんとは違う顔やった。仏様から昔の姿にもどってお会いしたからよくわかった。その時の姿は少し太った人やった。
昭和58年7月18日 朝方
昨日、二女お花の「ささ百合会」20人でマイクロバスで京都行き。大垣インターへ入ったところで二度お線香の香りがして、どこからともなく
「御一緒します。」
と云われ、雨の予報にもかかわらず一滴の雨にもあわず7時頃帰岐。先生宅前でバス下車する前にも香がして、不思議やったと帰宅後話す。朝方、弥八地蔵様が、小さなバスで心配やった、1日お伴しました。帰りに荷物が……一寸危なかったとのお話。帰路のバスは何だか不安でお念仏を唱えていた。
昭和58年7月25日~26日 午前零時15分
多田薬師と一畑薬師へ今度の水害見舞に行ってきた。(山陰地方は大水害)二つの花束がすっと浮いてきて手元に届いた。そしたら、その花束の一つが、二女の顔になった。これは二女が多田薬師さん(もう一つは一畑薬師様へお供えして下さいと、矢野さんが持って見えた。)あんな花はみたこともない。この世にこんな綺麗な花はない。多田薬師さんへ先に行き、山の麓の宍道湖をこえて一畑薬師さんへ行った。多田さんに大雨が降って大変でしたね、と尋ねると、風もあったし、よう降りました、山門の仁王門の所が少しこわれたけど、昔はこの辺りは大変だったが排水がちゃんと出来ているので被害はなかった、いつも二女の事をお守りしているとおっしゃった。
次いで一畑薬師さんへ行き、しばらくぶりでした、大雨が降ってどうでした、と尋ねると、宍道湖にそってひどかった、この辺りは雨水がざあざあと流れ、田畑や左側の道路は赤土で途中こわれた箇所がある、正面の方は何ともなかった。この前お参り下さった折、書いた石をあげて下さったが、他の人が石をあげても下にならず、ちゃんと上になっている。それらいっしょに書いた人の字も済度になっている。お徳の高い方の石は、何時も上に出て光っている。奥さんも丈夫になられてよかった。大分楽になりました。