涅槃への一人旅

中年過ぎのオジさん、家族は独立して好き勝手にやってます。人間、死ぬときは一人。残った人生、もっと勉強してもっと知りたい。

93日目 兵庫 菊水山

2018-12-30 16:57:03 | 山登り
年末でもあり、寒気が押し寄せて雪が降ると聞き、近場の菊水山456mに登ってきた。

26日目は六甲山系の最も西から東に向かって鉢伏山~旗振山~鉄拐山~栂尾山と登ってきたし、39日目はやや中央の再度山を登った。大体、その中間くらいにあるのが菊水山。

阪急新開地から神戸電鉄に乗り換え、北に4駅ほど。まずは登り始めの鵯越駅の景色。


すぐに気持ちのいい山道が続き、正面に菊水山が見える。


しかしその後は標高差200mはありそうな登り坂が続いた。天気もよく、雪もなく気持ちよく山頂に辿り着いた。それが表紙の写真。

菊水山々頂から西側を望む。手前に高鳥山が見えるがその向こうは先ほど案内した鉢伏山までの連続で、少し見えにくいが明石大橋から四国が分かる。


六甲山系を宝塚から須磨浦公園までと考えると、連続してではなく断続的ではあるもののその縦走路のかなりの部分に登ったことになる。あとは残されたところを繋いで行きたい。


いつもの続きです。前編との文体の違い、薬師さんの出番が多いなどの内容の違い、内容の正確さの違いなど、これらは林領一・量子が加齢により健康に気を付けてきたこと、同居して一部代筆した次女の存在による違いによるものと思います。日付が前後しているみたいですが、時間のある時に確かめておきますm(__)m

昭和58年7月14日 夜11時10分
 今奈良へ行って来た。今日は呼びにみえた三薬師様が集まっておこし下さい、とお呼び下さった。それで線香の香がした。お薬師さんやった。今送ってもらって来た。一畑さんも多田さんもお呼びしたけどお食事中だったので待ってみえた。食事後11時頃まで布団の中で新聞を読んでいたので、TV放送での地震の事を心配してみえるが、西の方は心配いりません。東の方の高い空の風の動きが少し違うのであれば東の方だが、今のところは別に心配ない。何時、おきるなんてことは、そう心配せんでもええ。あなたの処はお守りしますから大丈夫じゃ。
 先日、耳を治してもらったお礼を云った。奈良からみんなそれぞれの所へ帰られた。地震は東北の方がもう一ぺんあるかも知れません。それと駿河湾近くであれば、この二つでしょう。静岡、豊橋、恵那あたり、孫が東京に居るので心配です、と云ったら、あの辺は大丈夫ですとおっしゃった。
 11時35分頃、支那から印度もう少し西迄行って来ます。南無阿弥陀仏……御念仏で空をとぶのは早い。すっと行けるもんや。邪魔になるものは何もない。今阿難さんにあった。浄土から出てみえた。インドの西方に阿難尊者をおまつりしてある。インドの西の方から仏教が入ってきた。阿難さんは気高い人や。初めて御会いします、と云われ……すっすっと行ってしまう。阿難さんがあなたはお幸せの人や、長生きして済度してくださいと云われた。疲れたといって眠る。時計12時を報ず。
 天上界は雲一つない。下界は何も見えない。音楽は聞こえなかった。御念仏を唱えると、すーすーと行く。五色の雲がたなびき、綺麗な金色の鳥(七色位)が三羽、途中で出会いそれが案内してくれた。羽ばたきもちょっともしないし、すっと羽根を拡げたまま飛んでいる。自分はきれいな金々の衣を着ておった。
 今日は4人でいい香りがすると喜んでいたが(偶然矢野さん来宅)台所で座っていたら線香の香がした。座敷へ行くと一層強く、何とも云えぬ気高い香がして不思議と喜ぶ。
 私がお邪魔したので私の香や、とお薬師様がいわれた。今日は薬師の集まる日でしたので、お迎えに参りました。長い旅やった。20分位で印度まで行ってきた。山も川もない、何もない綺麗な雲の上を走るんやから早いわ。阿難さんは丸顔で少し太った人で、福々しく如何にも聡明な顔付きの人やった。お薬師さんとは違う顔やった。仏様から昔の姿にもどってお会いしたからよくわかった。その時の姿は少し太った人やった。

昭和58年7月18日 朝方
 昨日、二女お花の「ささ百合会」20人でマイクロバスで京都行き。大垣インターへ入ったところで二度お線香の香りがして、どこからともなく
「御一緒します。」
と云われ、雨の予報にもかかわらず一滴の雨にもあわず7時頃帰岐。先生宅前でバス下車する前にも香がして、不思議やったと帰宅後話す。朝方、弥八地蔵様が、小さなバスで心配やった、1日お伴しました。帰りに荷物が……一寸危なかったとのお話。帰路のバスは何だか不安でお念仏を唱えていた。

昭和58年7月25日~26日 午前零時15分
 多田薬師と一畑薬師へ今度の水害見舞に行ってきた。(山陰地方は大水害)二つの花束がすっと浮いてきて手元に届いた。そしたら、その花束の一つが、二女の顔になった。これは二女が多田薬師さん(もう一つは一畑薬師様へお供えして下さいと、矢野さんが持って見えた。)あんな花はみたこともない。この世にこんな綺麗な花はない。多田薬師さんへ先に行き、山の麓の宍道湖をこえて一畑薬師さんへ行った。多田さんに大雨が降って大変でしたね、と尋ねると、風もあったし、よう降りました、山門の仁王門の所が少しこわれたけど、昔はこの辺りは大変だったが排水がちゃんと出来ているので被害はなかった、いつも二女の事をお守りしているとおっしゃった。
 次いで一畑薬師さんへ行き、しばらくぶりでした、大雨が降ってどうでした、と尋ねると、宍道湖にそってひどかった、この辺りは雨水がざあざあと流れ、田畑や左側の道路は赤土で途中こわれた箇所がある、正面の方は何ともなかった。この前お参り下さった折、書いた石をあげて下さったが、他の人が石をあげても下にならず、ちゃんと上になっている。それらいっしょに書いた人の字も済度になっている。お徳の高い方の石は、何時も上に出て光っている。奥さんも丈夫になられてよかった。大分楽になりました。

92日目 兵庫 東お多福山

2018-12-16 18:23:40 | 山登り
今日は兵庫県の東お多福山697mに登ってきた。と言っても、六甲山最高峰に行くコースと途中まで同じで、その少し東側にあるお山。

六甲山には何回か登り、この芦屋川から登るコースも以前に登ったことがある。まずは登り始めの高座の滝から


その後は『ロック・ガーデン』と呼ばれている通り、岩場が200m前後は続く。


そして何度かアップしてきた休憩所の定番の風吹岩が表紙の写真。今日は人が少なかった。

六甲山最高峰への分岐点から1㎞くらいで東お多福山々頂に着く。ススキの多い、広い平原であった。(肩越しにシャッターを切ったので写真が傾きましたm(__)m)


山頂近くから六甲山最高峰を望むが、多分右側の電波塔が最高峰辺りと思う。


帰りも同じ道を下ったが、岩だらけの道は非常にストレスになる。


昭和58年5月12日
 国立劇場にて文部大臣より勲章、勲記受領。皇居に於いて記念写真撮影、紋入煙草、菓子拝領。量子不調の為、出席できず残念。

昭和58年5月24日 朝方
 二女、昨日読書クラブの文学旅行で京都へ。西京区大原勝持寺(花の寺)へバス旅行。本尊は薬師如来(791年作)である。
 お薬師様が出てこられ、奈良のお薬師さんからことづけがありました。お友達も参って下さって有難う、との御礼のお言葉あり。美しいお顔のお薬師様で左手に薬つぼ、右手をさしのべられたお姿で最後までお参りして頂いてと云われた。雨の予報がお天気でこんな所へはなかなかお参りして下さる人も少なくて……

昭和58年6月28日 午前1時過
 弥八地蔵様、長いことお会いしなかったけど、立派なものをもらって皆にお祝いしてもらってこの頃お忙しかったね。まだ二、三べんあるでなかなかお暇ありませんなあ。娘さんがいつもお参りしてくれてありがとう。又近いうちにお薬師様がお邪魔されるとの由、東京へ行けなかったで残念やったけど、無理して行かれると寝込まなくてはならんかったから、その方がよかった。量子叙勲式に病気の為欠席せし事。

昭和58年7月5日 大安 午後9時50分
 お線香のにおいが何処からともなくして、どなたか……と思っていた矢先、小さい声でお念仏。こちらは大雨ですが、と一畑薬師さんがみえた。今迄あまり食が進まなかったが、この頃大分進むようになって元気になられた。日に日によくなられるから御心配いりません。適当に動いて他には何も云う事ないが、心臓の方を気をつけて、今迄のんでみえる薬でよろしい。寝る前にはのんでいかん。この家は光がさしている。よい方にいく。又奈良のお薬師様がみえてお話なさるが、私だけでお邪魔しました。
 お祝いの日、東京へお出ででお疲れでしたね。又お丈夫になられたら参って下さい。上のお兄ちゃん(二女の長男)素直でいい子、今時珍しい青年や。どちらへ進んでもいい(大学院進学のこと)さようなら さようなら。
 弥八地蔵様、午後10時30分、今一畑さんがお出でになったでしょう。娘さんはよく参って下さって、食べものだけ一寸気をつけなさい。今晩は冷えるから気をつけて下さい。矢野さんこの頃お忙しくていい調子で、いい具合やけど、この頃あまりお目にかからないが……さようなら さようなら
 奇しくも二女、二階のベランダに居た時、あたり一瞬暗くなったと思ったら、金々に光り輝いて仏様がみえ、お念仏唱えている夢を見たとのこと。

昭和58年7月18日 午後10時20分
 本日久し振りに医者行き、弥八地蔵に二人で参詣し、夜色々と話していると眠気を催され、しばらくして小声にて、今日はお二人して参って下さってうれしかったわ。お参りしてからバスの時間待ちの為、地蔵様の境内で腰かけて休ませて頂きました、との御礼の言葉、さようなら。実は参詣後、量子一人先に帰宅。主人は午後4時半帰宅。帰るやいなや、途中で左の耳元がにわかに痛み出し苦しかったが(バスを待つ間のこと)途中ですっとした感じがしたら、不思議に治ってしまった。
 先のお話しはお地蔵様だったが、奈良のお薬師様、午後11時半御来臨。左の耳が急に痛み出しおかしいなあと思ったら、急にすとんと治ったのは奈良のお薬師様が急に飛んでみえた。バスに乗って十分かからないうちに治った。聞いた事もない急性……と云われたが忘れて思い出せない。思い病気になるのをずっと撫でられた感じがして治った。全然聞いたこともない病気。お地蔵様は凡俗の姿でみえたが、お薬師様は気高い威厳正しいお姿でみえた。

91日目 京都 お寺巡り

2018-12-09 17:53:30 | 散歩
昨日は林領一の命日であったため、お墓参りに行くことにした。

今回の記事にも出てくるが、領一は次男でもあったため新たにお墓を購入する必要があったよう。詳しい事情は知らないが、なぜか京都で、大谷本廟であった。もともと林家が浄土真宗の檀家であったのかも知れない。

私はその次男の子どもであり、我が家は浄土宗と聞いている。また祖父母が亡くなった時には遠方に勤務していたため、お墓をお参りしたことがなく、その場所も知らなかった。それで今回の墓参となる。

まずは京都大谷本廟の入口の門から。


親鸞上人をお祀りしている明著堂の裏側に墓地が拡がる。その奥すぐそこに清水寺の一部が見える。


お参りをした後は京都国立博物館へ、そしてその隣の三十三間堂に行った。表現は悪いが、ウナギの寝床のような長い長い建物であった。


しかしその中は荘厳極まりない。撮影禁止になっていたので、出口に飾ってあったポスターを写す。それが表紙の写真。

その後、京都七条通りを真西に歩いて、東本願寺、西本願寺を訪れた。まずはお東さんの一番大きいと思われた門と境内。




次はお西さんとも呼ばれているらしいが、西本願寺のもの。




シロウトには違いは分かりにくく、どちらも見事で広大としか言いようがない。共通しているのは本堂の内部で、ともに親鸞上人と阿弥陀如来の像が安置されているだけで、三十三間堂千手観音のような巨大な像がないということであろう。


いつもの続きです。

昭和58年2月18日
 かねてよりの京都大谷本廟墓地購入の件 本人抽選のため、朝7時55分の「比叡」で林一人で出発。十時半頃本廟着。290人集合他に付添人をふくめて控室は一杯で、受付番号27番、午後1時半抽選進行、全部で60基の処54番迄来ても当らない。気が気でないと困っていると、俄かにうとうとと眠気を催し、その時にもう後5人と云う最後の組の前に、勿体なくも阿弥陀様がお立ちになって、この次ちゃんと当たるから心配いりませんとのお告げ。幸いにも55番のグリーンの当りくじだった。距離も近いし場所は東向き〇地区〇番。

昭和58年2月24日 朝4時過ぎ
 二女の長男(大学3年)が関西地方へ会社見学旅行出発。母(二女)咳出て不快。お薬師様お出ましになり、今日から1週間無理せずに静養しておれ、肺炎にでもなるといかんとのご注意あり。

昭和58年4月21日(木)対案
 文部省より勲四等旭日小綬章 内示。昭和58年4月29日、天皇誕生日の日に新聞発表。勲四等旭日小綬章者は県内二名。

昭和58年4月29日 夜9時40分
 奈良薬師、一畑薬師、多田薬師、弥八地蔵様がすっとみえた。今日は皆が祝ってくれてお目出とうございました。とうの前から判っていることだったけど、皆から喜んでもらえて良かったと奈良のお薬師様が云われた。
 喜びの言える人は皆因縁のある人ばかりだで有難い事や。皆善人ばかりや、と云われた。あなたはお丈夫やけど、奥さんが一寸………行ける様お願いします。その後お薬師様達はそれぞれ光をさして帰られたので、直後を追い、奈良へ御礼に行ったがもう戸が閉まっていたとの事。一畑さんへは湖を越えて行った。(今日は風が強かったので一畑さんの海の上は荒れておったので)行った時には海は静かにおさまった。一畑さんから多田薬師へは、海をこえてまっすぐ行った。多田さんの所はつつじが綺麗だった。最後に弥八地蔵さん(お参りに行ったらご苦労様でした。私の力では……三薬師さんと共にまいりますた。

昭和58年4月30日 朝5時半位
 森前のさださんが出てみえた(林の亡実母)喜んでこんなうれしい事はない。あんただけやな。一番幸せやこんな幸せなことないね、と美しい着物をきてみえた。何かお土産をと思ったが持ってくるものもないので、健康で長生きできるお土産を持ってきたと言われた。二女が29日の夜どなたかお出でになると云っていたら、三薬師その時間9時40分、気配で二階(次女夫婦は2階に、林夫婦は1階に居住・・・著者注)から下に降りてきたら案の定、お話承ることが出来た。その後、森前のおばさん出てみえるよ、といっていたら朝方出てこられた。