たまたま2つの石碑に出会いました。偶然。「戦没 新聞人の碑」と「対馬丸犠牲者の慰霊碑 小桜の塔」。
「戦争への「きな臭い戦後70年」・・・「ああ、安倍談話さえなかったら!」が現実に一歩々々」近づく今、危機感を感じずにはいられません。
「戦没 新聞人の碑」・・・・・・「アベ様のNHK」や産経、読売の様な報道姿勢で良いのでしょうか? 『朝日』君がベストだとは言いませんが、多くの他社の「新聞人」の矜持が失われていないでしょうか。
『●原発再稼働・もんじゅ推進を無批判に放送できる
公正中立な公共放送「アベ様のNHK」』
『●トップからして腐敗したメディア: 「きょうの安倍将軍」「安倍様のNHK」』
『●ジャーナリズムの矜持無きこんな「公共」放送なんて要らない!』
『●内閣法制局、NHK、秘密保護法、消費税増税・・・、
「肝いり人事」という安倍首相の暴走人事』
『●「治安維持法」を止めるために:
「アベ様のNHK」などマスメディアだけに任せてはおれない』
『●「アベ様のNHK」に、なぜ「皆様」が受信料を支払うのでしょうか?』
『●「鼻血問題」: 圧力に屈した「アベ様のNHK」』
『●「一体誰が朝日の記者に吉田調書を流したのか」
・・・・・・犯人捜しなどやってる暇があるのか?』
『●東京電力原発人災鼻血問題: 風評被害に矮小化していて良いのか?』
『●「鼻血」「死の街」問題と「金目でしょ」発言に対するマスコミ対応の落差』
『●(非)特定秘密「隠蔽」法を大歓迎:
「たかり記者」だった?読売新聞ナベツネ氏は正気なのでしょうか?』
『●「政権批判」だったら歌うなとでも?
「アベ様のNHK」は「放送禁止歌」にでもしますか?』
『●アベ様は「報道がそれで抑圧される、
そんな例があったら私は辞める」と明言・・・ETV番組改編問題は?』
『●アベ様の政権の「暴走」許す、批判精神無き、「牙」無きメディア』
『●「想像」力無き自民党高村正彦副総裁の「真の勇気」ある者、
そして、後藤健二さんのメッセージ』
『●カラスはやっぱり「黒い」:
「アベ様のNHK」的「政府が白というものを黒とは言えない」で良いのか?』
『●亡国の大政翼賛報道・・・いつか来た道:
アベ様は「現地を取材されて困ることでもあるのか」?』
『●綿井健陽さん
「「様々なメディアが多種多様な報道を自由にできること」は社会の根幹」』
以下のような琉球新報の記事がありました。
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【http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-107667-storytopic-86.html】
平和の誓い新たに/戦没新聞人慰霊の集い
2001年10月19日
新聞週間(15-21日)期間中の18日、戦没新聞人慰霊の集いが那覇市若狭の旭ケ丘公園内に建てられた「戦没新聞人の碑」前で行われた。県内の新聞人ら約20人が出席、碑に花をささげ、平和への誓いを新たにした。
琉球新報社の野里洋取締役が「戦時中、壕の中で新聞を発行し、多くの先輩が犠牲になった。沖縄の記者としてこの事実を心に刻み、住みよい沖縄をつくるために力を入れていきたい」とあいさつ。沖縄タイムスの真久田巧(さとし)中部支社編集部長が戦没新聞人の碑が建立されたいきさつなどを説明した。
建立にかかわった共同通信初代那覇支局長の横田球生さんからメッセージが寄せられ、藤塚正道共同通信那覇支局長が「ただ先人たちの霊を慰めるだけでなく、先人たちの前に反戦平和を誓う場所がこの碑ではないか」と読み上げた。
集いは県内の新聞社、全国紙の那覇支局長らが呼び掛けた。碑には沖縄戦で亡くなった沖縄新報、同盟通信、毎日新聞、朝日新聞の14人がまつられている。今年は碑建立から40年になる。
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そしてもう一つ。「対馬丸犠牲者の慰霊碑 小桜の塔」。
『●「通貨が社会を変える?」
『週刊金曜日』(2014年7月4日、998号)についてのつぶやき』
【黒島美奈子の政治時評/対馬丸事件の教訓を唾する「武力放棄」
憲法下での異常 日本は再び戦争のできる国に】、「この悲劇は、
いったん戦争に巻き込まれればいかなる対象も、攻撃される対象と
なる危険性を後世に伝えている」
<社説>対馬丸慰霊碑 歴史繰り返さぬ継承を
2017年3月22日 06:02
戦時下で米軍に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の慰霊碑が、生存者や犠牲者が漂着した鹿児島県奄美大島の宇検村船越(ふのし)海岸に建立された。
「奄美にも沖縄戦の悲劇があったことを忘れず、次世代に継承したい」(元田信有村長)と費用を予算化した宇検村、実行委員会を組織し取り組んだ地元関係者に深く感謝したい。
除幕式に沖縄の遺族、生存者、地元関係者が出席した。犠牲となった沖縄側、悲劇の現場の奄美の方々が対馬丸事件の史実と教訓を共有し、胸に刻んだ意義は大きい。
これを契機に改めて対馬丸事件の歴史的な意味を問い直したい。
対馬丸は1944年8月、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、学童775人を含む1418人(氏名判明分)が犠牲になった。
県関係の戦時遭難船舶は26隻に上る。44年に16隻が集中し、その一つが対馬丸だった。米軍は日米開戦直後から日本船舶への無制限攻撃を開始した。日本軍が民間の船舶を軍事徴用したため、民間船舶の沈没が激増していた。
対馬丸は日本軍の兵員・物資を沖縄に降ろして後、学童らを乗せて出港し撃沈されたのである。
米軍は日本軍の無線を解読し、対馬丸の動きを把握していた。一方、沖縄守備軍は「南西諸島近海で敵潜水艦の活動が活発化。供給を断つことを重要視しているとみられる」と東京に打電していた。
沖縄近海の危険さを日本軍は察知しながら対馬丸を出港させ、米軍は見境のない無制限攻撃で対馬丸を撃沈したのである。
攻撃した米潜水艦の元乗員は「商船に見せ掛けた軍艦かもしれない。(商船が)軍事物資を積むこともある」と証言している。
民間の船舶を日本軍が軍事に徴用、軍事輸送の遮断を米軍が最優先した「軍隊の論理」が、対馬丸の惨事を招いた。慰霊碑を歴史の教訓を伝える証しとしたい。
宇検村では「慰霊碑建立記念企画展『対馬丸と奄美大島』」を開催中だ。多くの人々が足を運んで歴史の教訓を学んでほしい。
「歴史は繰り返す」と言われる。政府は防衛計画大綱と中期防衛力整備計画に基づき、宮古島、石垣島、奄美大島に陸上自衛隊警備部隊などの配備を計画している。
二度と戦争の犠牲にはならない。歴史を繰り返さぬ記憶の継承と行動を沖縄と奄美が共有したい。