25日にはススキの迷路について書いたが、今日は太宰治のススキの句について。
「病む妻や とどこほる雲 鬼すすき」
関森勝夫の「文人たちの句境」、常住坐臥の項に上げられた句である。昭和6年頃の作句ではないかという。明治42年(1909年)生まれの太宰だから、昭和6年は22歳。まだ東京大学の学生だったはずだ。
WIKIによると、この年の2月に小山初代と同棲したとある。小山は紅子という名前の芸妓だった。前年の昭和5年には、やはり同棲していたカフェの女給、田部シメ子と鎌倉の海で入水自殺を図ったが、太宰だけが生き残ってしまう。
トラウマを抱えながらの初代との同棲生活。それが病気になって寝込まれては、太宰は、たぶん、ただオロオロと傍についていただけだったのかもしれない。
病状を心配して付き添うものの焦りの気分を「病む妻や」で表わし、視線を巡らして、窓の外、どんよりとして動かぬ雲を眺め、やがて、その下の大きなススキの揺れる姿には、心がさらにざわつくのを感じる。
句全体が重く沈んで、「鬼すすき」の鬼の語感がはたらいて、妻の病状が回復しないのは、その辺りに鬼がわだかまっているせいなのではないかと疑っている太宰の胸中を思わせもするというのが、関森の解釈である。ひょっとすると、鬼とは亡くした田部のことなのかもしれない。
鬼すすきは秋の季語だが、どんなすすきなのだろう。WEBで探ると「オニススキという名のススキはありませんが、この地方では大きく育ったススキをオニススキと呼びます。鬼が振り乱した髪の毛にも似ていることからの命名でしょうか。」とある。
さらに、鬼すすき=トキワススキというものもあって、「トキワススキは暖かい地方に生え、花期が早く6~7月には出穂する。名前のとおり冬にも葉が枯れない。」としている。
「恐ろしや 次月の里の 鬼すすき」
これは、岐阜・東濃高原の鬼岩温泉に伝わる古句だとか。
「病む妻や とどこほる雲 鬼すすき」
関森勝夫の「文人たちの句境」、常住坐臥の項に上げられた句である。昭和6年頃の作句ではないかという。明治42年(1909年)生まれの太宰だから、昭和6年は22歳。まだ東京大学の学生だったはずだ。
WIKIによると、この年の2月に小山初代と同棲したとある。小山は紅子という名前の芸妓だった。前年の昭和5年には、やはり同棲していたカフェの女給、田部シメ子と鎌倉の海で入水自殺を図ったが、太宰だけが生き残ってしまう。
トラウマを抱えながらの初代との同棲生活。それが病気になって寝込まれては、太宰は、たぶん、ただオロオロと傍についていただけだったのかもしれない。
病状を心配して付き添うものの焦りの気分を「病む妻や」で表わし、視線を巡らして、窓の外、どんよりとして動かぬ雲を眺め、やがて、その下の大きなススキの揺れる姿には、心がさらにざわつくのを感じる。
句全体が重く沈んで、「鬼すすき」の鬼の語感がはたらいて、妻の病状が回復しないのは、その辺りに鬼がわだかまっているせいなのではないかと疑っている太宰の胸中を思わせもするというのが、関森の解釈である。ひょっとすると、鬼とは亡くした田部のことなのかもしれない。
鬼すすきは秋の季語だが、どんなすすきなのだろう。WEBで探ると「オニススキという名のススキはありませんが、この地方では大きく育ったススキをオニススキと呼びます。鬼が振り乱した髪の毛にも似ていることからの命名でしょうか。」とある。
さらに、鬼すすき=トキワススキというものもあって、「トキワススキは暖かい地方に生え、花期が早く6~7月には出穂する。名前のとおり冬にも葉が枯れない。」としている。
「恐ろしや 次月の里の 鬼すすき」
これは、岐阜・東濃高原の鬼岩温泉に伝わる古句だとか。