いつまでも続く若さはない。
同じ様に経済バブルもいつまでも続かない。
衰える。当然のことだ。
このしがらみは人にも言える。
衰えるから次の世代に託す。
次の世代を育ててバトンを渡すのだ。
しかし、やはり文化も色褪せる。
日本のルネッサンスの時代は終わった。
ところが次の世代に渡したバトンは今やその次へと引き継がれなくなった。
そういう時代。
現代の若者は自らの親の老人介護はしたくない。
自分も同じ感覚を持つ。
私は次男だ、そもそも流れとしては親の面倒は見ない。
自分の子供たちも同様に感じてる。
さらに今の若者は、次の世代を育てる気力すら無くなっている。
少子化は文化の問題でもあるが、一つのルネッサンスの終焉を表す。
そんな中 消えゆく文化を垣間見ながら私は何を考えれば良いのだろうか。
一万年以上もっと前、太古の頃。
かつての狭い文明からどんどん空間が広くなった。
家族単位から村単位に発達した古代文化。
古代から古代文明に至っては都市国家に広まった。
都市国家が争いを繰り返し国単位に広がった。
日本の国もそうだが中世の欧州やアジアも同じことを繰り返してる。
そして、同盟国単位で戦争を始めた近代はすでにそういった文明、文化の終わりを示してる。
日本国土で言えば 徳川と豊臣の戦い宛ら、世界規模の争いが東西冷戦から東西戦争になり、争い方がさまざまな分野で繰り広げられるようになった。
さまざまである。
現代ならば 経済、インターネットでの情報分野、宇宙、バイオやウイルス兵器、食糧、果ては文化の覇権争い。
そうして、それが終わったら一つの地球になるのだろうか?
おそらく難しい。
君と私は一つになれない。
人が二人以上いる限りは一つになれない。
考える脳が一つでもなかなか人の意識はまとまらない。
それを愚かだ、で済ませられるなら簡単である。
如是、意識は厄介な副産物である。
意識が消滅するならば随分簡単になろうけれど、そうは問屋が下さないだろう。
意識が残り続ける限りこの「争い」という命の活動は続くだろう。
いっそ、地球ごと一度リセットするしかないのかもしれない。
それを「刹那的な発想だね」で済ますことができるならば楽なのだけれど。
多くの意識がうずめく限り、そういう意識が自然発生して、事を起こすことは容易に考えられる。
まして、あと残り少ない命の輩であれば尚更だろう。
そしてそれが誰かはあまり問題ではない。
そんな考えが出たり消えたり、考えは尽きない。
そろそろ私は狂ってるかもしれない。
そもそも生まれつきか。
これが健康と言えるのか?
成るべくして成る。