66歳の貧乏なアルバイター

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

課題と忖度の一考察(ウダウダ愚痴)

2022-06-07 21:09:53 | 暴言

今日も昨日のごとく、明日も今日の如く生活する。
それはそれで構わない。
それは本意なのか?
一年後の君は何をしてる?
仕事が無くなれば何をする?
仕事を探すのか?
死ぬまでにやりたい事はないのか?
君の余命が後半年だったとしたら君は何をする?
或いは余命1ヶ月だったら何をする?
何もしない?
そういう選択肢もある。
それがやりたい事であるならば恐らく他人は口を挟まないし、挟むことではないだろう。
後1ヶ月しか自分の時間がないとしたら。
ウクライナの戦場にいる戦士は何を考えてる?
平和な食事の時間を夢見てる?
そうかもしれない。
それが目指す生活ならばきっとそうだろう。
それが自分の時間なのか、それとも避難させた家族の時間なのか、或いは世界中の生きる人みんなに対する希望なのか。
今、自分がそこに居たらどうする?
ミサイルが降ってきてる戦場の真っ只中にいるとしたら。

或いはジャングルでワニに襲われてるとしたら。
きっと生きようとする。

自分は今、危険のほぼない時間を生きてる。
じゃあ、その時間は貴重な時間ではないのか?
ただ目的もない時間。
まぁ、それはそれでいい。
自分自身が納得してるならば。

君は今納得してるのか?
今が充実した時間を過ごしてるのか?
年功序列と言い切れるサラリーマン時代でもなかったけれど、それでも定年まで会社員で生きたし、いまだにアルバイトしながら生きてる。
今のアルバイト生活では生活が赤字だ!と言いながらでも生きてる。
それはそれでいい。

で、その生活に納得してるのか?
これで良いって。
きっとそうじゃない。
したい生活では無い。
ある意味、いじけてる。
そのイジケで自分の理想を捨てた。
このままイジケながら過ごすのか?
老後破産?
それもまた一つの選択。
破産してまでしたい事があるのか?
あるならばそれはそれで良いと思う。

そこまでの理想があるならば、むしろそのほうがいいのかもしれない。

ダラダラ生きるだけ。
それでいいのか?
生きてて楽しいか?
生きてて嬉しいか?
生きててよかったと言えるか?
死ぬ間際に本音を吠えられるか?
死んでも自分を騙す。
そういう選択をしていないか?
君は君の人生を得られてるのか?
他人の人生を生きてないか?
恐らくそれを知りたいから出家する人がいるのだろうな。

僧侶。
ぼんさん。
プー太郎。
敢えて孤独になり自分は他人ではない事を知ろうとする。
独りぼっちならば他人が関与することはほぼ無い。
どう生きようが君のものだ。
世間さまの希望に合わせなければならない人生。
それは他人から来る。
他人を遮断する。
それも一つの手段かもしれない。
ただやはり世間様はついてまわる。
脱世間を試みるも無惨に引き止められた。
だから今、困ってる。
やりたいことを死ぬまで出来ず、愚痴を言い続けて死ぬ様な気がするからだ。

やれば良いいだけの人生の選択。

忖度。
奇妙な言葉だ。
他人の目を気にする選択のことだろう。
そりゃあそんな判断ならば道を外すだろう。
死人。
世捨て人。
投げやり。
投げやりならば、もう考える必要もないな。
なのに苦しい。
捨てた人生ならばどうして苦しい?
まだ、足掻きたいんだろう。
どうにかしたい。
希望を捨てきれてない。
ならば、結論は最初から出てる。

一歩踏み出すかどうか、だけだ。
行きたい方向に。

それは勇気という言葉が近いかもしれない。
嫌われる勇気。
そうかもしれない。

しかし結局は他人の人生を歩む。
他人に忖度する。
そこから逃げて自由に生きたら、そりゃあ嫌われる。
でもやっぱり嫌われたくない。

そこんところか。
まだまだ夢の途中ってことか。

夢から醒めたら、棺桶の中、なのかもしれないけれど。
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オーディオブック

2022-06-07 10:02:41 | エッセイ


テレビCMでオーディオブックの宣伝を見ました。
私はむかぁし、FM 福岡で夜の9時からやってた「音の本棚」を聴くのが好きでした。
聴く物語です。
本を聴く。
おもしろいですね。
そもそも本は読むものという概念があります。
でも、「読む」という行為を 「聞く」という行為に変換できたわけですね。
であるならば「見る音楽」とか「感じる風景」などはいかがでしょうかね。
だれかそういう変換器を開発してほしい。
感じる風景は東大のベンチャー室でやってるらしいというのを10年くらい前に聞きましたけどどうなってるんでしょうかね。
つまり見えない人が風景を感じられる様にするんだ、と言ってました。
それはおでこの皮膚に触覚のような布のようなモノを当てて皮膚で前方の物体を感じ取るんだと言ってました。
へぇ~、でした。
朧げですが、何かがあるのがわかるらしいです。
目が見えなくてもわかるんですね。
音が聞こえなくても感じることができるってのもイイ。
そもそも音は空気の振動ですからやりようによっては可能ですよね。
耳がなくても音の振動は皮膚でも解る。
特に大きな音は皮膚で感じられる。

もっと視野を広げて考えたら、
同様な意味で言えば、漫画っていうのもそういう新しい感覚の一つかもしれません。
日本の漫画は絵によって印象を伝える。
昔の壁画のように言葉ではなく、意味を伝えることに特化した落書き。
その連続で気持ちを伝える。
まさに人の感覚に特化した動作の一つですね。
言葉によって人が人に意識を伝える。
すごい発明。
絵の連続によって意識を伝えることができてる。
ならば
音によって意識を伝える。
歌とか音楽とかがそれに当たる。
歌詞の中身も、はっきり言わないけれど 言葉の羅列のようで、感じられる印象によってある意味を伝えてる。

戦争の絶えない中世以降の人の世の中に何か新しい文明の進化をもたらすことができたら、さらに人類は進歩するかもしれません。
でも、きっとそれは機械とかAIとかインターネットとかよりも更に次元を画したものになるような。
そんな気がします。

この世は光でできてますよね。
ビッグバン以降に質量というものが光を介して成長する過程の中に 命という特質的なモノが巣食ったのであれば、その光以上の五感を研ぎすまさなければならない。(すみません、意味わからないと思います)

古代の人間も現代人も脳の組織はほぼ同じ。
だから能力は同じ。
何故、進化の過程が違ったのか?
なんとなく、現代の無意味な物質の進化を凌駕する感覚を意識の中に得ていたのではないか?
それは超能力とかそういうモノではない。
確かな「感覚」

音楽が人の印象を変える。
絵画や写真でも人の世を変化させら得れる。
様々な感覚をさらに変化させられれば、違う文化、文明に変換できそうな。
それはモノの進化ではなく、感受性の進化。
日本人の得意技じゃあないのかな、等と感じてます。
何故なら自然の中にはまだまだ人知を超える未発見の何かが潜んでる気がします。

我々人類はまだまだ何も知らない。
それを知りたいといつも感じています。
日々、とことんだらけながら。
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