私個人の考えですが、
神経質な事は誰でも有り得る意識だと思います。
その意識が度を越すと強迫神経症という事になるのではないのか、と。
つまりそこに程度の差が存在する、と。
その程度はそれ自体にも個人差があるのではないのか、と。
ちょっとした事で神経質に考える人が、その人の今の現実の日常よりも更に忙しい日々を余儀なくされていたら、と仮定する。
そうした場合に、もしかしたら、「忙しいので神経質になり様もなくて神経を使う事をスルーする」かもしれない。
あるいは、余計に神経を混乱させて神経症を早期から発症するかもしれない。
その環境によって様々に変化する要素がある、と感じるのです。
人の感覚はいい加減であって、例えば、
随分とお腹を空かした人でも、セックスの最中ではあまりそういう感覚を意識しないだろうな、とか。
または、逆にそこまで腹をすかせていたら、本来の性欲自体も消えてるかもしれない。
人の性質と環境が、その場の状態によって色々と違うだろうな、と。
であるならば、病名などもいい加減なものであって、医者の診断すらも、ただのラベリングにしかならない場合も多々ありすだな、と思うのであります。
私はワリと神経質だと言われる事も、嘗ては多かったです。
今は、自然と、ある意味「どうでもいい」意識を持とうとしてますから、「大雑把な人」になって行ってる気がします。
最近はあまり意識しなくても大雑把になってる。
それと同時に、物忘れも随分多くなった。
覚えようとしない意識が強くなってる。
日々 碌なことが無いので、できるだけ多くの事を忘れたほうが得だと認識してるんだろうな、と。
それは自分がそうしよう、という意識の外でも、無意識に「忘れたい」という気持ちがどこかで作用してるんじゃ無いのかな、と。
だから、大事なことすら、忘れてる。
行動にもそれが出る。
どんどん多くなって行って、いずれは「ボケた」という状態になる。
そうなったら、シメたものかもしれません。
そういう気持ちを考えるという事は、やはり、神経質に物事を受けやすい環境に私自身が存在してるのでしょう。
覚えておきたい日々ばかりになるならば、脳裏に多くの記憶をしたい、と念じるのでしょうけれど、ただ、そういう老人が多くなればなる程に若者への負担も多くなりそうです。
それはそれで、あまり嬉しい未来とは思えない。
まぁ、人の事を考える余裕があるだけ まだ精神的に切羽詰まってないのか。
であるならば、やはり基本的に神経質な性質を持ち合わせてるんでしょうかな?
でもやっぱり、神経質な感覚がなくなるまで、そういう方向で歩いて行くんでしょうなぁ。