つまり年金は生きてて、働いてて退職後の暮らしをより良くするお駄賃的な意味から始まった。
従って、そもそも年金だけで暮らせるというものではなかった。
しかし現在は年金だけで暮らせる前提で考える人がほとんどになった。
では、以前はどういう考えだったか?
昔は老人になっての暮らしは「子孫に世話になり老後を送る」というのが基本だったし、それが他の哺乳類の動物でも似た感じだろうと思う。
だから猿でも同様だろう。
まぁ、知能がある程度高い生き物であるならば、だが。
人間は特に今でもそういう生き方が基本だと思う。
従って、現代社会での老人ホームというのは暮らし方が間違ったものになってると思う。
現代社会特有の暮らし方の悪化。
生き方の劣悪化だ。
だから子供が減る。
子孫繁栄の基礎は子供を多く残してそして未来の生き方に繋げる、或いは未来の自分の種の安定を意識することではないか?
従って、寺の坊主のような生き方はある意味間違ってる。
念仏を唱える事が重要ではなく、生きてるのは何が基礎か?ということ。
生きるための心の拠り所は念仏や説教ではない。
命の繋ぎだろう。
自分の存在が『あってよかった』と言えること。
子孫が居ないことは「そこで終わり」、終止符だ。
だから祈るしかなくなる。
もう存在しなくてイイという虚しさを吐き出せる何かを求めるからだ。
「年金の話」、本題に戻る。
老後、生きるには老人ホームに入って幸せか?
今後、少子化により介護する人間の数は減る一方だ。
従って、これから老人ホームなどの介護職で働く人は限りなくゼロになる。
最後には居なくなる。
つまり機械が介護するだけの施設になる気がする。
機械は機械だから、そこはいわゆる介護の現場ではなく捨てられた老人の掃き溜めのような場所になる。
将来はそこでかかる費用が年金だけで運用できるようになるかもしれないが、おそらく粗悪な場所になるだろう。
姥捨山だな。
生きる墓場だな。
さっさと死にたくなるだろうな。
それならば、長生きしなくていいんじゃないか?
長生きが幸せのバロメーターではなく、長生きが地獄行きを意味することになる。
もう既にそうなってる。
だから今こそ 子孫に囲まれて余生を眺めて、そしてそこで生きることが幸せな気がする。
ただ、生きるだけでも子孫がそこに居れば救われる。
仏門に入らなくても家庭がそこにある。
それが幸せの到達点に思える。
そう思えるのは自分の精神が老人になった証かもしれない。
そしてそこで、年金の役割がどういう意味を為すか?
年金はあまり意味を為さない。
あってもなくても別に意味を持たない。
つまりなくてもいい存在になる。
むしろそんなものがあると現代社会のような間違いを生む。
間違いというのは先ほどから書いてる内容だが、それだけではおそらくまだ結論が理解できない様に思うので続ける。
何故なら『それではどういう老後の生き方を目指すのか?』の結論が明記できていない。
はっきりと言う。
子供を最低でも三人は産むことだと思う。
子孫繁栄だけを言ってるのでは無い。
老人になって子孫が多ければ多いほど面倒をみてもらえると言うことに尽きる。
それが能書ではなく現実だということだ。
そういう家族を何かで見たとこがあるだろう。
大家族。
最近は沖縄県あたりでないと見ないかもしれないが。
二人ではおそらくそういう環境に至れない。
子供は最低三人はいた方がいいと思う。
先に書いたように三人居ればどこかで誰かに介護してもらえると思う。
まぁ、三人で安心できるわけではない。
もっと多い方が良い。
しかし、育てるのが大変だ。
だから生きるのは大変なのだ。
そこを頑張る。
年金というお金を作るのに『大変だ』というのがそもそも間違い。
年金は消えるだけ、誰かに搾取される『お金』だからだ。
或いは年金は将来減るから貯蓄とか投資で貯めておけ、と言うマスメディアもオカシイと思う。
ところが子孫には心がある。
どんなに劣悪な者であっても肉親関係は消せない。
それほどの結びつきがある。
こういうのを赤い糸と言うのだろうか。
しかし確かに先ほど言ったように安心できるものではない。
戦時中は大勢の人が亡くなった。
子供も亡くなった。
そして自分の子供が絶対に介護できる生き方をしてるかどうかわからない。
世の中は厳しい。
しかし、だからこそ多くの子孫を残すことが老後の生き方に道を造る。
従って、年金を考えるならばむしろ子孫を可能な限り多く残すことの方が、老後に於いても安心になる。
そこを、「面倒」とか「自由が欲しい」というようなマヤカシに導かれて道を誤るのが現代社会の罠だろう。
そこに至った原因が都市化の傾向だと思う。
西洋の民族で、滅んだ民族はたいていそこにハマっている気がする。
日本国土に於けるこの土地の民族は今まで、そういった西洋に於ける都市化の罠に嵌まらないでなんとか来た。
世界で見ても数少なくなった少数民族は発展こそしないが生き永らえている。
そして多くの子孫繁栄で生き繋いできている。
なぜか?
先ほどの『お金を残すより子孫繁栄』で繋いできたからだ。
現代の日本人の生き方は西洋の近代化に憧れ、都市化が良いと洗脳された事により、『子孫繁栄よりもお金を残すことを優先』している。
だから、ただ虚しい生き方で終わる。
それは今に始まったことではなく、大東亜戦争後の進駐軍に於ける西洋化への洗脳から始まっていて、まさに今至っている。
いまだに米軍はその道を突き進ませるために国土中に居座っていて止められない。
いや、明治維新からかもしれないな。
『近代化』という言葉と『都市化』という言葉がイコールで結ばれている。
それは一度壊滅させないと理解できないほどに。
多くの若者が大きな都市に憧れ、大規模な都市で生きることが正しいと勘違いしてる。
そして大都市に住むと多くのお金が必要になる。
お金を得るために時間の切り売りをして歳を取る。
気がつけば老後のためのお金(年金)を得るために生きている。
しかし、年金でできることは、介護する人のいない未来にお金を捨てるだけ。
そこに至った後の生活には無惨な暮らしが待ってる。
無機質な機械が物理的な動作をするだけ。
まるで人形を扱うかのような動きをする。
見た目は人の形をしてるだろうし、ある程度の会話はできるだろう。
しかし、人の心を読むことはできない。
一般的な人の動きに対応するだけのプログラムだから。
その時代において 変化する地球上の人間の個性を理解するには あらゆる変化に合わせられるDNA(プログラム)の改変が行われないといけない。
それを「進化」と言う。
人は自然に進化する。
そういう「命」を持つ。
未来に於ける破壊と創造。
それができるのが『神』だと言った。
しかし、実はそれができるのは『人間』そのものだろう。
宗教では『神』は唯一無二のものだと言った。
そこには変化しない『絶対』が居る、と。
しかし『破壊と創造』は「絶対の拒否」ではないのかな?
神を否定し、そして新たに生き直す。
それは『子孫繁栄』以外に無い気がする。
そこに至れば全てが落ち着くと感じる。
『年金問題』を解決するには人の暮らしが重要。
そしてその本質は『家庭』だろう。
それは一番身近にある。
まさにメーテルリンクの『青い鳥』に書かれてる意味だな。
日常を否定するから日常が手に入らない。
簡単な答えが見えない。
見ようとしない。
『都市化』の甘い罠とも言える。
それを見出すには一度いまの都市化社会を破壊するしかないのか。
トランプの世界を破壊する行為も、或いは それが朧げでも、見えてるんだろうか?
などと想像してみる。
元に戻る。
結論。
『年金』は必要ない。
或いは貯蓄や資産も必要ない。
必要なのは家族だ。
結婚して子供を可能な限り産む。
それを『愛』という言葉で唱えてる。
そこに至ったならば男性とか女性などと言ってても意味はない。
何故なら両方居ないと子供は誕生しない。
そこに祖父母も必要になるだろう。
何故なら『家庭』とはそういうものだからだ。
過去、5億年かけて出来上がった命の繋ぎ方。
そこに戻れば良いだけだ。
簡単な答え。
しかし実行するには一番難しい解答だろうけれど。
なんとかやるしかない。
たいてい多くに人は「そりゃあ年金問題とは違う」と理解するんだろうな。
そこがなんだか虚しい。