仏教の凄いところは、そこには理論で記載されいない点かもしれないと感じる。
感覚で教えようとしてる。
機械に痛さや快さを教えても、そこには言葉で書かれるだけで、機械にその痛い感覚を浸透させることはできない。
つまり機械は「嫌だなぁ」を感知できない。
「感知」というあたりに意味があるかもしれない。
機械がイライラしない様に、そういう感覚がない。
肉体が無いからだ。
では、そういう感覚を持つ物体を作りセンサーを作り刺激を与え、微細な反応ができるようにしたとして、どうなるか。
「心地良い」と感じる部分を教える。
心地よさは人により様々だ。
だから、センサーごとに別に教える。
痛さはどうですか?
結局、一つの個体の痛さは伝わらない。
伝わらないから、それぞれで教えあうしかない。
コミュニケーションをとることになる。
それぞれの個体が話し合う。
結局は統一された決まり事が分解されて、それぞれバラバラな感覚を伝達し合う。
動物も人も、或いは植物も、複数のコミュニケーションという文化を作って初めて成り立つものかもしれない。
宇宙があっても物体だけだ。
時間があっても変化するだけだ。
そこにコミュニケーションという次元がついてくる。
様々なものがつながる。
つながること。
つながるという次元。
それが5次元を構成してるのではないか。
仏教は感知を重要視してるのではないか。
感知の世界。
感覚は情報の一つなのか?
時間が無くなれば情報もないか?
痛いという感覚。
また、感情もある。
お互いに共有できる感情や感覚。
共同体。
共に感知する行為と身体と心を目覚めさせる。
そこに仏教の到達点、目標があるような気がする。
それは教え、というよりも生きることで受け取れる。
そのものに落ち着く。
生まれた時から死に向かって歩き始める。
その言葉で解る感覚。
きっと機械では、その理解が生まれないだろう。
量子コンピューターが産まれれば、それが解るという人がいるが。
果たして。
そこで「詩」や「歌」で何かを感じるかどうか。
感じること。
それも感情で。
それは扁桃体と海馬の友情、などと言ってみる(笑)
未来の話だな。