賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

いい加減さが命の源となる

2024-03-08 05:51:13 | 暴言
機械のようにあまりにも細かく精密に物事を追求していくと、意識の方向性が大きく変わってしまう
つまり元々の目的を見失いガチということだ
物事を決めるときには、ざっくりと大雑把なところに目標を設定するのが良い
何かの行動をするときに、おおざっぱな時間を決めておくと、それに向かって大胆に突き進んでいくことができる
ところが効率を求めて細分化していくと、その細分化に執着をしてしまい、最終目的が何であったかをおろそかにしてしまう傾向が非常に多い
多少細かいところがずれてしまっても、最終的な到達点がほぼ理想に近ければ、それは正しいと言う判断をするべきであろう
細部にこだわりすぎると、その細部が目的となってしまう
時間が有り余ってしまって、細部に目的を移動する事は決して悪いとは言わない
ただし、その場合、目的が変わってしまうことになるからそれを解っておかねばならない
そこを受け入れなければならない
人の人生の問題として考えてみる
人生を遠回りして良いのであればそれは道草になる
ならば、それでもいいし、若者がまだ人生の方向を決めあぐねていると言うのであれば理解できそうだ
大断英に構えて、おおざっぱに言い切ってしまうと時間等はどうでもよくて、目的などもどうでもよくて、ただ生きてるだけの植物とか、あるいはちっぽけな虫けらのような存在であっても構わないとは思う
結局、目的は、自分自身が勝手に決めた単なるわがままの象徴であるからである
しかし、自分の周りにそれでは困る人が出てくるから、そこが厄介なことだとも言える
自分1人で生きていけるなら、それはずいぶんと楽な生き方だと思える
ただ、それでは彩りがなくて、人生の面白みがほぼなくなってしまう
適度な人数の人間関係と言うのは良いことだと思う
しかし、その人間関係が多くなりすぎると、とても厄介になり、逆に疲弊しきってしまう
そして、それが多すぎると自らの心を病んでしまうことにもなりかねない
そこはごめん被る
時間は有限である
けれども、反対側から見渡せば時間は無限である
時間があったから、どうだと言うのだ
その時間に、何の意味があるのだ
したがって、効率を重視するために、細かく行動の行方を区切って緻密にしすぎるとあえて遠回りになってしまい、時間がかかるということがほとんどであろう
いい加減なことの方が良い場合は特に多い

ちっぽけな動物や植物は自分のことだけを考える
自分のことしか考えないという事はどういうことか
自分は自分のことしか考えてないと思っているけれども、実は周囲と溶け合うために他のことを強く意識している
「考える」というよりむしろ充分に他を意識した生き方になっているのではないか
それはどういうことなのか
他人のことを意識していると言う事は、自分のことしか考えてないこと同意なのか
そこをはっきり認識しておきたい

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