昨日 車を運転していて歩道を歩く高齢者を見かけた。
杖をつきながらよろよろと歩いていた。
その隣に付き添いの若者が1人、老人がこけないように介護をしながらケアをしていた。
いずれ自分も介護をしてもらわないといけなくなる。
そういえば、先日会った義理の兄が同じようによろよろと歩いている。
最近80歳を過ぎて足が弱くなり、歩くのが困難になっているようだ。
先日出会ったときに、かなり歩くのが困難になっていた。
その妻であるところの実の姉は75歳の年齢である。
姉は動脈硬化症により足が弱い。
けれども足取りはしっかりしている。
てきぱきと歩いている。
毎日2キロくらいのウォーキングは続けているらしい。
逆に義理の兄は、膀胱に病気を持っていて、おそらく腹筋に力を入れられないのではないかと思う。
自分も似たようなもので、お腹に力が入らない。
自分においては、むしろ大腸に問題があると思うのだが。
多分そうだと思う。
医者にかかってもよくわからないと解答された。
よくわからない。
なので医者に何度もかかっても意味がない。
意味がないと言い切れるのは、もうすでに何度も医者に検査をし尽くしてもらったからだ。
にもかかわらずわからないと言う返事しか返ってこない。
そうなると行き着くところまで行ってからもう一度見てもらうしかないな、と思う。
今の医療は健康保持するための医療には遠く及ばない。
病気になってしまってからの病人のただの処理だ。
治療といえるものではないな。
対処だな。
対応だな。
あと始末と言っても良いくらいの杜撰な場所がほとんどだ。
しかしながら、よぼよぼ歩いている老人を見かけたときに思ったことがある。
そこまでして、生きていたいんだなぁと。
おそらく本人としてはそこまでしていきたいと言う意思は無いのだろう。
ただ、死ねないだけなのかもしれない。
そういう意味で言われればよくわかる。
そう簡単に死ねない。
人はそう簡単に死ねないものだ。
その上、今の医療は『死なせない』のが目的になっている。
いくら激痛で死ぬより痛い目に合っていても、死なせない。
まさに拷問だ。
今の日本社会はそれが正しいと言うことになっている。
てあるならば、緩和ケアと言う医療が誕生しても已むを得ないだろうな、と思う。
緩和ケアとは、『苦しくても死ねない人たち』の苦しみを少しでも軽減するための医療である。
少し矛盾を感じる。
生きるだけが目的?
いや、そうじゃない。
『死なせない医療制度』が目的。
それで医療業界は巨万の富を得る。
それが常態化してて、当たり前になっている。
民間の人も『医者は儲かる』と言うくらいに受け入れている。
儲かりすぎる。
そして御多分に洩れず、「お金を集めることが一番大事」に気持ちが変わる。
しかしながら、そこらへんに陥っても何らかの評価を与える。
またその一方で、世界では戦争が起こり殺し合いをしている。
大きな矛盾を感じる。
まぁその矛盾はここではイイ。
別次元の問題だ。
最近の私は、よぼよぼ歩いている老人を見かけると、やはり介護と言うものは矛盾があろうがなかろうが、必要なことであろう、と感じる。
自分が子供の頃ひい婆さんの介護を父がやっているのを見ていた。
あれは一体何の意味があったのか?
考えなければならない時期に来ている様に思うのだ。
しかしながら介護に資格がいるという。
よくわからんな。
介護はある意味 義務だ。
それに資格がいるとは?
苦笑する時代だな。