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健康寿命があと4年

健康は既にほぼ消滅したし、あちこちで不具合があります。

介護の時代

2025-04-11 20:41:26 | エッセイ
昨日 車を運転していて歩道を歩く高齢者を見かけた。
杖をつきながらよろよろと歩いていた。
その隣に付き添いの若者が1人、老人がこけないように介護をしながらケアをしていた。

いずれ自分も介護をしてもらわないといけなくなる。
そういえば、先日会った義理の兄が同じようによろよろと歩いている。
最近80歳を過ぎて足が弱くなり、歩くのが困難になっているようだ。
先日出会ったときに、かなり歩くのが困難になっていた。
その妻であるところの実の姉は75歳の年齢である。
姉は動脈硬化症により足が弱い。
けれども足取りはしっかりしている。
てきぱきと歩いている。
毎日2キロくらいのウォーキングは続けているらしい。
逆に義理の兄は、膀胱に病気を持っていて、おそらく腹筋に力を入れられないのではないかと思う。
自分も似たようなもので、お腹に力が入らない。
自分においては、むしろ大腸に問題があると思うのだが。
多分そうだと思う。
医者にかかってもよくわからないと解答された。
よくわからない。
なので医者に何度もかかっても意味がない。
意味がないと言い切れるのは、もうすでに何度も医者に検査をし尽くしてもらったからだ。
にもかかわらずわからないと言う返事しか返ってこない。
そうなると行き着くところまで行ってからもう一度見てもらうしかないな、と思う。

今の医療は健康保持するための医療には遠く及ばない。
病気になってしまってからの病人のただの処理だ。
治療といえるものではないな。
対処だな。
対応だな。
あと始末と言っても良いくらいの杜撰な場所がほとんどだ。

しかしながら、よぼよぼ歩いている老人を見かけたときに思ったことがある。
そこまでして、生きていたいんだなぁと。
おそらく本人としてはそこまでしていきたいと言う意思は無いのだろう。
ただ、死ねないだけなのかもしれない。
そういう意味で言われればよくわかる。
そう簡単に死ねない。
人はそう簡単に死ねないものだ。
その上、今の医療は『死なせない』のが目的になっている。
いくら激痛で死ぬより痛い目に合っていても、死なせない。
まさに拷問だ。
今の日本社会はそれが正しいと言うことになっている。
てあるならば、緩和ケアと言う医療が誕生しても已むを得ないだろうな、と思う。
緩和ケアとは、『苦しくても死ねない人たち』の苦しみを少しでも軽減するための医療である。
少し矛盾を感じる。
生きるだけが目的?
いや、そうじゃない。
『死なせない医療制度』が目的。
それで医療業界は巨万の富を得る。
それが常態化してて、当たり前になっている。
民間の人も『医者は儲かる』と言うくらいに受け入れている。
儲かりすぎる。
そして御多分に洩れず、「お金を集めることが一番大事」に気持ちが変わる。
しかしながら、そこらへんに陥っても何らかの評価を与える。

またその一方で、世界では戦争が起こり殺し合いをしている。
大きな矛盾を感じる。

まぁその矛盾はここではイイ。
別次元の問題だ。
最近の私は、よぼよぼ歩いている老人を見かけると、やはり介護と言うものは矛盾があろうがなかろうが、必要なことであろう、と感じる。
自分が子供の頃ひい婆さんの介護を父がやっているのを見ていた。
あれは一体何の意味があったのか?

考えなければならない時期に来ている様に思うのだ。
しかしながら介護に資格がいるという。
よくわからんな。
介護はある意味 義務だ。
それに資格がいるとは?
苦笑する時代だな。
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天皇家と日本の家制度と自分の家系

2025-04-11 20:21:27 | 独断と偏見
『氏』の存続の事だ。

名前には『氏』と言って『苗字』とそれに追加して、個人自身だけの『名』の文字通りの個人名がある。
氏名の『氏』は続柄であり、そこの『家』を表す。

『家系そのもの』を表す。
つまり、そこの家庭は歴代この『氏』『苗字』でやってきてるよ、ということである。

日本と言う国は行ってみれば、天皇と言うものを中心にした系統を示す。
従って、日本国と言うひとつの家系であり、種族であり、伝統である。
ここまで引き継がれてきた民族の流れを表している。

家の苗字もそれと同じように作られている。

そこで昨今、問題になっている「天皇家を絶やさないで続けるかどうか」の議論がある。
今まで引き継いできた「男系男子」の「風習」、いわゆる習わしで継続してきた「伝統」というものがあるのだ。
「風習」とか「伝統」とかはこのやり方でやってきたよと言うひとつの「仕組み」である。
「仕組み」を壊すと別物に変わる。
手が2本、足が2本は哺乳類である。
足が6本は蜘蛛である。
羽をつけたら虫になる。

羽根がありそして足が6本ある人間というものが存在したならば、それを人間と呼ぶかどうか?
空を飛んでいるカラスを見て、あれは人間だと言えるか?

つまり、その体を為す構造が変わってしまえば、そのものも存在自体も認識が変わる。
日本と言う国を引き継いできた日本人が天皇家を辞めてしまえば、今まで続いてきた日本と言う天皇を中心とした国家は終わる。
あるいは仕組みを変えていくと、それはそれで日本人とは呼べない可能性がある。

おじいちゃんが日本人だけれども、それ以降は全部ブラジルの人たちとの混血の場合は、ブラジル人と言っていいだろう。
逆に、さかのぼればブラジルから移住してきた人の孫や娘が日本人と結婚をして2代3代4代と引き継いでくれば、もうそれは日本人と言っていいだろう。
日本の国に98%位が中国人が移住してきて、ここは日本人の国だと言えるか?

多分言えない。

そのように仕組みも変えてしまえば、だんだんと名前も変わる。
そして本質も変わる。

自分の家もそうだ。
長男であるBくんが結婚をしなかった。
そこに、隣のLくんがやってきて住み着いた。
そして、Lくんの子供をができた時にBくんの子供だと言えるかどうか?
だってここに住んでるんだから。
それをB君の子供だと言えるかどうか?

多分言えない。

そのように、日本の国家と日本の家庭は結びついていて、風習や仕組みは同じだと考えられる。

そうなると、現代の家制度の崩壊は、日本の崩壊であり、日本人の崩壊であり、未来の消滅である。

生きてるからいいではないか。
そういうのであれば、ここの国に日本人がいなくなって、中国人になる、或いはアメリカ人が乗っ取ってしまってもいいと言う判断をしたことになる。

現代はそうなっている。
我が家もそうなっている。
自分の家を心配する。
自分の子孫を心配する。
未来を心配する。

現代社会は「今が良ければ良い」と言う刹那的な短絡的な考え方が一般化している。
これではダメだと思うのだけれども、それを口に出していると、周囲から攻撃される文化になってきた。

終わりの始まりと言う言葉があるが、それも既に消滅しつつある。
この国が消滅するのでもなく、今まで見てきた美しい文化や風刺や光景や春夏秋冬の色があるこの日本の国が消えてなくなろうとしている。
本当にそれでいいのか、改めて口に出して大声で叫んでみたいと思う。
それでも攻撃されても、それでも叫びたいと言う感情が湧き起こる。
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お墓

2025-04-11 05:32:23 | エッセイ
そろそろ終活をすべきか?
そう感じた。
荷物を整理しなければと感じた。
自分が集めてきた荷物を断捨離する行為。
簡潔に言えば捨てることだろう。
しかし大事に集めてきたモノを捨てる行為。
今までの自分の記憶や歴史を消す行為。
まぁまだ生きてるし。
死んだらその歴史も記憶も消す。
なんと寂しいことか。

そもそもお墓とはそういった記憶やモノや歴史を石の中に入れ込んで身体と一緒にまとめたモノ。
そう感じる。
一つの石。
そこに歴史、遺志、モノ、記憶、全て一つにまとめる。
なかなか物理的には無理だけれど、そもそも風化する人の記憶は止めることは人間には誰もできないこと。
そのうち地球すら消えて宇宙の地理と化すだろう。
しかし、人がいる間は、誰かの脳裏に生前の記憶があるうちは狭いけれど何かに閉じ込めておこうという意味がお墓なんだろう。

生きてるうちの終活は、それをし易い様に、と自分でやる行為。
しかし、生きてるうちはもっと自分の生き様を求めるのが良い気がする。
生きてるんだから。
死んだ後はどうにでもなろう。
のたれ死んでも ただ風化するだけだし。
ハゲタカが身体を突いて啄んでくれるんではないか?
ピラミッドの王家の墓すら盗賊が暴いて宝物を持って行った。

終活するなら死んだも同然ということか?
そりゃあ出家という言葉に似てる。

現代社会に於いて定年という言葉はそういう意味が少しあるのではないか?
そもそも決まった年齢で仕事を辞めろという行為。
今は人手不足だろうが。
そもそも定年とは何故に作ったか?
老人が今よりも早くきた時代。
55歳で身体はおじいちゃん。
磯野波平さんだな。
今の70歳以上の人が55歳の波平さんに重なる。
つまり55歳で70歳の暮らし。
しかしなぁ。
今は70歳でも仕事をしてる。

従って定年の実態は脳や肉体の老化であまり効率的な仕事ができなくなった老人を捨てて、しっかりと動く若者を雇用したいという企業の意志だろう。
ところが今の若者は甘やかして育てたから最初からずっと使い物にならない。
今の若者というよりも、多くの裕福な家庭の子供たちのことだな。
貧困ならば最初から最後まで使い物になる。
生きることに必死だからな。

そういう人は死ぬまで生きることに執着する。
定年なんてクソ喰らえ、だな。
従って終活なんてしない。
できない。
生きてたら何かやってる。
身体が老化によって不自由してても尚、だ。

しかし、なんだか今は黄昏てしまう。
そういう季節なのか?
春だぞ?
そういう時期なのか?
まぁ、いい。

おそらく環境が止まってしまい、意識が停滞してるんだろう。
老化はしようがない。
そして誰にでも訪れる。
しかし、まだ生きてる。
ボケてても。
痛みを伴ってても。
まだ生きてる。
死んじゃあいない。

ただお金が少ないから好きなことができない。
なら稼げ。
お墓の準備は?
まぁ考えるだけで取り敢えずイイか。
どうにかなるだろ。
どうにかならないのは他人の目と口だ。
まぁ、そんなところか。
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