未だ、政権基盤の弱い明治政府は内憂外患でこの事件の処理に時間を割けない状況。
1871廃藩置県(M4/7/14) 日清修好条規(M4/7/29) 岩倉使節団出発(M4/11/12)
1872学制公布(M5/8/02) 新橋・横浜間鉄道開通(M5/9/12) 富岡製糸場設置(M5/10/04)
1873太陽暦採用(1/01) 徴兵令(1/22)地租改正条例(7/28)岩倉使節帰国(9/13)
明治六年政変(李氏朝鮮問題で政府二分10/24西郷隆盛辞職 以降辞職者多数)
1874民撰議院設立建白書(1/17) 佐賀の乱(2/01~)台湾出兵閣議決定(2/06)
明治政府は一向に埒が明かない外交交渉に見切りをつけ、武力行使を決断。
(但し、不平士族の不満解消・ガス抜き・救済政策が主であったことは否めません?)
決断の根拠は清政府が台湾を清皇帝の影響・支配が及んでいない地域と主張した事です。
西洋列強諸国が掲げる「国際法(万国公法)」に依ると主権が及んでない地域は
「主権者のいない無主の地」。
又、宮古島島民は日本人。その日本人が被害を受けたので報復行動は自明。
従って、その地に住まう方々を「征討・成敗」しても全く問題が生じないとの論理。
5月に日本陸海軍は台湾南端(恒春半島)に上陸、戦闘に及びます。
現地指揮官は西郷隆盛(1827~1877)の弟・西郷従道(1843~1902)。
圧倒的な兵力の来襲で台湾先住民の排湾(パイワン)族の皆さんは寝耳に水状態。
約一ヶ月を要すも、日本軍は彼らを制圧します。
この行為を、清政府は日本の暴挙と憤慨・批難・反発します。
清王朝は台湾居住地にいる生蕃は確かに化外であるが、台湾島は清王朝に属している。
よって、日清修好条規の第一条(相互不可侵)違反と断固主張したのです。
事態打開の為、日本側全権、大久保利通(1830~1878)は北京に赴きます。
会談の清王朝側お相手は基本的に恭親王・愛新覚羅奕訢(1832~98)でした。
しかし、交渉は難航、平行線を来します。この状況が好転したのは世界覇権国家、
英国の駐清公使・トーマス・ウェード(1818~95)が仲介・斡旋した事に依ります。
この仲介でやっと、事件処理の進行をみます。
そして、漸く、「北京専条」協定(1874/10/31)が結ばれ、決着を見るのです。 続く。
1871廃藩置県(M4/7/14) 日清修好条規(M4/7/29) 岩倉使節団出発(M4/11/12)
1872学制公布(M5/8/02) 新橋・横浜間鉄道開通(M5/9/12) 富岡製糸場設置(M5/10/04)
1873太陽暦採用(1/01) 徴兵令(1/22)地租改正条例(7/28)岩倉使節帰国(9/13)
明治六年政変(李氏朝鮮問題で政府二分10/24西郷隆盛辞職 以降辞職者多数)
1874民撰議院設立建白書(1/17) 佐賀の乱(2/01~)台湾出兵閣議決定(2/06)
明治政府は一向に埒が明かない外交交渉に見切りをつけ、武力行使を決断。
(但し、不平士族の不満解消・ガス抜き・救済政策が主であったことは否めません?)
決断の根拠は清政府が台湾を清皇帝の影響・支配が及んでいない地域と主張した事です。
西洋列強諸国が掲げる「国際法(万国公法)」に依ると主権が及んでない地域は
「主権者のいない無主の地」。
又、宮古島島民は日本人。その日本人が被害を受けたので報復行動は自明。
従って、その地に住まう方々を「征討・成敗」しても全く問題が生じないとの論理。
5月に日本陸海軍は台湾南端(恒春半島)に上陸、戦闘に及びます。
現地指揮官は西郷隆盛(1827~1877)の弟・西郷従道(1843~1902)。
圧倒的な兵力の来襲で台湾先住民の排湾(パイワン)族の皆さんは寝耳に水状態。
約一ヶ月を要すも、日本軍は彼らを制圧します。
この行為を、清政府は日本の暴挙と憤慨・批難・反発します。
清王朝は台湾居住地にいる生蕃は確かに化外であるが、台湾島は清王朝に属している。
よって、日清修好条規の第一条(相互不可侵)違反と断固主張したのです。
事態打開の為、日本側全権、大久保利通(1830~1878)は北京に赴きます。
会談の清王朝側お相手は基本的に恭親王・愛新覚羅奕訢(1832~98)でした。
しかし、交渉は難航、平行線を来します。この状況が好転したのは世界覇権国家、
英国の駐清公使・トーマス・ウェード(1818~95)が仲介・斡旋した事に依ります。
この仲介でやっと、事件処理の進行をみます。
そして、漸く、「北京専条」協定(1874/10/31)が結ばれ、決着を見るのです。 続く。