当世・服飾ファッション・よもやま話  UP TO DATE FASHION NEWS

目に映る当世ファッション状況を感じたままお知らせします。このサイトのファッションは服飾に限ります。インフレファッションへ

明治政府は台湾出兵を決断

2025-03-15 | ファッション
未だ、政権基盤の弱い明治政府は内憂外患でこの事件の処理に時間を割けない状況。

1871廃藩置県(M4/7/14) 日清修好条規(M4/7/29) 岩倉使節団出発(M4/11/12)
1872学制公布(M5/8/02) 新橋・横浜間鉄道開通(M5/9/12) 富岡製糸場設置(M5/10/04)
1873太陽暦採用(1/01) 徴兵令(1/22)地租改正条例(7/28)岩倉使節帰国(9/13)
    明治六年政変(李氏朝鮮問題で政府二分10/24西郷隆盛辞職 以降辞職者多数)
1874民撰議院設立建白書(1/17) 佐賀の乱(2/01~)台湾出兵閣議決定(2/06)

明治政府は一向に埒が明かない外交交渉に見切りをつけ、武力行使を決断。
(但し、不平士族の不満解消・ガス抜き・救済政策が主であったことは否めません?)
決断の根拠は清政府が台湾を清皇帝の影響・支配が及んでいない地域と主張した事です。
西洋列強諸国が掲げる「国際法(万国公法)」に依ると主権が及んでない地域は
「主権者のいない無主の地」。
又、宮古島島民は日本人。その日本人が被害を受けたので報復行動は自明。
従って、その地に住まう方々を「征討・成敗」しても全く問題が生じないとの論理。
5月に日本陸海軍は台湾南端(恒春半島)に上陸、戦闘に及びます。
現地指揮官は西郷隆盛(1827~1877)の弟・西郷従道(1843~1902)。
圧倒的な兵力の来襲で台湾先住民の排湾(パイワン)族の皆さんは寝耳に水状態。
約一ヶ月を要すも、日本軍は彼らを制圧します。
この行為を、清政府は日本の暴挙と憤慨・批難・反発します。
清王朝は台湾居住地にいる生蕃は確かに化外であるが、台湾島は清王朝に属している。
よって、日清修好条規の第一条(相互不可侵)違反と断固主張したのです。
事態打開の為、日本側全権、大久保利通(1830~1878)は北京に赴きます。
会談の清王朝側お相手は基本的に恭親王・愛新覚羅奕訢(1832~98)でした。
しかし、交渉は難航、平行線を来します。この状況が好転したのは世界覇権国家、
英国の駐清公使・トーマス・ウェード(1818~95)が仲介・斡旋した事に依ります。
この仲介でやっと、事件処理の進行をみます。
そして、漸く、「北京専条」協定(1874/10/31)が結ばれ、決着を見るのです。 続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日清修好条規の「邦土」解釈違い

2025-03-08 | ファッション
先週の日清修好条規の第一条
此後大日本国と大清国は弥(いよいよ)和誼(わぎ)を敦くし天地と共に窮まり無るべし。
又両国に属したる「邦土」も各(おのおの)礼を以て相待ち聊(いささかも)侵越する事なく
永久安全を得せしむべし。 漢文でも即両国所属「邦土」と表記してます。
この「属したる『邦土』」は両国で意味(語彙概念)が異なっているのです。
清王朝の「属したる『邦土』」は「属国」で「朝貢国」。
日本側ではこの『邦土』は「国土(領土)」と解釈、
当時の近代国際法(万国公法)での主権、及び、実効支配されている「領地」です。
明治維新後、月日が浅い日本は浅はかにも清王朝を「国民国家」と誤認識してます?
更に、云えばこの時点で日本も「national state」概念を深く理解していたか甚だ疑問です。
取り急ぎ、これを(「邦土」→清王朝「属国」、大日本「領土」)ご記憶下さいませ。
そして日清修好条規調印後の同年1871年、琉球国に属する「宮古島」島民が東シナ海で
遭難、台湾南端に漂着するも台湾人に殺害される事件(琉球人台湾遭難事件)が発生。
この時点での「琉球国」は「両属」で
清王朝→交易の為の儀礼的な朝貢国、
大日本→「やまとんちゅ」が住まう国で薩摩藩支配(1609年~)→明治政府直轄地です。
「琉球国」が明治政府により「琉球藩」とされたのは明治5年(1872)年9月14日です。
しかも、具合が悪いことに琉球国と大日本はこの事実を清王朝に秘匿していたのです。
そして、不幸なことに、この前年、台湾で事件が起きてしまったのです。
日本は台湾を清王朝の国土(領土)と見なしていた為、清王朝に賠償を求めます。
これに対し、清政府は清皇帝の影響・支配が及んでいない地域で有り、
(漢語ではこのような地域を「化外(ケガイ)」と表現しています。)
宮古島の島民は琉球国の人々で日本人ではないとの見解で賠償責務は負わないと返答。
東シナ海で遭難した宮古島の島民の漂着した台湾南端(恒春半島)には台湾先住民の
排湾(パイワン)族と称される方々が生活してました。(漢語では生蕃と表記)。
*生蕃・・・教化に服さない蕃人。中国清代、台湾の先住民の高山族(高砂族)のうち、
       山地に住み、漢族に同化していなかったものの呼称。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
漂着島民(66名?)の内、彼らに殺められた島民は54名と多数でした。
又、梁啓超は1871年の事件発生時、未だこの世にお目見えしていませんでした。 続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梁啓超「変法通議 論不変法之害 日本」1896年

2025-03-01 | ファッション
「変法通議の論不変法之害」で日本に触れた箇所があります。

「論不変法之害 略 今夫日本 幕府專政 諸藩力征
 受 俄(=露)德(=独)美(=米)大創 国几不国
 自明治維新 改弦更張不三十年而 奪我琉球 割我台湾也」
維基文庫 変法通議 論不変法之害 梁啓超 1896/08/19)
素敵で優れもの、Gemini日本語訳は
「今、日本の幕府の専制政治のもと、諸藩がそれぞれに力を誇示し、ロシア、ドイツ、
 アメリカから大きな打撃を受け、国がほとんど国でなくなった状態であった。
 明治維新以降、わずか30年で、日本は私たちの琉球を奪い、台湾を割譲したのである。」
現代語訳は
「今、日本の幕府が独裁政治を行い、各藩がそれぞれに力を誇示し、ロシア、ドイツ、
 アメリカといった列強から大きなダメージを受け、国が滅亡の危機に瀕していた。
 明治維新以降、わずか30年で、日本は私たちの琉球を奪い、
 台湾を割譲するという行為に及んだのである。」《有難山の鳶烏》

梁啓超は「琉球」を奪取「台湾」を清王朝から譲り受けたと決めつけています。
英明な彼でも、この時点では、かように考えていたのです。

これにはちょいと聞き捨てならないので、史実に基づいて展開してみます。
「琉球」について、これには「日清修好条規」が絡みます。
1868年M01/09/08「一世一元の詔(明治改元の詔)」
1871年M04/07/29日清修好条規 調印(下記条文は旧字を新字体に変更 下漢文)
第一条
此後大日本国と大清国は弥(いよいよ)和誼(わぎ)を敦くし天地と共に窮まり無るへし
又両国に属したる邦土も各(おのおの)礼を以て相待ち聊(いささかも)侵越する事なく
永久安全を得せしむへし
嗣後大清国大日本国 被敦和誼 与天壤無窮 即両国所属邦土 亦各以礼相待
不可稍有侵越 俾獲永久
第二条
両国好(よしみ)を通せし上は必す相関(かんせつ)切す
若し他国より不公及ひ軽藐(けいびょう)する事有る時其知らせを為さは
何れも互に相助け或は中に入り程克く取扱ひ友誼を敦くすへし
両国既経通好 自必互相関切 若他国偶有不公及軽藐之事 一経知照
必須彼此相助 或従中善為調処 以敦友誼
(データーベース「世界と日本」〈代表:田中明彦〉日本政治・国際関係データーベース
 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所 大日本国大清国修好条規 漢文
第二条以下、第十八条までありますがそちらは端折ります。 
第六条だけ「両国の交渉には漢文を用い、和文を用いるときには漢文を添える」と。
 続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梁啓超「変法通議 自序」1896年

2025-02-22 | ファッション
梁啓超の日本亡命以前の文章は流麗なそれこそ「漢文」です。
彼は1896年上海で刊行した「時務報」の一冊目に「変法通議自序」を著述。
日清戦争(1894年)→日清講和条約(下関条約1895年)を経て、師の康有為らと
清王朝変革(変法運動)《君主専制→立憲君主制・富国強兵・科挙→洋式学校等》を
標榜する政治結社勉強会書紀時代、血気盛んな頃合い(24歳)の文章です。

「自序 法何以必変 凡在天地之間者莫不変 昼夜変而成日 寒暑変而成歳
 大地肇󠄀起 流質炎炎 熱熔氷遷 累変而成地球 海草螺蛤 大木大鳥 飛魚飛鼉
 袋鼠脊獣 彼生此滅 更代迭変 而成世界 紫血紅血 流注体内 呼炭吸養
 刻刻相続 一日千変 而成生人」
維基文庫 変法通議 自序 梁啓超 1896/08/09)
お洒落で賢いGeminiの日本語訳は
「序論 法はなぜ必ず変化しなければならないのか?
 天地万物はすべて変化する。昼と夜が交代して一日となり、寒さと暑さが巡り一年とな
 る。大地が誕生したときには、高温の流体が激しく動き、熱によって氷が溶け、移り変
 わりを重ねて地球となった。海草や貝、大木や大鳥、空を飛ぶ魚やトカゲ、カンガルー
 や背中にこぶのある動物など、生き物は生まれ滅びを繰り返し、世代交代を繰り返して
 世界を形成した。人の体の中を流れる紫血と紅血、炭酸ガスを吐き出し養分を吸い込む
 呼吸、刻々と変化する生命活動など、一日にして千変万化し、人が誕生する。」
現代語訳は
「序論 なぜ法律は常に変化しなければならないのか?
 この世のあらゆるものは、常に変化し続けています。昼と夜が入れ替わり、季節が巡り、
 地球は誕生以来、様々な変化を遂げてきました。生き物たちも、誕生と死を繰り返し、
 絶えず変化し続けています。人間の体の中ですら、血液が流れ、呼吸が行われ、生命活
 動は刻々と変化しています。このように、自然界のすべてが変化している以上、人間が
 作った法律も、時代に合わせて変化し続ける必要があるのです。」《有難山の寒烏》

梁啓超の文語体をさることながら、Geminiの訳には脱帽でありんす。 続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梁啓超 雑誌「新民叢報」発刊 新民体

2025-02-15 | ファッション
「中国史叙論」を執筆・刊行した梁啓超は翌年(1902年)1月に月2回発行の雑誌、
「新民叢報(シンミンソウホウ)」を発刊します。
新民説・新史学をこの雑誌で展開、1907年7月迄発行し続けます。(途中休刊有り)
「新民」は「民(たみ)を新たにする」で梁啓超の新造語ではなく
昔、科挙の郷試受験の際、覚え暗記した儒教経書「大学」が典故(古典引用)。
「大学之道 在明明徳 在新民 在止於至善」
人が学ぶべき道は
1 明徳(聰明な徳)を明らかにする2 民を新たにする3至善(最高の善)にとどまる 
 ことである。
新民とは「民衆を教え導き徳を育み新しい人間へと変えていくこと」とか。
因みに賢いGeminiは
「人間が学ぶべき道は、生まれながらに持っている善い性質を明らかにし、人々を教え導
 いてより良い社会を作り、そして、究極の善に達することにある。」と解釈してます。
但し、梁啓超の「新民」に込めた意味合いは来日後獲得した「nation→国民」なのです。
来日直後、目・耳にした「和製翻訳漢語」、それを文章にした「漢文訓読体」から
梁啓超は「漢文訓読」から訓点を外し、語順変更で、「和文漢読」を編み出し、
何と「和文漢読法」と云う本までも著しているのです。
この文体は「新民叢報」から「新民体」と称されるようになります。 続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする