一方、清朝側は琉球国からのアクセスが途絶えた為、事情確認書状を琉球国に届けます。
琉球国はこの書状処理を日本政府に問い合わすも連絡不許可との返答。
困り果てた琉球国は日本側に内緒で清朝に密使を送ります。(1876年12月)
清朝は密使から情報を得て、早速、北京在住の日本公使に抗議。
更に、1873/04/30~発効の「日清修好条規」に伴う、1877年赴任の
初代駐日清国公使・何如璋(1838~1891)、随員・黄遵憲(1848~1905)らが日本政府に
猛烈に異議申し立て、交渉を行います。
尚、黄遵憲(変法派)は1887年「日本国志」を著し、清王朝に明治日本を紹介しています。
又、梁啓超とも接点があります。梁啓超の雑誌「新民叢報」に投稿しています。
日本政府と清朝政府との交渉は一向に進展しません。
何せ、日本政府の「琉球国=日本国」方針は揺るぎないものですから。
埒があかない状況打開の為、日本政府は既成事実作りに着手します。
内務官僚の松田道之は検察官・軍隊を伴い、1879年3/25に那覇着、
3/27琉球国官僚に「琉球藩廃止、沖縄県設置」を通達、首里城明け渡しを指示します。
これを受け、
3/29止むを得ず尚泰王は城を退出、3/31(大安)松田道之らは無血入城するのです 。
これは紛う事なき、昨今よく耳にする「力による現状変更」になります。
この件の太政官布告は明治十二年(1879年)四月四日付け
「第十四號 琉球藩ヲ廢シ沖繩縣ヲ被置候條此旨布告候事 但縣廰ヲ首里ニ被置候事」
(琉球藩を廃し沖縄県を置く事を布告する 但し県庁を首里に置く事)
この様な経緯から少なくても琉球国王、お役人らの皆さんは琉球国の「自治」は
手放したくわなく、秩序観的には清朝に共感する方々が多数いらした感じです。
但し、この時代、近代国家統治観の潮流には抗せず歴史の流れに身を任せる事に。
長年培った白黒ハッキリさせなく、あわい(間)を大切に慮る、
曖昧時空で甘美に過ごした文化はここで幕を下ろしまう事に相成りました。
梁啓超さん、これが「変法通議」の「日本は私たちの琉球を奪い」の顛末でした。 続く。
来週からは「黄金週間」にて暫しお休みを頂きます。それでは、又。
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琉球国はこの書状処理を日本政府に問い合わすも連絡不許可との返答。
困り果てた琉球国は日本側に内緒で清朝に密使を送ります。(1876年12月)
清朝は密使から情報を得て、早速、北京在住の日本公使に抗議。
更に、1873/04/30~発効の「日清修好条規」に伴う、1877年赴任の
初代駐日清国公使・何如璋(1838~1891)、随員・黄遵憲(1848~1905)らが日本政府に
猛烈に異議申し立て、交渉を行います。
尚、黄遵憲(変法派)は1887年「日本国志」を著し、清王朝に明治日本を紹介しています。
又、梁啓超とも接点があります。梁啓超の雑誌「新民叢報」に投稿しています。
日本政府と清朝政府との交渉は一向に進展しません。
何せ、日本政府の「琉球国=日本国」方針は揺るぎないものですから。
埒があかない状況打開の為、日本政府は既成事実作りに着手します。
内務官僚の松田道之は検察官・軍隊を伴い、1879年3/25に那覇着、
3/27琉球国官僚に「琉球藩廃止、沖縄県設置」を通達、首里城明け渡しを指示します。
これを受け、
3/29止むを得ず尚泰王は城を退出、3/31(大安)松田道之らは無血入城するのです 。
これは紛う事なき、昨今よく耳にする「力による現状変更」になります。
この件の太政官布告は明治十二年(1879年)四月四日付け
「第十四號 琉球藩ヲ廢シ沖繩縣ヲ被置候條此旨布告候事 但縣廰ヲ首里ニ被置候事」
(琉球藩を廃し沖縄県を置く事を布告する 但し県庁を首里に置く事)
この様な経緯から少なくても琉球国王、お役人らの皆さんは琉球国の「自治」は
手放したくわなく、秩序観的には清朝に共感する方々が多数いらした感じです。
但し、この時代、近代国家統治観の潮流には抗せず歴史の流れに身を任せる事に。
長年培った白黒ハッキリさせなく、あわい(間)を大切に慮る、
曖昧時空で甘美に過ごした文化はここで幕を下ろしまう事に相成りました。
梁啓超さん、これが「変法通議」の「日本は私たちの琉球を奪い」の顛末でした。 続く。
来週からは「黄金週間」にて暫しお休みを頂きます。それでは、又。
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