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服飾ファッション危うし IX 中国確かに侵略された2?

2024-08-31 | ファッション
先週は「大英帝国(立憲君主国民国家)」の狡賢い振る舞いを物語りました。
これ以降の歴史経緯は皆さんよ~くご存じと思いますので端折ります。
但し、天下(世界)一だった王朝を寄って集(たか)って滅亡に追いやった件だけ。
清王朝にて生まれ育ち「外夷」に虐げられた幼気な庶民の抵抗、通称「義和団の乱」。
これって、時は19世紀~20世紀にわたって繰り広げられ、
清王朝をも巻き込み・動かした大事件なのですよ。(1897~1901)
義和団は「祖国の為に義の精神を和(結集)して外国に立ち向かう仲間」。
義和団の彼・彼女らの四文字熟語標語は「扶清滅洋」(清王朝を扶け、外夷を滅する)。
事の発端は「鉅野事件」(1897/11/01)山東省曹州府巨野県(現山東省菏沢市巨野県)。
布教・侵食の為、やや遅れて清に進出したカトリック教会独神父が村人に殺害された事件。
因はこの神父が村のお嬢さんに狼藉を働いた事とも云われています。
清に派遣されていた独宣教師は即、この件を電報で独皇帝(ヴィルヘルム2世)に伝えます。
独はこの事件にて口実(独人宣教師保護)を得て、皇帝は独海軍に命(11/7)、
上海に停泊していた独海軍東洋艦隊は艦艇を膠州(コウシュウ)湾に派遣、黄海膠州湾を占拠。
やがて上陸、青島の南の日照県城(現山東省日照市)を占領、膠州湾岸を手中にします。
そして、この間のとんでもない資料が存在です。
(欧国民国家同士では口には出さない常識なのかしらん?)
独宣教師司教アンツェルのヴィルヘルム2世に打線した言葉と思われます。(11/17)
「これは最後の機会です。今清国の占領を行っても誰も怪しむことはございません。」
(この資料が「公」になった事がとても不思議ですがWWIでの独敗戦やも?)
結局、アンツェル司教の進言通り事が進み、
翌年清朝は過失を認め賠償金支払と教会建設を認める羽目に陥り、更に、
「独清条約」が結ばされ(3/06)、膠州湾が独の租借地(99年借領地)等になるのです。
これら一連の独の動きは山東省の人々にキリスト教や外国への反感を増幅しました。
この事件を契機に果敢に立ち上がった血気盛んな若者達は義和団を組織。
彼らは山東省の独カトリック教会を次々と襲撃する挙に出るのです。
やがて、世紀が変わり1900年に突入するや、
義和団は山東省を流れる黄河を越え北上、天津に至り、行動し始めます。 続く。
(尚、義和団情報は「中国王朝 英雄たちの伝説 荒ぶる民の秘密」NHK BS 2024/4/27参考)

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服飾ファッション危うし VIII 中国確かに侵略された1?

2024-08-24 | ファッション
「どぶ川の都・パリ」での五輪、夏の風物詩「熱闘甲子園」も滞りなく終了。
とは云え、未だまだ暑い日々は続きそうな雰囲気漂う今日この頃・・・・・。
それでは前回からの続きです。

清王朝は英に「華夷思想」を具現化対応しますが、
英側はしっかり清の内情を知り得ます。
ここで、英は驚きの策に打って出ます。植民地印生産の麻薬の一種・阿片を清に密輸。
この結果、英は銀を回収することに成功。
清は銀の消失と阿片中毒患者の蔓延で大きな打撃を受ける事に。
清朝は英側密売人、及び、清阿片密貿易秘密結社から、阿片を没収、焼却に動きます。
七つの海を制する英はこの状況を見過ごしません。
英は「貿易を守る」と云う口実で艦隊を派遣(1840年)。
英はこの戦争に勝利、清との自由貿易・香港島・賠償金を獲得(1842年南京条約)。
翌1843年追加条約として治外法権・関税自主権放棄など不平等条約を押しつけます。
又、「互市(ゴシ)=私貿易管理制度→朝貢貿易以外の交易認可、日本・西洋諸国用」の瓦解。
それ迄、「互市」では西洋諸国の交易可の港は「広州」一つだけで現地取引のみ。
貿易港は新たに厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海が開港される事に(英人居住権も)。
英の帝国主義と資本主義経済制度はアジア随一を誇った清を揺るがすのです。
ところが、それ迄の天下覇者・清王朝はこの状況・世界認識観を把握・掌握できず
「攘夷」から「撫夷(えびすをなだめ・なつかせる)」思想に転換して矛を収める顛末。
やがて、敗戦清王朝は米・仏とも英と同じ条約を結ばされ屈する羽目に。
一方、英はこれだけで満足できず次なる秘策を捻り出します。
たまたま、清役人が広東沖に漂っていた不審船(アロー号)を臨検した事に
英はいちゃもんをつけ、現地駐留の艦船で広州沿岸設置砲台を破壊(1856年)。
翌年英は仏軍をも誘い本国から海軍を広東に派遣、圧倒的な軍事力で広州を占領。
一時、天津にて清軍の抵抗(1859年)で撤退、体制を立て直し再度進軍、北京占領(1860年)。
結果、英・仏に北京条約を結ばされ、香港島に隣接する九龍を獲得(英)北京駐在(英・仏)
等々、又々軍事力で清朝にとって不利で一方的な約束事を強いられたのです。
この二つの条約で南から広州+厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海+天津港が
清朝が管理する港から(出入り)自由貿易港、
及び、港湾地域一部を租界(治外法権外国人居留地区)にされてしまったのです。
更に「撫夷・互市⇒夷務(えびすのあしらい)」から「洋務」体制へ余儀なくされる事に。
*洋務・・・あくまでも華夷思想が中心なれど、西欧近代技術を取り入れる政策
この「英」の振る舞い、どう考えても、誤魔化しきれない「侵略」になりません事?

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服飾ファッション危うし VII かって清王朝世界№1GDP

2024-08-03 | ファッション
清王朝は17~18世紀、世界№1のGDPを誇った「王朝」でした。
(正確には1820年がピーク、それ以降衰退の一途を辿ってしまいました。)
この次期の皇帝は乾隆帝(1711~99在1735~95)。
又、この頃、印を殆ど征服、ユーラシア東部に鎮座する大王朝との交易増等を乞い、
世界制覇を目指す英帝国(立憲君主国民国家)は清にちょめちょめし始めます。
英国王はジョージ3世(1738~1820在1760~1820)。
やがて、努力の甲斐あり、英は乾隆帝に謁見できるアポが取れる事に。
英政府の使命を受けた英全権大使ジョージ・マカートニー(1737~1807)らは帆船軍監で
1792年9月英を出発、翌1793年6月澳門(マカオ)7月首都北京の玄関口天津に到着します。
謁見日は9/14、謁見場は熱河離宮(現河北省承徳市)。
マカートニーは遠路はるばるの来訪による皇帝拝謁の為、一連の朝貢儀礼を許されたとか。
この時の儀式(贈答品遣り取り等々)・交渉内容などは不明ですが、
ジョージ3世宛ての勅命親書から推察されます。(一部新字体に変更)
「天朝物産豊𫞯 無所不有 原不藉外夷貨物 以通有無 特因天朝所産茶葉磁器糸觔
 為西洋各国及爾国必需之物 是以加恩体恤 在澳門 開設洋行 俾得日用有資 並霑余潤」
意訳してみると
「天朝は物産が豊かで満ちあふれており外夷の物品に頼る必要などさらさらない。
 それでも我が国の茶葉・磁器・生糸がないと困るだろうから恩恵を加えて優遇し
 貿易をさせてやっているから過分な要求など持っての他、従順であれ。」ってな感じ。
マカートニー一行旅団に清王朝文化に精通した通事がいらしたのかしら
「外夷の物品に頼る必要などさらさらない」の文言から
英帝国の産業革命の走り、紡績機・綿紡織機で製作された最新綿製品に売り込み交渉
等々があったと思われます。しかしながら、
清王朝は英帝国主義国に「けんもほろろ」・「木で鼻を括る」・「歯牙にも掛けない」
「華夷思想」の伝統を受け継ぎ・基づいた王道対応です。
「何せ私達は世界の中心に住まう文明人、野蛮人はお黙り」って感じでは?
後理屈では、天下制覇国、清王朝は遠く離れた外夷には「草・忍び・間諜」を入れず
情報収集活動を怠っていたのやも知れません事よ。

ところで、わたくしども ZIPANGU は「夏休み」を頂きま~す。
それでは皆様、お元気で、ご機嫌よう。

 
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