先週の日清修好条規の第一条
此後大日本国と大清国は弥(いよいよ)和誼(わぎ)を敦くし天地と共に窮まり無るべし。
又両国に属したる「邦土」も各(おのおの)礼を以て相待ち聊(いささかも)侵越する事なく
永久安全を得せしむべし。 漢文でも即両国所属「邦土」と表記してます。
この「属したる『邦土』」は両国で意味(語彙概念)が異なっているのです。
清王朝の「属したる『邦土』」は「属国」で「朝貢国」。
日本側ではこの『邦土』は「国土(領土)」と解釈、
当時の近代国際法(万国公法)での主権、及び、実効支配されている「領地」です。
明治維新後、月日が浅い日本は浅はかにも清王朝を「国民国家」と誤認識してます?
更に、云えばこの時点で日本も「national state」概念を深く理解していたか甚だ疑問です。
取り急ぎ、これを(「邦土」→清王朝「属国」、大日本「領土」)ご記憶下さいませ。
そして日清修好条規調印後の同年1871年、琉球国に属する「宮古島」島民が東シナ海で
遭難、台湾南端に漂着するも台湾人に殺害される事件(琉球人台湾遭難事件)が発生。
この時点での「琉球国」は「両属」で
清王朝→交易の為の儀礼的な朝貢国、
大日本→「やまとんちゅ」が住まう国で薩摩藩支配(1609年~)→明治政府直轄地です。
「琉球国」が明治政府により「琉球藩」とされたのは明治5年(1872)年9月14日です。
しかも、具合が悪いことに琉球国と大日本はこの事実を清王朝に秘匿していたのです。
そして、不幸なことに、この前年、台湾で事件が起きてしまったのです。
日本は台湾を清王朝の国土(領土)と見なしていた為、清王朝に賠償を求めます。
これに対し、清政府は清皇帝の影響・支配が及んでいない地域で有り、
(漢語ではこのような地域を「化外(ケガイ)」と表現しています。)
宮古島の島民は琉球国の人々で日本人ではないとの見解で賠償責務は負わないと返答。
東シナ海で遭難した宮古島の島民の漂着した台湾南端(恒春半島)には台湾先住民の
排湾(パイワン)族と称される方々が生活してました。(漢語では生蕃と表記)。
*生蕃・・・教化に服さない蕃人。中国清代、台湾の先住民の高山族(高砂族)のうち、
山地に住み、漢族に同化していなかったものの呼称。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
漂着島民(66名?)の内、彼らに殺められた島民は54名と多数でした。
又、梁啓超は1871年の事件発生時、未だこの世にお目見えしていませんでした。 続く。
此後大日本国と大清国は弥(いよいよ)和誼(わぎ)を敦くし天地と共に窮まり無るべし。
又両国に属したる「邦土」も各(おのおの)礼を以て相待ち聊(いささかも)侵越する事なく
永久安全を得せしむべし。 漢文でも即両国所属「邦土」と表記してます。
この「属したる『邦土』」は両国で意味(語彙概念)が異なっているのです。
清王朝の「属したる『邦土』」は「属国」で「朝貢国」。
日本側ではこの『邦土』は「国土(領土)」と解釈、
当時の近代国際法(万国公法)での主権、及び、実効支配されている「領地」です。
明治維新後、月日が浅い日本は浅はかにも清王朝を「国民国家」と誤認識してます?
更に、云えばこの時点で日本も「national state」概念を深く理解していたか甚だ疑問です。
取り急ぎ、これを(「邦土」→清王朝「属国」、大日本「領土」)ご記憶下さいませ。
そして日清修好条規調印後の同年1871年、琉球国に属する「宮古島」島民が東シナ海で
遭難、台湾南端に漂着するも台湾人に殺害される事件(琉球人台湾遭難事件)が発生。
この時点での「琉球国」は「両属」で
清王朝→交易の為の儀礼的な朝貢国、
大日本→「やまとんちゅ」が住まう国で薩摩藩支配(1609年~)→明治政府直轄地です。
「琉球国」が明治政府により「琉球藩」とされたのは明治5年(1872)年9月14日です。
しかも、具合が悪いことに琉球国と大日本はこの事実を清王朝に秘匿していたのです。
そして、不幸なことに、この前年、台湾で事件が起きてしまったのです。
日本は台湾を清王朝の国土(領土)と見なしていた為、清王朝に賠償を求めます。
これに対し、清政府は清皇帝の影響・支配が及んでいない地域で有り、
(漢語ではこのような地域を「化外(ケガイ)」と表現しています。)
宮古島の島民は琉球国の人々で日本人ではないとの見解で賠償責務は負わないと返答。
東シナ海で遭難した宮古島の島民の漂着した台湾南端(恒春半島)には台湾先住民の
排湾(パイワン)族と称される方々が生活してました。(漢語では生蕃と表記)。
*生蕃・・・教化に服さない蕃人。中国清代、台湾の先住民の高山族(高砂族)のうち、
山地に住み、漢族に同化していなかったものの呼称。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
漂着島民(66名?)の内、彼らに殺められた島民は54名と多数でした。
又、梁啓超は1871年の事件発生時、未だこの世にお目見えしていませんでした。 続く。