人権については天賦人権説と、もうひとつ国賦人権説がよく言われる。
天賦人権説とは、政府や成文法が存在しない社会であっても一定の社会秩序があれば、その自然法に基づいて人権は保護される、という考え方である。ゆえに、社会が存在すれば一定の人権を、人は生まれながらに持つとする。
国賦人権説とは、国家が国民に人権を賦与したのだ、とする考え方。近代国家では人権の保護を刑法その他の法律で定めていることから、人権は国家が与えたものとする。
しかし、そのどちらも違う。
次のような例を考えれば、天賦人権説も国賦人権説もウソだとわかる。
・A氏はB氏を殴った。殴れば逮捕されるとA氏は覚悟のうえで。
・C氏はD氏を侮辱し続けた。D氏が、人権侵害だと抗議したにも関わらず。
・中国政府の統治下にあるチベットやウイグルには人権は存在しない。
反例が無数にあるのだから説として価値を持たない。従って、人権は自然に人が持っている(天賦人権説)わけでも、国家が国民に与えた(国賦人権説)ものでもない。
そもそも、人権とはどこにあるのか。それは常に、「あなたと私の間」にしか存在しない。
なぜなら、人権が破られるというのは、誰かが他人に暴力を振るうとか所有物を奪う、というように常に「誰かと誰かの間」の出来事として生じる。
すなわち人権とは、常に相対する人同士において「私はあなたの人権を尊重しますよ」という、相手への配慮の社会的な集積の結果である。
「私の人権を尊重しろ」といくら主張したところで、事後的には裁判で勝訴したり、人権侵害した相手が逮捕されたりするかもしれないが、人権侵害的な行為をやる気で挑みかかってくる相手を抑止することはできないし、発生した人権侵害が逮捕や勝訴で消えるわけでもない。
事実として、そういう事件はいつまでもなくならない。
人権侵害の境界ラインは法律で定められ、より厳密には個々の行為を裁判で争うことになるが、そこは本質ではない。
法律違反であるか否かではなく、相対した人への尊重や思いやりの精神が社会全体の人権を担保していることを自覚すべきである。
・「私の持論とは異なりますが、あなたの主張も尊重します」
・(狭い通路や順番などでかち合って)「あなたからお先にどうぞ」
・「お困りでしたら、どうぞこれをお使いください」
こういった利他的な行為の延長に、各人の人権が保たれている。
私とあなたが相対しているのなら、「私の人権はあなたが守っている」のであり、同時に「あなたの人権は私が守っている」のである。それ以外に、この両名の人権を守る主体はどこにも存在していない。それが唯一の事実である。
勘違いしている人が多いが、法律とは許されない行為の限界ラインを規定したものである。すなわち、100点満点で合格点が50点なら、違法か合法かは50点なのか49点なのかの争いに過ぎない。
人権で言えば、皆が人権侵害を争う裁判で敗訴しないギリギリの51点や50点のところで相手を攻撃していたら社会は荒廃する。50点で相手を攻め切ったことを勝ち誇ってはいけない。
そうではなく、100点満点とは言わないが、80点を目指して皆が日々の行動を模索し、自省すべきである。これは、合法か否かでなく、道徳的な価値観である。
100点の行動も50点の行動も「個人の自由」などと勘違いしてはいけない。いや、それでいいとする国もあるから、それが良いと思うなら移住をお勧めする。
80点で行動している人を見て、「素敵な人だな」と思い、自分もそれを見習って向上しようと努力するようになれば、社会の平均値も向上する。
それが、日本として、あるいは日本人としての美徳である。
そうすれば、誰もイヤな思いをすることなく、住み心地の良い社会になる。
せっかくなので、以上の説を「利他人権説」と命名しておく。
蛇足だが、人権に関する論争で私に「基本的人権を勉強しろ」とか「本を読め」とか言って、自分はさも人権に詳しいかのように振る舞いつつ、異論が気に食わないのか「真正の馬鹿」などというツイートを投げつけてくる人物が出てくること自体が、日本の人権派の思想がいかに狂っているかの一端を表していると思う。採点するなら55点くらい。w
(補足)
「天賦人権説」と「利他人権説」の違いについて補足しておく。
天賦人権説では、政府や成文法の有無に限らず一定の社会秩序があれば、その自然法に基づいて人権は保護される、とする。ゆえに、人は生まれながらに人権を持つとする。
利他人権説では、私とあなたが相対しているときに、「あなたの人権は私が守っている」と認識する。
私の価値観は、私が生活する社会の秩序や法律に影響されているから、天賦人権説と似たような影響力があることは認める。しかし、それを、あなたに適用するかどうかは私次第、である。
ゆえに、あなたの人権は、私の利他的な尊重の精神から与えられている、と考える。