八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「八千頌般若経」を読む (26) [空の場]

2007-04-23 03:47:15 | Weblog

第十八章 「空性」

・無功徳、不増不減・無功徳 

 ・・・・・・(省略)

 世尊は仰せられた。「およそ空であるものは、スブーティよ、また無尽でもある。

空性ということ、それは無量なることでもある。

 それゆえに、スブーティよ、真実としては、これらの諸事物には区別も種別も認められないのである。

 スブーティよ、これらはことば(にすぎないもの)として、如来によって語られ、表現されているのである。

 無量であるとか、無数であるとか、無尽であるとか、空であるとか、特徴がないとか、 願望を離れるとか、作為がないとか、起ることがないとか、生じることがないとか、存在しないとか、 愛着を離れているとか、絶滅とか、涅槃であるとか、といったように。

 スブーティよ、それは教説を完成するための説明として、供養されるべき、完全なさとりを得た如来に よって語られたのである」

・不増不減 

 世尊は仰せられた。

 「・・・・・・(省略)

 『施与の完成ということ、それは名前にすぎないのだ』

 (以下、道徳、忍耐、努力、瞑想についても、これらの完成ということが名前にすぎない、と  いうことを述べいるが省略します)

 『知恵の完成ということ、それは名前にすぎないのだ』

 ・・・・・・(省略)

 このように、スブーティよ、ことばで表現できないものは、増大することも減少することもない。

 ・・・・・・(省略)」

 同じように、スブーティよ、すべての事物にも増大も減少もない。

 実にこうして、スブーティよ、菩薩大士はこれらの、このような留意をもって暮らしながら、 無上にして完全なさとりに近づくのである」

(「八千頌般若経Ⅱ」 梶山雄一訳 中公文庫・大乗仏典 3 p139-144)

 

私の解釈

 私たちは例えば、車や飛行機や列車などには、それぞれに本体があると思い込んでいます。

同様にして、考えたり感じたりする対象物のすべてには本体があると思っています。

ですから突然に、「真実としては、これらの諸事物には区別も種別も認められないのである」などといわれても直ぐに、それを認めることができません。

これは私たちの頭脳の中には知性や理性で物事を考える習慣が根強く刷り込まれているからです。

 また、私たちは明日起ることを今日、確定することは出来ません。何故なら、明日のことは明日になってから新たに発生する原因と条件(因縁)によって起るものであるからです。

 私たちが関わる全ての物事(事象)は因縁に基づいて生起しているのです。

 因縁によって営まれる私たちの生活の場を「理性の場」とすれば、その場は真実として「空の場」という無相の世界の一部に過ぎないものであると考えられます。

つまり「空の場」においてはすべての物事(事象)はその本体の姿を顕わしているのではなく、その姿は、その時の因縁に対応したその事象の一面に過ぎないものであると考えられます。

ですから、因縁を除去すれば、その跡には何も存在しないことになり、因縁がなければ、事象は存在しないということになります。

あるいはまた、因縁が別のものに変わればそれに応じて、同じ事象の別の一面が顕われるということになります。

このような実情があるため「真実としては、これらの諸事物には区別も種別も認められないのである」と説いておられるのだと思います。

お釈迦様の教えに従いますと私たちの心の中は、常識では考えられないほどの広さと深さがあるということが分かるような気がします。

私たちは目の前にある車や飛行機や列車などについても、因縁を取り除くことによって、それらの本体をなくすることができるのです。

常識的には考えられないことですが、真実の世界(「空の場」)においては、「ものには本体が無いため空である」、ということになります。

いずれにしても、私たちは本質的には「空の場」で生活を営んでいるのだと思うのです。

 先に挙げた経典の文を繰り返しますと、その「空の場」は空性であり、無相であるから、無量・無数・無尽であり、特徴がなく、願望を離れ、作為がなく、愛着を離れている、と言うわけです。

しかも、その場は涅槃寂静であり、物事(事象)は不生・不滅、不垢不浄、不増不減であるというのです。

  私たちがこのような「空の思想」を素直に受け入れられない原因について私は次のように思います。

 私たちは人類始って以来、何十億年ともいわれる長い年月の間、継続して受けつがれてきた人間としての特性が頭脳全体に刷り込まれていると思うのです。

さらに、私たちの心の中には、誕生以来、生活の場で蓄積されてきた様々な知恵や知識が充満しており、それらが「理性の場」で働き続けているのです。

これを専門家は「煩悩で汚染された心の状態である」などと表現します。

このような心の状態では、簡単に「空の場」を納得したり体験したりすることができないのであると思います。

お釈迦様は、このことを十分に熟知したうえで、私たちの心の中には「空の場」が存在していることを説き、それを意識して生きる知恵を教えてくださっているのです。

 私たちは、その教えを学び深めれば、様々な形で起ってくる人生途上の苦しみを取り除くことができる、と思います。

 例えば、苦悩を取り除くためには、その原因となっている因縁を別のものに置き換えることが一つの強力な対応策になると考えられます。 場合によっては、別の因縁に完全に置き換わるまでには、数ヶ月かそれ以上かかるかも知れませんが、諦めないことが肝要であると思います。

 


2 コメント

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因縁、、、 (海山人)
2007-05-01 20:12:10
今回は、父の葬儀にあたり、今まで疎遠だった?
というか、知らなかった親戚の方々にお会いして
先祖の冒した、暴挙が祟っているのだと聞かされ
ました。因縁って、本当にあるのでしょうか?
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因縁 (zazen256)
2007-05-04 14:14:36
 旅行していましたのでコメントへの返事が遅れました。お許しください。

 私たちは、確かに因縁の中で生活しているのだと思います。中でも、ご先祖様たちの教えは、最も価値ある尊いものであると思います。ご先祖さま方は、残してゆく人々に対して、仲良く幸せに夢と希望をもってくらしなさい、ということを伝え続けていると思います。私たちの心のなかでは何時も微笑み続けておられるのだと思います。
 ご先祖様方は、絶対に、残された人々を悲しませることはない、と確信しています。
 だから、お釈迦様は「苦集滅道」と「八正道」の教えを説いておられるのだと、私は思います。
 私たちはご先祖様たちの「微笑み」を素直に受け止め自分の道を歩んで行きたいと思います。
 何よりも心の中を暗くすることは良くないと思います。毎日、鏡を見て笑顔を作り、気持ちは前向きに明るく朗らかに積極的に元気良く暮らしたいと思います。それが健康の基本であると思います。ご先祖様もそのように前向きに生きることを望んでおられると思います。

 心から、海山人さんのご尊父様のご冥福をお祈り申し上げます。

                     合掌
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