八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

「正法眼蔵」の拾い読み(16)・[中有]

2006-03-11 03:58:47 | Weblog
「三時業」の巻に、次のような死後の「中有」に関する文があります。

 「そこで彼は、また、自分がこの一身を得てから以後ずっと修してきた善業をじっと思いうかべて、深いよろこびにひたった。すると、そのすぐれた善き思いが現われてきたことによって、その地獄の中有のすがたは、たちまちにして消え失せてしまい、それに代わって、天国における中有のすがたが、忽然として目のまえに現われてきた。
 それによって、まもなく命終わるとともに、天上に生まれることをえた。」

(『正法眼蔵』(七)「三時業」巻 P305・全訳注増谷文雄・講談社学術文庫)

注: 「中有」について
  人間の死後49日間は「中有」又は「中陰」といって、死の瞬間から次の生存(たとえば極楽浄土で生きること)までの間の生存、もしくはそのときの身心をいう。
 また中有は、香のみを食物とするので食香(じきこう)とも訳される。

 ・・・・・ 仏教の学派では中有を認めないものも多い。 (岩波仏教辞典より)
 
私の解釈

 人間の死後49日間は、「中有」といって香りのみを食べながら、この世から、十万億土を通過して、あの世(極楽浄土)までの旅を続ける、のだそうです。(それを距離に換算すると、4億3千2百万キロメートルになる、ということが、なにかの本に書いてありました。)

 また、人は死ぬ瞬間には綺麗な花畑の中にいるところを思い描くとか、楽しかった過去の出来事を、すべて思い出すなど、といろいろなことが言われております。

 死後に、生き帰った人はいないのですから、その真偽を確かめようもありませんが、なんとなく真実味のある話だと思います。

 上の引用文は、生きている間に善業を修しておき、死ぬ直前に、それらの善業を思い出せば、天国(極楽浄土)へ行けますよ、という教えである、と私は解釈します。

 死ぬ直前には、次からつぎへと、それらの善業が思い出されるのだと思います。

 ですから、私たちは生きている間に、どんなに小さなことでも良いから多くの善業を修しておきたいものです。
 
 また、「己事究明」ということばがあります。
 つまり、私たちは「愛」と「光」と「信」を与えられてこの世に生まれて来たのだ、ということをはっきり自覚しなさい、という意味である、と私は解釈しています。
(ここでいう「信」を、私は「信頼する心」と言い換えています)

 私たち一人一人は、自分の子孫や後世の人々のために何か役に立つことを残して行くのが人間としての使命であり義務であり、これが善業であると思います。

1 コメント

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こんにちは (りょう)
2006-03-18 15:35:27
こちらでははじめまして。

以前、丁重なコメントをいただきありがとうございました。

死後の世界について、懐疑的になるのではなく、美しいイメージを持つことは、人々がこころ安らかに生きる上で、きわめて有効な方便だと思っています。



>私たち一人一人は、自分の子孫や後世の人々のために何か役に立つことを残して行くのが人間としての使命であり義務であり、これが善業であると思います。



この言葉に私も同感です。

少しでもこの世界を良くして逝くのが、私たちの生きる意味だと思います。

これからも、時折お邪魔し勉強させていただきます。



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