私は、仏教で説く「知恵の完成」とはどのようなものなのかを知るため、『八千頌般若経』を読むことにしました。
読むテキストは中央公論社刊・大乗仏典2「八千頌般若経Ⅰ」(梶山雄一訳)と同・大乗仏典3「八千頌般若経Ⅱ」(梶山雄一・丹治昭義訳)です。
仏典を読むといっても、私は、常に「八正道」を念頭に置いた上で、自分流に解釈したり納得しながら読み進むことしかできません。しかし、仏典は人間の心の営みについての教えを示していますから、凡夫にとっては実現不可能なことであっても、真実の目標がはっきりして、なんとなく安心感が湧いてきます。
今後、私の解釈とか考え方について、読者の皆様からのご指導とかご助言を頂くことが、何よりの楽しみでもありますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
「第一章 あらゆる様相に通じる仏知の追求」の中に次の訳文があります。
・ 知恵の完成への道を追求し、知恵の完成を修習する菩薩大士は物質的存在(色)にとらわれてはならないし、感覚(受)、表象(想)、意欲(行)、思惟(識)のいずれにもとらわれてはならない。
・ これが菩薩大士の ”すべてのものを取得しないという精神集中(三昧)”であって、それは広大で高貴、決定的に無量であり、声聞や独覚と共通しないものなのです。
(「八千頌般若経Ⅰ」(梶山雄一訳・中央公論親社刊・大乗仏典2 ,p15)
私の解釈
凡人は、このような「すべてのものを取得しない精神集中」なと゜という心境に達することは不可能です。
また「すべてのことにとらわれない」という意味は、すべての物事は因縁によって起こり、因縁がなくなれば、その後には何も残らない、だから、とらわれるなということで、納得はできますがこれを実行することは非常に困難です。
「知恵の完成」を成就された菩薩の方々は、「すべて物事は幻のようなものであるから、それらにこだわる必要はない」という考え方を実践されるているのだと思います。
しかし、凡人たちは物事にとらわれ、こだわり、対策を考えることによって学習効果を蓄積しながら成長する必要があります。
また場合によっては、私たちは苦しい問題に遭遇したときの対処方法として、社会生活上において支障のない限り、「すべては幻である、こだわることもとらわれることもない」という考え方で処理する方法もあるということだと思うのです。
追記
明日から旅に出ますので次の記事は5月4日以降となります。
急いだため今日の記事は推敲不十分で読みにくい文章となりましたが、お許しください。今後ともよろしくお願いします。
読むテキストは中央公論社刊・大乗仏典2「八千頌般若経Ⅰ」(梶山雄一訳)と同・大乗仏典3「八千頌般若経Ⅱ」(梶山雄一・丹治昭義訳)です。
仏典を読むといっても、私は、常に「八正道」を念頭に置いた上で、自分流に解釈したり納得しながら読み進むことしかできません。しかし、仏典は人間の心の営みについての教えを示していますから、凡夫にとっては実現不可能なことであっても、真実の目標がはっきりして、なんとなく安心感が湧いてきます。
今後、私の解釈とか考え方について、読者の皆様からのご指導とかご助言を頂くことが、何よりの楽しみでもありますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
「第一章 あらゆる様相に通じる仏知の追求」の中に次の訳文があります。
・ 知恵の完成への道を追求し、知恵の完成を修習する菩薩大士は物質的存在(色)にとらわれてはならないし、感覚(受)、表象(想)、意欲(行)、思惟(識)のいずれにもとらわれてはならない。
・ これが菩薩大士の ”すべてのものを取得しないという精神集中(三昧)”であって、それは広大で高貴、決定的に無量であり、声聞や独覚と共通しないものなのです。
(「八千頌般若経Ⅰ」(梶山雄一訳・中央公論親社刊・大乗仏典2 ,p15)
私の解釈
凡人は、このような「すべてのものを取得しない精神集中」なと゜という心境に達することは不可能です。
また「すべてのことにとらわれない」という意味は、すべての物事は因縁によって起こり、因縁がなくなれば、その後には何も残らない、だから、とらわれるなということで、納得はできますがこれを実行することは非常に困難です。
「知恵の完成」を成就された菩薩の方々は、「すべて物事は幻のようなものであるから、それらにこだわる必要はない」という考え方を実践されるているのだと思います。
しかし、凡人たちは物事にとらわれ、こだわり、対策を考えることによって学習効果を蓄積しながら成長する必要があります。
また場合によっては、私たちは苦しい問題に遭遇したときの対処方法として、社会生活上において支障のない限り、「すべては幻である、こだわることもとらわれることもない」という考え方で処理する方法もあるということだと思うのです。
追記
明日から旅に出ますので次の記事は5月4日以降となります。
急いだため今日の記事は推敲不十分で読みにくい文章となりましたが、お許しください。今後ともよろしくお願いします。
経典は急ぐものでもなく、また急いだからといってどうなるものでもないでしょうから、ご旅行を楽しんできて下さい。
また読ませて頂いたりしながら、もし可能なら気長にお話したいと思います。
東京・横浜在住の子供たち夫婦の所へ行ってきました。買った書籍は、「仏教聖典」(仏教伝道協会発行)、「般若経典」(中村元現代語訳・大乗仏典1・東京書籍発行)ほか一般書籍2冊です。
「八千頌般若経」は4回目の読書になりますが、相変わらず理解不十分です。今回はブログに投稿することによって理解を深めたいと思います。
私からも綜雲先生のご投稿文に、私が理解できる範囲での質問をさせていただくこともあると思います。
今後とも、ご指導下さいますよう、よろしくお願い申しあげす。
「八千頌般若経」はパーリ語からの邦訳でしたか? 二十年ほど前に図書館(東京)で一部分を読んだ記憶はありますが、現在は近在の図書館にも無く参照出来ません。これに相応する漢訳「摩訶般若波羅蜜経(二十七卷本)」は持って来ていますが、表現が大分異なるのではないかと思われます。
先日読んでいて思った事など、少しずつ書いてみます。私の言葉も zazen256さんにとっては単に聞き取りにくい一つの他人語の筈ですから、徐々にでもお互いが理解に近付けるよう、今回は予備的な意味も込めての作文です。
> 凡人は、このような「すべてのものを取得しない精神集中」なと゜という心境に達することは不可能です。
どうして不可能だと思われますか? それは不可能な状態を想定しているからだと思いますが、それなら読み取り方を変えてみるのも一法かも知れません。
> 知恵の完成への道を追求し、知恵の完成を修習する菩薩大士は物質的存在(色)にとらわれてはならないし、感覚(受)、表象(想)、意欲(行)、思惟(識)のいずれにもとらわれてはならない。
「知恵の完成(従って悟って仏になること)を求める者は・・・」ということですから、「仏の心」は「色及び受想行識のいずれにも囚われていないところ」に、それを見出せという示唆の方便だと受け取ってみられたらどうでしょうか。
zazen256さんの言葉を使って言えば、色及び受想行識が心に生じた時点で、既に因縁を取り込んだ行為を行っていることになります。この因縁行為を滅すれば、当然痴者の類になるでしょうから、これを滅する事は愚だと思いませんか。勿論実生活上でも同様に受想行識等を滅するなど狂気の沙汰です。
それ故、そうでは無くして、これらすべての受想行識行為の内容が、自己の真実を映すものではなく、その時だけの半ば偶発的な特殊だと観察する事、その観察知に基づいて、同時にその受想行識行為に汚されていない清浄自在な自己の心の存在が悟られて来ます。その自己の心は清浄故に相が無く、相が無いから無我の心だということも理解出来ると思います。
この観察知が謂うところの「すべてのものを取得しないという精神集中」の果報であり、発見された無我心が「すべてのものを取得しない」心の正体であり、それを確認する禅観が「・・・という精神集中」を指していることになります。
そして今「受想行識という因縁行為に絶え間なく汚されていながら、しかも汚れに染まらない無我心」というものが見えてくれば、それが今は遠くに見える仏心であり、常にそれを見失うまいと努める心が菩提心として育ってくると思います。(少しのつもりが長文になってすみません)
樹木は不浄の土地から栄養分のみを吸収しながら育ちます。人間が育つのも樹木と同じである、と私は考えています。
ですから、人間が何かを理解するためには、因縁に汚される過程を経過する必要があるように思うのです。
つまり、私は六根から六境を取り入れる段階と所謂「無我心」という心の深奥部との間には、観念的に大きな隔たりがあると思っています。
この「隔たり」を直感的に把握し、心の整理が自由自在にできること、それが「菩提心」を獲得するための条件なのではないでしょうか?
綜雲先生のコメントは私の心に深く浸透しました。これからも繰り返し読んで考えさせていただきます。有難うございました。
こちらこそ、ご指導ください。
今後ともよろしくお願いします。