南国の遊び部屋

鹿児島の祭りや観光地についてゆるーく報告してますが、最近オタッキーな記事が大半だったりします。
遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3でみる島津義弘公(九州征伐編)

2009-12-31 | 歴史(戦国・維新・島津など)
2009年12月25日の朝、サンタさんが、任天堂の Wiiゲームソフト『戦国無双3』と『仮面ライダー クライマックスヒーローズW』を長男(小5)、次男(6歳)に持ってきてくれました(笑)



『戦国無双3』と『仮面ライダー クライマックスヒーローズW』は2009年12月3日発売。
サンタさん、ありがとうございます(笑)

ちなみに、PS2の「戦国無双」は2004年2月11日に、「戦国無双2」は2006年2月24日に発売され、即買いし遊びました(笑)

やはり、鹿児島県人として、島津義弘公をプレイせねば!!
義弘公は最初は選択可能でないので、長男が「加藤清正」の章をclearした後、選択可能としました

さて、義弘公は見た目ごつい、パワーファイターで、全国的には使用される確率は高くなさそう?なので、報告させていただこうかと・・・・

義弘公のオープニングムービーは、立花宗茂・千代のものと同じです。
義弘VS立花宗茂・千代の戦いが始まり・・・
義弘「降参するか?」 宗茂「ふざけるな」などのやりとりがあり、

義弘「いいぞ」「鬼を超えてみせよ」

義弘「餓鬼ども」
1581年に、宗茂14歳・千代12歳で結婚
九州征伐の時は宗茂19歳・千代17歳でした。

1578年に耳川の戦いで大友宗麟を破り、1584年に沖田畷の戦いで龍造寺隆信を破り、九州制覇まであと少しとなっていた島津軍。
大友宗麟の本拠地豊後を攻める前に、筑前侵攻が開始され、1586年7月高橋紹運の守る岩屋城攻めで、あまりに被害が大きく立花宗茂(当時は統虎)の守る立花城攻略を断念したのでした。
立花道雪は1585年に陣中で病死しています。

千代は立花道雪(戸次鑑連)の娘で1575年(6歳)に家督を譲られ立花家の当主となっていますから、あの性格でしょうがない(笑)
立花宗茂は高橋紹運の実子ですが、立花道雪に請われて立花氏の跡継ぎとして婿養子となり、千代に代わって道雪から家督を譲られました。

本当は秀吉に頼んだのは大友宗麟でした。
宗麟が名物「似り茄子」と「新田肩衝」を秀吉に献上し、それに応えた秀吉が1585年10月に惣無事令(私戦禁止令)を発動したのでした。

島津軍メンバー
島津四兄弟の義久・義弘・歳久・家久や筑前出兵大将の島津忠長・伊集院忠棟がいます。

「島津忠長」は島津義久や島津義弘の従兄弟。
1592年に島津歳久が自害に追い込まれ、首が京都の一条戻橋にさらされたとき、その首を取り返しに行ったそうです。
朝鮮出兵にも従軍し、泗川の戦いで奮戦し、この功績により宮之城領主に任命。
1600年の関ヶ原の戦い後は島津氏の代表として徳川家康と交渉しています。
「泗川の戦い」で、中央政界へも名のしれている忠長が上洛すれば、島津家の姿勢も明確になるとのことで、立花宗茂が忠長に上洛弁明を助言したとのことです。(11月22日付忠長宛立花宗茂書状』)


「釣り野臥」は島津お家芸の戦法で、野戦にて敵を三面から包囲し、袋叩きにする戦法で、高城川合戦(耳川の戦い)や戸次川合戦などで勝利に導いています
中央の部隊が敗走を装いながら後退「釣り」し、敵を誘い込み、左右両翼から伏兵が襲う「野臥」。「釣り」が非常に難しいようです。

加藤清正は豊臣軍の陣立には、正式には入っていない?ようですが、佐々成政改易のあとをうけて1588年に肥後北半国二十五万石を与えられ1611年までの期間、肥後国を治めました。

清正を囲む島津軍の面々。
「上井覚兼」は島津貴久から仕え、日向国侵攻や大隅国侵攻で活躍。
彼が記した『上井覚兼日記』は天正期の島津氏や九州の諸大名の動向などを知ることが出来る貴重な史料。                         「島津忠辰」は薩州家7代当主だが、1593年朝鮮出兵に際し豊臣秀吉の怒りを買い改易。
「種子島久時」は鉄砲伝来で有名な種子島氏第14代当主・時尭の次男で種子島氏の第16代当主。久時は鉄砲術に優れた腕を持った武将
沖田畷の戦いや大友氏との戦いに参戦。1590年の小田原攻めにも参戦し、このときに豊臣秀吉に鉄砲200挺を献上。朝鮮出兵でも、島津義弘に従って渡海。

豊臣政権の1586年「九州国分け」案は大友(肥後半国・豊前半国・筑後・豊後)、毛利(肥前)、豊臣政権(筑前)、島津(薩摩・大隈・日向・肥後半国・豊前半国)で、著しく大友に有利な条件であったため、6月9日、義久は秀吉の国分け案を拒絶し、島津氏の九州全面平定の方針が決定しました。

1587年正月、秀吉は九州侵攻の軍令を下し、3月には自らも出陣、肥後方面を秀吉が、日向方面を弟の秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍します。

日向表陣立(総大将 豊臣秀長)二番隊(小早川隆景、吉川元長) 三番隊(毛利輝元)四番隊(宇喜多秀家) 番外(大友義統、長宗我部元親など)など、蒼蒼たるメンバーです。

長宗我部元親は戸次川合戦に参加し、息子の信親を亡くしていますが、今回九州征伐や島津に絡まないようです。
模擬演舞でも台詞はとくになしでした。

島津軍諸将は、高橋紹運の武将としての器量を惜しみ降伏勧告を3回、味方である立花宗茂と黒田孝高から、岩屋城が防衛に向かない為に城を捨てて撤退せよという趣旨で1回ずつ計5回行われましたが、紹運は丁重に断ったとのこと。
763名の城兵が玉砕。
紹運・辞世の歌は、「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」

「太閤記」によると、秀吉は石田光成・大谷吉継・長束正家らに命じて。30万人分の兵糧、馬2万匹分の飼料をそれぞれ1年分用意させたとのこと。

ハマーン(間違い)ならぬ、お嬢が怒ってます。

坊ちゃんも怨敵と島津を恨んでます
宗茂は豊臣軍の肥後口の先鋒を務め、秀吉に「九州之一者」「その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一」と称賛されています。

福島正則は肥後表陣立(総大将 豊臣秀吉)三番隊に配属されています。
今回、キャラ立ちされた福島正則は、かなりの良キャラです(笑)

正則「逃げんじゃねえからな!な!」
捨て台詞もGOOD

宗茂は、島津軍を追撃、高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げ、九州征伐でも活躍し、戦後、秀吉はその功を認めて筑後柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てました。

2人のライバル関係の始まりです。

根白坂の戦いで勝算のないことを悟った義久は4月21日に秀長に和睦を申し入れました。

義久は剃髪し、薩摩川内まで進出していた秀吉に5月8日に泰平寺で正式に降伏しました。
(川内戦国村の再現ジオラマ)

秀吉は島津に薩摩一国しか与えないつもりでしたが、主戦派の義弘や歳久、新納忠元らが抗戦するのを義久が抑える約束で大隈国と日向諸県郡をかろうじて確保しました。その意味では勝利!?



最盛期には九州六ヵ国の覇者となった大友宗麟公。(大分駅)
大筒国崩しを武器としたキリシタン大名とキャラ付けして次回作に登場させては?
他の九州キャラとしては、三国無双の董卓のイメージの肥前の熊・龍造寺隆信とか、時代が少しずれますが天草四郎とか、おもしろいのでは?


伊集院駅にある島津義弘公の像
千代に兜を叩き切られる前です(笑)
(戦国無双2の話ですが・・・)




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