日本国憲法はうれしい「生徒会憲章」。

2007-12-24 02:03:41 | Weblog
日本国憲法はうれしい「生徒会憲章」。

自分達のことは自分達できめて守ろう。(主権在民)
一切のけんか、いじめは許さない。(平和主義)
自ら意欲的に学び考えよう。

というのと、

下級生は上級生のいうことを聞こう。
けんかはしても怪我はさせないように。
教室では静粛にし、先生の言うことをよく聞こう。(天皇制)

あなたが中学生だったら、親、先生、上級生、PTAの役員だったらどちらを選びますか?

日本国憲法は占領下、占領軍総指令部(GHQ)の指導のもとで日本国民によってきめられたものです。今その日本国憲法は我々にどのような不利益をもたらしているでしょうか?
「押し付け論」を主張しているのは、民主主義をつまらないと思う人たちや戦争や武器でもうけたい人たちではないでしょうか?
天皇は許すかわりに民主制に変えなさいという太っ腹な取り引きで与えられた贈り物だったと思います。
以下日本国憲法の成立経緯

要約:1945.8敗戦1945.10新しい憲法の方針が国務大臣近衛文磨によって日本国民に伝えられる。これがきっかけでこんな憲法だったらいいなという私案憲法作りが民間で盛んになる。その一つが憲法学者鈴木安蔵のつくった「憲法草案要綱」である。1946.2改革のすすまない日本政府をまてなくなったGHQは鈴木の案をつかってGHQ案を作り日本政府にわたした。

日本国憲法成立経緯

1945.8 サンソム(ワシントン駐在英国公使)が大日本帝国憲法の問題点を指摘し日本敗戦後はdiscreet(慎重で、露骨でない)な圧力をかけて日本国民自らの手で新しい憲法をつくらせるべきとの論説をだした。
1945.10.5 近衛文磨(国務大臣)、マッカーサー(総司令官)会談。憲法改正の話。アッチンソン(占領軍政治顧問)は会談に居合わせてそのあといそいで3日で作った新憲法の骨子7項目をマッカーサー。サンソム論説、日本での民主的な動き(1945.4野坂参三演説等、)が参考にされた。
1945.10.8 近衛文磨、マッカーサー会談でアッチンソン7項目が口頭でつたえられる。(文書で伝えられると日本の自主性が損なわれる証拠として残るから)近衛は自分の考えとして記者会見。日本政府による新憲法作りがはじまる。
1945.11.8 GHQと近衛、断交
1945.12.16 近衛自殺。 おそらく、保守的な内閣でういてしまった。GHQにはアッチンソン7項目を日本国民につたえるための使い捨て容器として利用された。
1946.2.1 毎日新聞のスク-プで日本政府が作ろうしている、ちっとも民主的でない新憲法(松本案)が暴露される。これを見たGHQはあせった。WHY?  オーストラリア、ソビエト、中国は天皇制をやめさせて天皇を処罰すべきとの考えだった。彼等を刺激しかねない。マッカーサーは現場感覚で日本の民主化は天皇制を維持したままのほうがスムーズにすすむとかんがえていた。
1946.2.13 日本の民間で作られていた私案憲法(鈴木安蔵案など)もとりいれたGHQ案が日本政府にわたされる。     鈴木の「憲法草案要綱」-------戦前より憲法制定史の研究者であった鈴木はこの案を明治維新土佐植木枝盛の私案憲法、ワイマール憲法(1919ドイツ)、戦前より親しかったカナダ公使ノーマンとの戦後における話し合い、1945.10.8近衛の記事などをもとにつくった。GHQはこれに三権分立、刑事訴訟の人権などを追加して民主主義を強化した。
1946.3.7 日本政府案が新聞発表
1946.5.27  毎日新聞世論調査 有識者2000人へのアンケートで8割が支持。
1946.4.10   衆議院議員選挙 
1946.8.24   衆議院で新憲法可決
1946.11.3   新憲法公布。  

1946年2月→3月のGHQ案「押し付け」劇について:
心の底から押し付けられたGHQ案の害を心配したなら、権力の座にしがみついて私腹を肥やし続けるよりGHQに目をつけられて桜の花と散る(といっても追放されて平民に戻るかもというだけ)方を選んだだろう。むしろ恐かったのは天皇制をつついた責任者となったとき、大臣が次々暗殺された10年前(2.26事件1936年)のような狂信的「逆賊」(勅令より)による卑劣なテロにあうことにちがいない。だから「アメリカさんの押し付け」をなるべく偽装する演出をしたかも。結局、「押し付け」をはねかえさず受け入れて自分たちの方針とする判断と責任は当時の日本政府の政治家たちにある。その方針は普通選挙、議会、世論調査と広く当時の国民によって支持されたのだ。こうなると一体、誰に対する「押し付け」なのだろうか?

終わりに 
包丁は料理をつくるのにもつかえるが武器は破壊にしか使えない。アメリカが1950朝鮮1960ベトナム1970中東1980イランイラク1990湾岸2000アフガンイラクと十年ごとに戦争に関わってきたのには兵器の在庫処分という動機も強かったはずだ。 憲法をかえてハイテクで武器を作って輸出すれば景気がパッとするというのは、他の国の争いでもうけることだから非人道的だとおもう。「ただ乗り」だからいけないと言う話もアメリカがそれでOKならありがたくのせてもらう。(参考書2 伊藤) 日本が資源もない弱小国であることを再認識したうえでのたくみな外交戦術である。強盗から家を守りたいなら武装するより隣近所よく声を掛け合うことが賢明だ。(参考書2 伊藤)

参考書:1 原秀成 『日本国憲法制定の系譜Ⅲ』p296日本評論社
    2 伊藤真 『日本国憲法の論点』p176,p180 トランスビュー2005.7 
3 小山常実 『「日本国憲法」無効論』2002.11 草思社