わたし 小学校の時にお絵描きを習った先生が二人いる
一人の先生に習ってた時に
学芸会の絵を写真を見て描いたと言ったら
ものすごく叱られた
わたしは一見うまそうな絵を描く子だったので
学校の図工の先生には嫌われていたし
その学芸会の絵も
われながらリアルに描けて満足だったのだけれど
それはまやかしだ と言われた感じがして
ものすごく恥ずかしいことをしたのかもしれない
という刻印が心の中にはしっかり刻まれてしまった
そういう 写真というものについて
見下すような価値観というようなのは誰にでもあるのかどうか知らないけれど
今やプロジェクターで映像を投影して
それを写し取って描く なんて 技法としては
堂々とまかり通っているわけで
今昔の観 か 私だけ変な体験をしたのかわからない
然し 崋山が似たことを 形態の正確さを期してやったということだと
正確って言うことの中に写真的なというのは
うんと古くからあるのだな
ロマン主義へのアンチテーゼとしてリアリスムがあるなら
主観を排除して 写真的な正確さというか
そういうのが客観的なんだという感じは あるのかもしれない
現代のスーパーリアリスムの狙いは何なのだろう?
バルバラなんか心情の吐露、なんかいっぱいあって、
ロマンチックね。
全然写真的じゃないね。
真実の探求ね。
だから真実の探求とは写実的なことだと
考えてたひとはびっくりだったろうね。だけど、
ボードレールやフロベールもいるのだし。
写真というのはひとつの考えを進める上での
ひとつの段階なのだとおもう。
バルバラは視覚的じゃないからもっぱら音楽的な
ものを文学に取り入れることに努力したのね。
これもすごく曖昧よね
どこかやはり人間を超越した絶対的真実がある
という
信仰めいたものが背後にある感じがする
科学的だったら客観的みたいな・・・
全ては相対的な存在なのにと
わたしは思う
この続きの記事書いてたら
うっかり消してしまった
今日は展覧会準備で出かけるのでまたあとで
延々と
リアリズムについて描きたいことがあるのだ
すごくきにいってるのさ。
Ruffがね、すごく頭のいい男だ、っていってたの
そのへんのこともあるのだと思う。
神から人間に座標軸を変換するって、19世紀前半の
フランスでは公式にはすごくむつかしかたと思う。
今でも、口では簡単に言うかもしれないけど、
正面切ってその問題に立ち向かうにはそれなりの
覚悟が要ると思う。
まだヴァチカンには法王もいるのだし、フランス人は
彼を遠くからみる光栄に浴したがるのだから。
これを敬虔なキリスト教徒がよんだら袋叩きだよ。