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Symphonyeel!(シンフォニエール!)

ようこそ。閲覧者の皆さんとのメッセージが響き合う場となってほしいナ―という想いで綴ってます

14th Movement 「次の流れ」

2007-08-02 20:23:00 | SWEET SWEET SUITE
【たとえば人生には ある日突然に加速がつくように変わる日がある
階段をいっきに上がるように視野が広がり 見えなかったコトが見えるときだ
・・だがその時に動けない人がたくさんいる
停滞した流れの時に自分を作っていなかったからだ
人の動きを見て動く 受け身の考え方、リアクションの生き方をする人にそれは多い
次の流れにそなえ いつも爪を研いでおく
悪い流れ 乗れない流れのその裏に必ず新しい流れがある
それを意識し それを考え そして信じて爪を研いでいるか だ】
(湾岸ミッドナイトより)

「地上の戦闘機『ゼロ(零式)』を作る」と、HONDA S2000をターボ化してチューンアップし、仕上がったそのマシンで走り出したユージ。それを送り出したYMSPEEDの山本和彦が、ショップを訪れたレイナに語りかけるシーンである。

物事でも、人の生き方でも何でもそうだが、何気ない生活の中でふとした何かをきっかけにある日突然、「変わる」時があるのだ。言い換えれば、「何かに気づく」時と言った方がいいかもしれない。
大きな変化、劇的な変化ではないにせよ、霞の中から景色が浮かんでくるように、「見えなかったことが見える」瞬間である。「なんかノレないな~、行き詰ったな~」と思うときは人間誰しもあるだろう。そうすると人は、立ち止まって考える。「なにもしない」ではなく「なにも考えない」では次の流れは見えてこない。
そんなときこそ、自分の現在(いま)と将来(さき)を少なからずとも想いながら、受動的ではなく能動的に動くこと、それが大切なのである。

【つまり、いつでも動けるようにスタンバイをしている・・と】(秋川レイナ)
【大事ですよね でもなかなかできない 流れが悪いときはそれを抜けることばかりを考え、次の流れ、先(将来)へ向いた考えはしにくい】(冨永公)

そして、次の流れ、行く先の真理をつかもうと試行錯誤する「自分」を見失ってはいけない、という、とても心に響くコトバである。

長い意味での「生き方を大切にする・見つめる」というモノにも繋がってくるだろう。


【ともかく 具体的に動いてごらん
具体的に動けば
具体的な答えが出るから】
(相田みつを)

【行き詰りは 展開の一歩である】
(小説家・吉川英治)

13th Movement 「自分の手の中に」

2007-08-02 20:20:08 | SWEET SWEET SUITE
【お前は自分が持っていないモノばかり数えている だから自分がイヤになる
だから自分が手にしているモノがわからない
自分が今手にしているモノ お前の宝石はいつもそこだろう】

【持っていないモノを数えない わかるか その意味が・・
あの時 ああすればとか・・あそこでこうならとか・・つまり手に入らなかったモノだ・・
手に入らなかったモノはもともとなかったモノなんだ
ないモノはねだっても出てこない いつも「今」だ】
【間違いを悔やむのはいい 失敗は恐れなくていい
・・だがソレを数えるな いつも自分の手の中を見ろ】
(湾岸ミッドナイト ヤングマガジン2006年41号他より)

ヤマモトSPEEDのオーナーであり、秋川レイナとその愛車R32GT-Rを見守るチューナー・山本和彦。その山本と父親を共にする異母の弟ユウジ。彼が父との思い出を回想するシーンで現れる言葉たちである。
こと、過去の失敗をあれこれ悔やみがちな自分―そういう考え方をする人は他にもいることだろう。

【時に 人は求め過ぎ 目の前の幸せに無表情】
【時に 人は生き急ぎ 目の前の現実に無愛想】
(作詞:清心 『愛鍵』より―この「組曲」に「歌の歌詞は加えない」という自分なりの決心があったのだが、清心さんの歌詞を紹介できるということで特別に記載させていただいた)
手の内にないものを求めがちな人間は、特にこのようになって自分を見失いがちになるのだ。

失敗や間違いを数えてばかりいたり、振り返ってばかりいたのでは、今でさえも見えなくなってしまう。
少し、一呼吸おいて、自分の手の中の宝石を握り締めて離さないように、自分が大切にしているものが何かということを冷静に考え、今を生きていくことが大切なことなのである。

「転んでもただでは起きぬ」ということわざがある。失敗(しっぱい)したとしても、その失敗を利用して何か得になるものを
見つけようとするということ、が大体の意味だ。
私が勤務していた老人ホームの入居者がこう言ったことがある。

【七転び八起き、転んでも立ち上がる。で、転んだついでに自分の持っているものと、ついでに何か拾って立ち上がって進むの。絶対に離しちゃダメ】

転ぶとき、ヒトは反射神経から地面に手を付こうとする。そのとき、手は広がっているはずだ。モノを握っていたら、それをも落としてしまうだろう。でもそれを一つ残さず拾い集め、ついでに何か見つけて自分の手の中に収める―
それが、強く生きるためのコツなのか・・・もしれない。


【あなたがいま夢中になっているものを大切にしなさい。
それは、あなたが真に求めているものだから】
(エマーソン)

【私たちはしばしば、できないものを見つけることによって、できることを発見する】
(サミュエル・スマイルズ)

【持っていないもののことを気にしていると 持っているものを無駄にしてしまいます】
(ケン・ケイエス・ジュニア】

天国は待ってくれる 英題『heaven can wait. maybe...』(監督:土岐善將)

2007-08-02 13:21:23 | シネマレビュー
【ストーリー】
舞台は東京・築地。子供の頃からずっと一緒だった、宏樹、薫、武志の3人(うち、宏樹は小学校五年生の時に転校してきた)は、かけがえのない大切な仲間だった。
広場で作った、“聖なる三角形”、それは“永遠の三角形”―。3人の友情は、ずっと続くと思っていた。
時は流れ、3人は東京を離れることなく、宏樹は朝日新聞社に、武志は家を継ぐ形で築地の魚市場に、薫は銀座の文具店に就職し、社会人としての日々を過ごしていた。
そんなある日、武志は、宏樹の目の前で、薫に突然プロポーズをする。武志の突然の告白に、顔をまともに見ることができない宏樹。とまどいを見せながらもそのプロポーズを受け入れる薫。
しかし、その数日後、薫の実家である喫茶店で行われるはずだった結婚式を控え、「どうしても行かなければならないところがある」と出かけた武志は・・・!
そして、「ずっと一緒にいたい」と願い続けた3人の行く先にあるものは―。

【出演】
井ノ原快彦(宏樹役)/岡本綾(薫役)/清木場俊介(武志役)

【コメント・感想】
原作本を本屋さんで紹介されたとき、タイトルと「3(人)」という数字を目にした瞬間、「これは原作を読むよりも先に映画をチェックしよう!」そう思い、観に行った映画です。「天国」というコトバから、誰かの死を連想したのですが、「待ってくれる」とはどういうことだろう…?それがずっと気になっていたのです。

まず、ストーリーは、『今、会いにゆきます』で有名な脚本家・岡田恵和が出したかったという、永遠のテーマ「男女の友情は成立するのか?」というのがキーワードになっています。(しかも、原作本の出版を前に映画化する!という前代未聞のコトです)
ネタバレがほんの少し入りますが、幼馴染の3人、という3。「武志だけを置いて流れていった時間(と表現しましょう)」であるところの3年間。メインテーマ曲として流れる切ないメロディも3拍子。そして、宏樹・武志・薫を取り巻く(親を含めた)大人たち、その中心人物も3人なのです。これは非常に面白い演出・効果だと思います。
「3」という数字、あなたはどう思いますか?
1.5という小数、3分の1という分数を使えば割り算はできます。そして、「1、2の3」「ワン・ツー・スリー!」という掛け声があるように、とてもなじみのある数字でありながら、とても重みのある、そして難しい数なのです。
この映画のもう一つのキーワードは「3」という数字なのではないかと私は思っています。

また、築地の市場の中を撮影する、朝日新聞の本社で撮影をするという、難しいことをやってのけたスタッフの苦労もすごいな、と思いました。

脚本の岡田氏は「一人が二人を想い、二人が一人を想う。誰よりもお互いを想う3人が願ったハッピーエンドの形を描いた」と語っていますが、私からすれば、「ハッピーエンドであって、ハッピーエンドじゃない!」と言えるでしょう。
あまりに悲しすぎて、エンドロールが流れ出した途端、まだ暗い劇場の中を一人逃げるように後にし、トイレの中で泣きました。

アニメーションやPCゲームに詳しい方でご存知の方がいらっしゃるであろう「君が望む永遠」。これとストーリーが酷似しているので、最初は、原作者はこれを元にしてるのではないかと疑うくらいでしたが、それは映画を観終わった後、全然別のモノだった、ということに気づかされます。
主人公のキャラクターへの思い入れはそれぞれ強く、宏樹は不器用な優しさを持っている所、薫はさりげない、気取らない優しさがあるところ、武志は、友達思いだけど寂しがり屋な所がすごく素敵で、どこかで自分を重ねていたのかもしれません。私がこの3人の誰になれるか・なるか、という想像をしたのなら、間違いなく武志でしょう。

ただ、惜しかったのは、ところどころの節目となる演出がちょっとオーバーだったカナ、ということ。あと、歌手である2人の歌を映画の主題歌・挿入歌として持ってくるのは正しい選択かもしれないし、脚本家のコンセプトが「ハッピーエンド」というのならば致し方ないかもしれませんが、私としては、もう少ししっとりとした切ないながらも温かみのある歌を最後に流して欲しかったです。

しかしながら、これはいい映画です!
ストーリーとメイン・サブ問わず、役者さんの演技や表情に注目して、じっくりと観て下さい!


あなたは、男女間の友情を信じますか―?
かつて好きだった異性の幸せを心から祈れますか―?
もし、明日「世界が終わる」ではなく「あなただけが天国に行かなくてはならない」としたら、その前に何をしたいですか―?

天使の卵(冨樫森)

2007-08-02 13:16:41 | シネマレビュー
【ストーリー】
美大在学中ながら大学に行かず、土木作業のアルバイトに明け暮れる一本槍歩太と、高校で国語教諭をしている斉藤夏姫。二人は、決して忘れる事のできない辛い過去を共有している―
4年前。美大を目指して浪人中の歩太と、一足早く大学に入学した夏姫は、小料理屋を営む母も認めるお似合いの、高校時代からのカップルだった。しかし、生活のリズムが違っている二人は、少しずつその関係に違和感を抱き始めてもいた。
そんなある日、歩太は満員電車の中で、凛としたたずまいの中にどこか陰のある、美しい女性に出会い、その表情に心を奪われる。見知らぬ年上の女性でありながら、その横顔が脳裏に焼きついて離れず、歩太は、それをスケッチブックに描き続けるのだった。
数日後、精神的な病で10年間入院している父の病院で、歩太はその女性と突然の再会をする。父親の新しい主治医である彼女は、五堂春妃といい、夏姫の8才上の姉だった。しかし、絵描きになるという夢を応援してくれる春妃に対し、歩太の密かな恋心はますます加速していく―
ある日、春妃は歩太を呼び出し、「歩太の父が回復の兆しを見せているから仮退院をさせてあげたい」ということと、「妹(夏姫)が歩太の事で悩んでおり『他に好きな人ができたんじゃないか』」と言う。思わず歩太は、「・・・あなた以外に、誰がいるっていうんですか」と打ち明ける・・・
その後、夏姫と別れた歩太の、ピュアな愛によって春妃の心は少しずつ開かれ始めてゆくのだが・・・思いがけない運命が二人を待ち受けていた―!

【主演】
市原隼人(一本槍歩太役)/小西真奈美(五堂春妃役)/沢尻エリカ(斉藤夏姫役)

【コメント・感想】
1994年に刊行されて以来、100万部を突破した村山由佳原作のベストセラーを、豪華俳優をキャスティングし、2006年10月21日に満を持して公開された、ラブストーリー映画です。
私は、「天使の卵」そのものは、一番初めはHPコンテンツ内にあるように小説から入り、続編の「天使の梯子」の小説、そしてテレビドラマ版「天使の梯子」を見てから、最後にこの映画を観るという流れで触れてきました。

まさに、「謎は全て解けた!(コミック・『金田一少年の事件簿』)より」という感じにさせられましたね。
小説の中では描かれなかった部分―とりわけ、「歩太の時間が凍りついて止まってしまった『あの日』」から4年後の世界が描かれているのも興味深いところです。つまり、小説とドラマ・「天使の梯子」の橋渡しをしてくれている作品といえます。また、別な捕らえ方をするならば、お話の舞台が、小説では東京ですが映画では京都ということ、歩太と春妃の出会う場所が、若干違うところ、タイトルであるところの「天使の卵」のもともとのネタが違うところなど、さまざまに異なる点があるので、まるで、アニメで言うところの「テレビ版とOVA版では、設定や話の本筋は変わらないけど、別物」という「パラレルワールド的」物語が展開されています。

男である私は、メイン2人の女性の像を、自分の世界の中で創造(想像)していたのですが、改めてキャスティングとその演技を見たときに、「あ!ぴったり!!」と思いました。特に小西真奈美さんは、20代になったばかりの頃から較べれば全然違ってオトナの魅力を湛え、光と影の両面を併せ持つ27歳の「五堂春妃」を見事に演じきっていたのはとても好感が持てました。
撮影の多くが京都で行われたということで、背景に見える街並みや寺院など、作品全体を通して邦画らしい作品に仕上がっていることや、メインテーマのメロディも雰囲気に合っていますし、ラストに「Sunset Swish」が歌う「君がいるから」が流れてきたらもう圧巻です。

演出について少し触れると、「天使の梯子」が、「天使の卵」の舞台から8年後というコトで、その間を取った4年後の世界を使用しているのはいいと思いました。が、お話が夏姫の一人称で語られるところが多いところ、美術の世界を意識して春妃の表情を長い時間クローズアップしすぎていて、原作で描かれていた、春妃と歩太の心の接近がどうなっていくかの過程があまり描かれていなかったのが残念です。
あと、意外な面かと思いますが、「精神的に病んでいる」人間を診るということの大変さ、難しさ、それを抱える家族の苦労を垣間見ることもできました。それは、知的障害者更生施設で勤務していた事のある私ならではの視点なのでしょうか・・・。
そして、小説を映画化するというのは、やはり監督の技量にもよりますが、難しいということを実感した映画作品でもありました。でも、「あ~、なるほど、ここはこーしたのかア」という面白さがあって、結構楽しめました。

ただ・・・本当に全てを知るには、この世界に纏わる全ての作品媒体に触れることです。この映画と小説だけでは何も解りません。

あなたは、年上の女性に恋をしたことがありますか―?
大切な人を失ってしまったら、そのとき、そしてその後どう生きますか―?
今大切な人がいるあなたは、その人を何があっても守り抜く、そういう力を持っていますか―?

バベル 『BABEL』(監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ)

2007-08-02 12:53:44 | シネマレビュー
【ストーリー】
物語は、モロッコ(と解るのは少し後なのだが)のとある村から始まる。包みに隠され、ある家族に売られたとある銃猟用ライフル銃。それが(もっというなれば、この銃から放たれた「銃弾」が)この物語のキーになる・・・!
とある哀しい出来事がきっかけで壊れかけた夫婦の中を取り戻すため、アメリカからモロッコへ旅をしていた、リチャード&スーザン夫妻。幼い娘・息子の二人は、メキシコ人の家政婦に託していた。しかし、山道を移動中のバスの中で事件は起こる。どこからか放たれた銃弾が、窓ガラスを突き破り、スーザンの肩を打ち抜いたのだ。
辺りに病院はない。リチャードはバスを移動させ、スーザンを医者がいる病院に運び込むが、大量の出血を止める応急処置がやっとだった。リチャードが、救助に来ないアメリカ政府に苛立ちを感じている間に、徐々に事件は解明され、やがて、銃の元所有者であった一人の日本人男性に辿り着く―
その銃を手に入れたモロッコのヤギ飼いの少年達、銃の元所有者の男性とその娘である聾唖の少女。リチャード・スーザンの子供の子守をする女性と、彼女が息子の結婚式のためメキシコに連れて行った子供達―
それぞれが、「生命と魂の危険に晒されてしまう」ことになる彼らの運命は―!?

【出演】
ブラッド・ピット、役所広司、菊池凛子 他

【感想】
タイトルの「バベル」という言葉を聞いて率直に「観に行きたい」と思った映画でした。たまたま、協賛の化粧品会社からチケットを手にしたのですが、それを無しにしても興味がある作品でした。


「神(エホバ=正確には、ヤハゥエ、またはヤーヴェと呼ぶのが正しい)下りて、かの人々の建つる町と塔を観たまえり」
「『Go to, let us go down, and there confound their language that they may not understand one another’s speech.』=(いざ、我ら下り、かしこにて彼らの言葉を乱し、互いに心を通じることを得ざらしめん)」
「ゆえにその名はバベルと呼ばる」
(旧約聖書:「創世記」第11章)


旧約聖書「創世記」を読んだことがある、あるいは、劇場版アニメor小説版「機動警察パトレイバー」をご覧になったことがある方はご存知であろうこの部分。「かつて人類の言葉は一つだったが、神に近づこうと天まで届く塔を建ててしまったがために、神の怒りに触れ、言葉をバラバラにされてしまった、やがてその街はバベルと呼ばれた―」というのが現代語訳です。
ですが、題名の「【バベル】の塔」との直接的な関係はありませんでした。ただ、この聖書の内容を、深みのある要素として組み込んでいるだけです。

しかしながら、これは観に行って大正解。「難しい」というのが第一印象ですが、「マトリックス」にあるような「一度見ただけでは世界観がわからない」という難しさではありません。もっと深~いところにある難しさです。主軸にあるテーマと、それに絡む要素があまりにも重過ぎてしかも数が多いので―
でも、その多数の要素を、映画という手法を用いて2時間23分で見せてしまう、しかもぐいぐいのめりこんでいくようにしたててあるのが興味深いです。いきなり場面が飛ぶ始めの方は「え?え?」と思いましたが、そこがだんだん繋がっていくことにある種の「面白さ」「旨み」があるのだと言えるでしょう。


それにしても、「面白い」「いい」、と「くだらない」「難しすぎる」と意見が半ば面白いように真っ二つ。

【どこの国かの説明もなく唐突に物語は始まる。銃を子供に与えるバカ親父。バスを射撃し岩陰でマスターベーションをする子供。銃で撃たれた被害者を放置し犯人探しに疾走する警察。ヘリコプターを飛ばせない理由も釈然としない。あとでここがモロッコとわかるというもったいぶったシナリオ。長いだけで意味の無いメキシコの結婚式。子供を乗せて飲酒運転での国境突破。酒を飲み飲食店や歯医者で色情狂とかし全裸で刑事を誘惑し父親に抱きつく日本の女子校生。それを驚きもしない父親。撃たれた女房の排泄を手伝うアメリカ人。こんなシーンが次から次から。こういう人達を描いて一体この映画で何が言いたいのか全くわかりません。観る価値なしの不愉快で下品な映画です(とあるレビューより)】

私個人から見れば、「甘い」。「とらやの羊羹」に砂糖と蜂蜜ぶっかけたかのようにアマいナ―と。
でも、こればっかりは仕方がありません。この映画に限ったことなくですが、見る人の感性・バックボーンにより、こんなにも分かれて当たり前、と言える映画だと思いますから・・・。


まず、この映画には、観客の喜びや笑いを喚起するような場面は全くと言っていいほどありません。この作品は大きく分けて4つのエピソードで構成されていて、その4つのエピソードが入り乱れながら展開されます。各エピソードは共通点で結ばれていますが、最後に全てのエピソードが「ハッピーエンド」を迎えるわけではありません。

言ってしまえばこの作品は、【届け、心】というキャッチコピーどおり、「人間は孤独である」ということや、「他者と気持ちが通じないことから起こる悲劇」「人間の誤解の悲しさ」を主軸にした作品です。エンディング付近には「希望の『兆し』」が見えてくるモノもいくつかありますが、少なくとも希望がワァッと湧くような結末ではないと思います。
何はともあれ、ストーリーの連鎖性からくるいろいろなものなどは変に追ったりせず、素直な心で観た方がよい作品だと思います。ストーリーだけを追いかけ過ぎて、あまり気持ちに響いて来なかった人には、「なんだヨ…」と捕らえどころのない作品として映ったと思います。
逆に、本作の持つメッセージ性を強く受けた私は、言葉では言えない位の感動を受けたといえます。高評価を出した方々もおそらくそう思われたのではないでしょうか。


特に「コトバ」というものに注目したとき、ちゃんと言葉にしなければ伝わらないし、聞こえなければ、わからなければ言わなかったことと同じ―。しかし、しっかりと伝えようとしなければ、あるいは言葉そのものを取るだけでは、誤解を生んでしまう・・・「自分はそういうつもりじゃなかったのに」など・・・。
逆に言葉では伝えられないことは、他の方法で伝えなくてはならない。でも、現実は、伝わらなかったら「あぁもういいや!」と諦めてしまう・・・だからなおさら誤解する、される・・・といった感じなのですね。
しかし、「この世界は言葉から始まったわけではない」ということもいえるわけで。
そういう面を考えたときに、触れ合いの大切さ、気持ちや心の通じ合いというものは、どうしたらより深くなるのだろう、逆にどうして人は離れたりくっついたりするのだろう、ということも考えさせられます。


演出面について触れると、物語の舞台がかわるがわるになっていて、それが繋がるまでに時間こそ要するものの、それが視聴者をひきつける効果になっているのが見事。
性的表現が頻繁にあるので(PG-12)誰かと一緒に観に行くのは避けた方がいいかもしれません。が、少年の自慰行為・チエコのヌード・結婚パーティー前の鶏のなど、こういったシーンに不快感を覚えた人が多いそうですが、「こういう世界」「そんな現実」が存在しているコトそのものや、変に本質を捉えない批判をする人々が、この世の中に沢山溢れかえっている「不快」を生んでいる原因そのものだ、ということを頭の片隅においておくべきでしょう。
オフィシャルサイトなどで警告を促していたクラブ内の照明がキツイシーンは、結構キツいものがありました。何もあそこまでしなくても・・・というのが率直な感想でしたが、その分、聾唖者であるチエコと、一般人(健常者≠聴力にハンディのない人)との差が描かれている場面が多くでるので、そこでカバーされている、と評価しましょう!

観る者の心を掴んだまま最後まで離さず、揺さぶり続ける傑作だと思います。


もっと「人と人が繋がる」にはどうしたらいいとみなさんは思いますか?
仮に「一つの言葉で通じ合う手段、そして歓び」を手にしたとして、果たして世界はどうなると思いますか―?

12th Movement 「がんばって」

2007-08-02 03:34:09 | SWEET SWEET SUITE
【がんばってるね】

この楽章を書くにおいて、エピソードがある。
以前勤務していた老人ホームの入居者の一人の男性で、私を見かけるといつも右手を上げて「おっ、はりきっとるね~?」「がんばってるね~」と声をかけてくれる人がいるのだ。
人をほめるとか感謝の意から人を激励するということは、こと男は難しく、大げさに考えてしまいがちである。「気のきいたイイことをいってやろう」と意気込んでしまったり…もする。

ただ一言、実感のこもった暖かい言葉。
それがこの言葉だろう。

他にも、
【いつも明るいね】
【元気でいいわね】
【感謝してるよ・助かってるよ】
などもいい、ときいた。

まるで挨拶のように私の心にスーッとくるこの一言は、逆にいろいろな意味で出すのが難しい。

ここで気をつけなくてはならないのが、よく口にされがちな「がんばれよ」「がんばってね」という褒め言葉―は、言われて勇気がわく人・気合が入る人(あるいは場合)もいるだろうが、ある種の反発も生まれてしまうのだという。

「がんばれよ!」→「お前ががんばれよ」「お前こそがんばれよ」
という図式が成立しかねない。

「がんばってる人に『がんばってね』、といいたくない」―と私がいつも心に思うことなのだが、この短い言葉は、「さりげなく」「さらりと」人を褒める、相手を認める第一歩、いえ、「大一歩」だろう。

11th Movement 「極限のときにこそ」

2007-08-02 03:29:48 | SWEET SWEET SUITE
【「極限のときこそ余裕を持て」】

「われわれはプロですからね。そんな…どこかに余裕がないと。だって、いっぱいいっぱいのことやってたら、評価なんてできるわけないですよ。
ある意味その…評価ってほかの事考えてるわけでしょ」
(日産テストドライバー 加藤博義)


加藤博義氏は、かの名車「スカイラインGT-R」の開発をも手がけ、世界最難関の過酷なサーキット(「公開試験場」と行ったほうがいいかもしれない)・ドイツ ニュルブルクリンクサーキットを走りこみ、「神の声」を持つと言われる、日本のトップに君臨するテストドライバーである。
その氏が、平成18年5月11日放送 NHK番組「プロフェッショナル」内で語った言葉がこれである。

「そんな無茶な」と私なら思ってしまう。「できるならいつでも、いかなる場合でも余裕を持ちたい」と思う。特に、非常事態でいつも慌てふためいているような私にとって、身に着けなければいけないことであろう。

加藤氏の仕事は、超高速領域でテストコースを走り抜ける、文字通りの「極限」の世界…。それは、ハンドルの操作を数ミリ誤れば即大事故につながる世界だ。すなわち、『「余裕」を保ち続けることは、文字通りの生命線でもある』。

加藤氏は若かりし頃、上記の「ニュル」で、屈辱的な日々を過ごした。国内で十分走りこみ、意気揚々と乗り込んできたニュルを一周走って「とんでもないところだ、ここは!」と言ったという。走ることで精一杯、評価する余裕など到底持てない日々。
しかし、その中でもがき苦しみながら、加藤は極限ぎりぎりで余裕を残すコツをつかんだという。余裕がなければ評価などできない、すなわち「仕事ができない」ということになる。
加藤氏においては車を運転することだけでなく、仕事すべてにおいて「余裕を持つ」ことをする。どうしようどうしよう、という事態であるからこそ、冗談を飛ばし、笑ってみせる。

【修羅場で笑えなきゃ、プロじゃない】

加藤氏は負けず嫌いな性格だと紹介されていた。また極めてネガティブ思考の強い人間だ、ともいう。その自分を支えるために、余裕を作ってきた。でもそれが顔に出てしまったら本当に追い込まれてしまう。この「余裕を持つこと」への気持ち、それがとても尊敬できる点であると思う。

慌て者の私にも、同様のことが言える。

極限の状態になってこそ、余裕を持つということ。

この「男の美学」を私も参考にして仕事に当たりたいと思う。

10th Movement 「原因と行動」

2007-08-02 03:26:46 | SWEET SWEET SUITE
【原因を積み重ねたまえ、それがいざというときの結果を左右する。
その時、その場の状況だけを見れば全く無意味な行動でも確実に自分の心のベクトルを決定付ける原因となっているんだ。最も悪いのは無自覚に流れに乗ることだよ。これは原因を何も積んでいないのに等しい】
(ドリームキャスト専用ソフト『火焔聖母』より)


原因=物事のおこり、もと、を意味する。

上記の言葉は、「火焔聖母」の物語の序章において、主人公の高校生探偵見習いが、探偵のイロハを教わった探偵社所長から言われる言葉である。

「原因」といわれても実感がわかない主人公に対し、所長は、競馬を例に挙げて、「(競馬においては)儲かる『原因』をつんでいれば、勝つ馬をどんな風に予想したとしても儲かることになる」といい、そこから、探偵の仕事についてのあり方について説いていく。

「人が罪を犯す原因は何だろう?ある事件が解決を見たように見えても、当事者たちの心の問題は解決したのかね?―確かに、犯人が捕まれば事件は解決する。だが、その原因がなくならない限り、いずれ新たな別の犯人が現れる。事件が終わっても当事者の間に不安が残っているのは何故かね?それは、事件という結果を導く『原因』が取り払われてないからだよ」という。

「犯人を捜すのが探偵ではなくて、その原因を解体していくのが探偵の姿勢だよ」という考えなのである。

この所長のセリフや想いを私なりに解釈し、考えてみると「原因を積み重ねる」ということは、自分で考えたことを行動に移し、その「結果」なり「思い」なりを自分の心にフィードバック(=物事や作業の結果を分析して全体に反映させること)していくことだろう、と思う。
あえて、「『経験』を積み重ねたまえ」といわなかったのは、自分で考え、自分の足で行動し、事件解決の―そして自分の心のベクトルを決定付ける―原因を生み出すことが大事なのだということを伝えたかったのであろう。
「もっともよくないのは無自覚に流れに乗ること」という言葉からもわかるとおり、自分で考えて行動すること、その結果がよかろうと悪かろうと、それを心にとどめ、行動に生かす、そして、自分の心を強くしていくこと、が大切なのである。

実は、コレと同じようなことを、大学時代、将棋を指しながら教授と話をしたことがある。法律の学部に籍を置きながら、教育・福祉の世界にいざなってくれたアリガタイお方である。教授から言われた言葉が、前の職場を辞める時に心強い「原因」となったこともここで付け加えておく。

9th Movement 「ほんものへの積み重ね」

2007-08-02 03:24:55 | SWEET SWEET SUITE
【あたりまえのコトをキチンとやっていく チューニングにマジックはないんだ】
(「湾岸ミッドナイト」より)

【トマトがねえ
トマトのままでいれば
ほんものなんだよ
トマトをメロンに
みせようとするから
にせものに
なるんだよ
みんなそれぞれに
ほんものなのに
骨を折って
にせものになりたがる】
(相田みつを作:「みんなほんもの」)

【トマトにねえ
いくら肥料やったってさ
メロンにはならねんだなあ
トマトとね
メロンをね
いくら比べたって
しょうがねんだなあ

トマトより
メロンのほうが高級だ
なんて思っているのは
人間だけだね
それもね
欲のふかい人間だけだなあ

トマトもね メロンもね
当事者同士は
比べも競争もしてねんだなあ
トマトはトマトのいのちを
精一杯生きているだけ
メロンはメロンのいのちを
いのちいっぱいに
生きているだけ

トマトもメロンも
それぞれに 自分のいのちを
百点満点に生きているんだよ

トマトとメロンをね
二つ並べて比べたり
競争させたりしているのは
そろばん片手の人間だけ
当事者にしてみれば
いいめいわくのこと

「メロンになれ メロンになれ
カッコいいメロンになれ!!
金のいっぱいできるメロンになれ!!」と尻をひっぱたかれて
ノイローゼになったり
やけのやんぱちで
暴れたりしているトマトが
いっぱいいるんじゃないかなあ】
(相田みつを作:「トマトとメロン」)



中国の古書『菜根譚(さいこんたん)』によれば、「本当の味というものは、淡々としたものであり、米飯がこれにあたる」という。山海の珍味など三日も食べ続ければ飽きるが、米飯は毎食食べて飽きることがない。
【人間も同じで、着飾って格好を付けている人より、常識的なことをきちっと為すことのできる人物こそ本物である・・・と】。

今日、デフレの世の中で売れているのは、「本物と評価されたもの」だと。
【「技術、物づくりの付け根は、本物志向」でなければならない】
(MAZDAホームページ 「AXELA STORY」より)
フォルクスワーゲンゴルフ、プジョー307、アルファロメオ147など、欧州車では主流のひとつであるCセグメント車に対し、真っ向勝負をかけるカタチで発表された、MAZDA AXELA(アクセラ)。その開発主査である谷岡彰氏は、本物というものは「飽きの来ないもの」だと、上記の『菜根譚』から学んだという。


湾岸ミッドナイトの台詞にも見られるように、当たり前のコト・常識的なコトがキチッとできなければ、人から認められるコトはない・本物ではないのだ。


しかし、私はここで、「当たり前のことがキチッとできる」というのは、「行き過ぎると何かしら問題が出てくるということも加味しなければならない」ということも含みたい。
こと人間に関してのことだが、例えば、小学校に上がったばかりの子供が、「どんな場合も礼儀正しく、言葉遣いも丁寧である。親の言うことには『はい』と大きな声で答え、勉強も親に言われる前にちゃんとする」という、いわゆる「できすぎクン」にまでいたってしまうと、「一種の強迫神経症(=なんらかの観念にとらわれてしまい、それからどうしても逃れられなくなる症状。外出から帰ると何度も繰り返し手を洗ったり、出かけるとき鍵をかけたかどうか気になって戻って確認するなどの症状がある)」になってしまう恐れがある。子供なんかに「いい子になってね」「いい子にしていなきゃだめだ」とされれば「いい子にしていなければ可愛がってもらえない」という図式が出現しかねない。
こうだから、と枠にはめてしまうではなく、その人それぞれが可能な範囲で、そしてその人らしく自由に―。自分が人の中で生きていくにおいても、他人の気持ちに触れるときも、「そのちょうどよさ」があるのだと思う。
そこのあたりは気をつけなくてはならない。相田氏の作品は、それをうまく表現していると思う。

先の谷岡氏は、アクセラを「飽きの来ないクルマ」にするために、開発にあたって、開発スタッフそれぞれ専門家の手にゆだね、提案を求めたところ、開発チームが活気にみなぎった。開発過程で何か問題が発生したら、専門家が自ら取り組んで解決すれば、より以上の達成感を本人が味わうこともできる。専門家が働きやすくするために、自らの覚書を示した。

【開発の全ての責任は主査にある!】

こうして、各開発担当者は心おきなく自分の専門分野で腕を振るうことができたのであった。
【その過程で、もし・・・「間違っていたら―直せばいい」

主査の描く「本物」のイメージだけをスタッフに押し付けるのではなく、その人ができるキチッとやったものを集結させ、カタチにしていく―尊敬すべきリーダーの姿のひとつであると思う。

日頃から大事なコトが時々抜けがちな自分に渇を入れられる言葉たちである。心に刻んでおきたい。

そして、私はトマトのままがいい、トマトのままでいたほうがいいよなあ、トマトのままでいさせてほしいなあと思うのである。

(一部、斉藤茂太著:「続・いい言葉はいい人生を作る」より引用)

8th Movement 「人の魅力」

2007-08-02 03:22:20 | SWEET SWEET SUITE
「【速い車はすぐわかる 持っている雰囲気が違うんや】」
(湾岸ミッドナイト 神谷英次の台詞)

【その人全体からにじみ出る味わいで、その人物がわかる】
(元京都大学総長 平澤興氏の言葉)

「『アイツはなぜモテる?!』という人が結構いる。しかしその人をよくよく見てみると、容姿や性格などの実力以上のプラスαがあるのだ。このプラスαは魅力といいかえてもいい。人によっては味や雰囲気と表現してもいいだろう。
【その人からあふれ出てくる、内面的な魅力がプラスαとなるのだ】」
(きむらゆういち著「あらしのよるに―恋愛論―」より)


才色兼備:女性が、才知が優れその上顔立ちもきれいなこと。

そんな女性と交際して、結婚もして、幸せな家庭を築くことができたら…そんなことを時々思う。けど、そういう女性はやはり、背格好もよく、経済力もあって、優しくて、というモテる男の最大公約数を弾きだすような人物がふさわしいに決まっている(と私は勝手に思っている)。女性は得てしてそういう男性に惹かれるほうが多い。人の好みはわからないが、背が低くて不細工で粗暴な男性が好きという女性はまずいないと思うから。

私は、恋多き男の子だった。その人が持っている素敵なところをいっぱい見て人を好きになっていったと思う。でもそれはあまりにも不釣合い―自他ともに認めるくらいの―で、
「クラスの隅で目立たない子が君を好きなの ねえ 笑わないでね」
(歌:西村知美、作詞:売野雅勇『君は流れ星』より)というフレーズがぴったり来る、モーレツ片想いばかりだった。成就したためしもない。

顔もスタイルもたいしたことないのにモテる人も世間にはたくさんいる。男女問わず多くの人の人望が厚く好かれる人もたくさんいる。そういう人は、何かしらのプラスαを持っているのだという。そして、本人の努力でもって身に着けたプラスαは、もともとの長所をさらに増幅することができるという。

例えば、人にしてもらって心にいつまでも残る行い(親切)というのは、特別なものや大きなもの・過剰なものよりも、さりげないものであることの方が多い。落ち込んでいるときにふっと笑顔をくれたり、親身になって話を聴いてくれたり…ナイスなタイミングで私の心に飛び込んでくるのだ。言い方を変えれば「痒いところに手が届く」といったところだろうか。
サービス業を生業とする人において、そういうコトをさらりとできる達人級の人は、よりよい仕事をするにあたっての努力の積み重ねがなされている人だと思うのだ。


「自分だけのプラスαを身に着ける努力をする」、仕事でも人間関係でも、これがあるのとないのとでは、結果は大いに左右されると思う。そして、そういう努力を重ねた(と思える)人は、目にははっきり見えなくても、何かしらにじみ出るものがある。「オーラのようなモノ」「えもいわれぬ余韻」ともいえるかもしれない。

私もかくありたいと思う。もちろん、仕事だけではなく、一人の人間として、一人の男として―