Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

入試業務のミス

2006-01-23 23:29:10 | 社会問題
センター試験の監督ミスの発表

大学入試センターは22日、岡山市の山陽学園大試験場で21日に実施された国語試験で、終了のチャイムが鳴る前に監督者が試験を終了させ、試験時間が15秒短かった恐れがあると発表した。事前に監督者の時計合わせをしていたが、秒単位まで合わせていなかった可能性があるという。23日中に事実関係を確認し、確保されていないことが分かれば、28日に再試験を行う。

九州大学(福岡市)は22日、福岡市内の試験場で行われた大学入試センター試験の数学IIで、試験を監督した九大の男性教員の携帯電話が鳴ったと発表した。試験中に携帯電話の着信メロディーが2秒間鳴ったという。

どれだけ気をつけていても、ミスは起こるものだけれど、なかなか大変ですね…。わたしも気をつけよう…。





センター試験、やっと終わる

2006-01-22 21:57:05 | よしなしごと
今朝、朝日新聞みたら、トップ記事が「センター試リスニング不具合続出」だったので驚いた。続出っていうから、どの程度の数字かと思ったら、425人再テスト。これを多いとみるか、少ないとみるかは、ひとによって違うと思うけれど、50万人以上が受験したうちの425人だったら、まあまあつつがなく、の範囲に入るかな? 少なくとも、最初に勝手に予想していたより、個人的には少なくてホッとした。事前に不具合はないだのなんだの聞かされていたけど、人間の作る機械だもの、絶対に故障がないと事前に想定することのほうが、無謀な気がする。

例年のように、わたしもセンター試の監督にあたっていました。もうこれは本当に辛い。ミスは許されない、しかも手持ち無沙汰。緊張した暇の地獄を味わってぐったりする。花粉症の先生は鼻音を恐れて大きなマスクをつけてるし、わたしも雪のなかなのに音のしない靴を選んで履く。試験監督の靴音がうるさくて集中できなかったと苦情がでると困るから。とにかく携帯が普及しているから、試験監督に腹が立つと、速攻親に苦情を申し立て、親が電話を掛けてくるので、細心の注意が必要。まぁ一生に関わることですから、仕方ないですけどね。

とくに今年はリスニング試験を初導入で、わたしも緊張しまくり。事前の講習会にも出たし、事故対策マニュアルを二度も熟読し、誰かが鼻血を出したら、咳き込みはじめたら、お腹が痛くなったら、暴れだしたら、機械を落としたら、間違ってボタンを押しちゃったら、片耳だけで聞きたいといい出したら、地震が起きたら、火事が起きたら、停電が起きたら、飛行機の音が聞こえたら、他の騒音が出たら、といった事態にどう対応するかを暗記。必要なのは不測の事態に備えることだから、細かなことまで、記憶しておかないと、迅速に対応できないかもしれないから。とほほ。

しかし、携帯電話を机の上に出させて、一斉に電源を切らせたはずなのに、試験中にピロピロ荷物の中から音が出てきたときは、びっくりしました(必要ないけど、わたしは見回って確認した。だけどその子は、電話を取り出してなかったような気がする。電源を切りたくないけど、マナーモードも不可っていわれたので、音量とバイブを切って隠したつもりになっていたのかも)。わたしはタイムキーパーだったので、受験生と一緒に問題を聞かなくてはならなかったのだけど、一瞬集中力が削がれて、ドキッとした。あとで訴えられたらどうするんだ。全く。

でも確かに受験生もミスは多い。公平をきすために、解答が終わったあとは何もできないんだけど、受験番号を書いていない受験生がいた。一応マークはしてあったので、大丈夫だと思うけど。あとで何度確認しても、受験番号を書き忘れる受験生が大勢いた。解答前にこういった手続きをさせるのに、マークもしない子とか。最後の10分でまとめてマークしようとする子とか(←ずれたりしたら、タイムオーバーになるよ)。みてるこっちがヒヤヒヤして、寿命が縮んだ。

受験生と一緒にリスニングを受けてみて、機械自体はよくできてるなと思った。わたしが受験したときは、国立大学を2校受けられたので2校受けたけど、どちらにもリスニングがあった。ひとつの大学はローテクで、大教室に先生がカセットテープレコーダーをもってきて、ボタンを押して再生させるシステムだったけど、わたしは後ろから2番目でよく聞こえなかった。初めは自分の実力かと思っていたけど、最後の数分で何かの拍子に先生が音量をあげたら、急にはっきりと聞こえ始めた。つまり音量不足だったのだけど、そのことに気がつかなかったのだ。まぁなんとか聞き取りにくいながらも、聞けたからいいやって思ったけど。今だったら、苦情が出てもおかしくないと思う。それに聞こえ方が、席順に依存するのって、やっぱり不公平だ。

英語はとにかくクリアな音で録音されていて、メニューを選んだり、天気予報がわかったり、ニュースを理解したりできるかを試すものだった。暇だったので、英語の問題もパラパラと眺めてみたけれど、発音問題もなくなっており(わたしは5問ある発音問題を落とさないようにするために、発音記号を丸暗記していた。今でもほとんどの単語は発音記号が書ける。発音できてるかどうかが別問題なのが問題だけど)、アクセントを問う問題の単語も特別なものでもなんでもなく、何よりも長文読解がなくなっていて、やっぱり会話文を読んで、どの車に乗ってきたのかを絵で選ばせたり、駐車場の場所を当てたりするような問題、会話中心だった。抽象的な概念は全く出てこない。

…いくらセンター試とはいえ、何だかかなり簡単になったなぁとびっくりした。学部の演習で、バトラーやベル・フックスやレイ・チョウ、さまざまな論者の論文を集めた英文を読んでいるのだけど、学生が難しすぎると文句をいうのも一理あるのか、と思いかけたけど、やっぱり、一生に一度くらい、原文でちゃんとした文章を読んでもらいたい。卒業したら、ほとんどそういう機会ってなくなるんだから、と思い直す。外国語ができるかどうかが問題ではないのだ。何を読むかなのだと思うと、今の受験生の英語経験はあまりに貧しいと可哀想になる。これで教養部に英語会話学校が導入されているような大学だったら、一生、それなりの英語を読むこともなく、買い物や雑談をするための英会話を学んでいくのだろうな。それでいいと思うのだったら、いいけれど。教養のときに、英語やドイツ語で読んだ文章、とくにドイツ語なんて忘れてしまったけど、それなりに内容はまだ覚えている。そのときは、文句をいっていたような気がするけれど。


大学は尊敬されている?

2006-01-20 10:48:14 | よしなしごと
この間、よその大学の先生たちとフランクに話していて、「今の大学は大変だ」という話になったのだけれども、「大学の先生に対しても世間の評価は厳しいし」っていったら、その場にいるほとんどの先生たちに(わたしより年配)「いや、大学の先生は尊敬されていると思うけど」っていわれて、リアリティの違いに少し驚いた。どうでしょうかね?

わたしがさまざまな事例を取り上げたら、何だかわたしが(相対的に)若くて、社会学という分野だから誰でも一言あって専門家として尊敬されにくいから、っていうまとめにされて、少々不満。まぁそれもあるかも知れないけど、それだけじゃないと思う。わたしが今、学生だったら、大学が何を提供してくれるのかって、やっぱり問いかけると思うし、実際にすでにそうなっていると思うのだけれど。のんびりとした大学の春は終わったのだと自覚したほうがいい。

国立大学だって、授業料は年間50万円以上するし、独立行政法人になってから、また上がったし、裕福な家庭だったら何ともないお金だけど、普通のサラリーマンにとっては、やっぱりかなりの金額だと思うんだよね。それに下宿代まで入れたら、年間150-200万円としても、相当の負担じゃないのかなぁ?(うちの大学の学生は、つつましく大学の付近に住んで、自転車で通っている。住所をみると9割近くがそうなので、びっくりする…。東京の大学生活とは程遠い真面目な暮らしだよね。偉すぎ)。そうしたら、今更だけど、この大学から何を得られるのかって考えないかなぁ? 無条件に学問や先生を尊敬なんてできない、と思う。もう世間は収益に基づいて大学を判断している。

また大学に収益を求めるようになれば、ここまで雇用が悪化しているなかで、大学の教員が相対的に恵まれていると思われるのは、当然のことだとは思う。わたしは教育は社会の基本だと思うから、初等・中等教育の教員の給料が切り下げられ、研修という名で長期休暇は削られて職員室に漫然と待機することを求められる現状で、どれだけの優秀な教員が確保され、モティベーションを持ち続けることができるのだろうと考えると、暗澹たる気分になるけれど。こうしたなかで、大学教員に対する眼差しも、厳しいものにやっぱりならざるを得ない。あなたたちは社会の役にも立たないことをして、呑気なものね、って確実に思われていると思う。こう考えるわたしが、自虐的なんでしょうかね?
 
わたし自身は、大学には、大学独自の価値に基づいた教育機能が必要だと思っているし、せめてアメリカ並みに学部は教養大学化してなんとか大学としての最低限の教育機能を守りたいという気持ちはあるけれど、わたしの切羽詰った危機感は、どの教員でも持っている訳ではなく、温度差はあるのだなぁ…と思った。と同時に、世間の大学批判のベースにあるものは、理解できると、残念ながら思ってしまった。

質のよい教育を提供していくには、わたしたち教員にゆとりが必要だなぁとも思う。卒業論文の指導も、ひとりひとり個別に時間をかけれたら、かなりましになると思うのに、そんな時間はとても取れない。結果、自分から来る学生には、なんとか時間をやりくりして指導をするものの、来ない学生にまで、追いかけて行くことはとてもできない(しなくてもいいのかも知れないけれど)。暇な時間には、論文を読んだり書いたりして、研鑽を積まなくてはならないと思うものの、週末になったら、寝るだけで精一杯。自分が磨耗してしまうときには、心の余裕もなくなっていくのを感じる。できるだけ、前向きになろうと思っているけれど。

わたしはペシミストなのかなぁ?




ジュディス・バトラー

2006-01-16 00:33:01 | 本を読んだ
14日のお茶大のバトラーの講演会に行ってきました。雨にも関わらず、1200人の講堂に900人もの人が来たらしく、いまだ一度に知人にあんなに会ったことがないほどの人出でした。久しぶりに知り合いに会って、お話できて、楽しかった。

お茶大の講堂は椅子が小さくて、座るとキチキチ。なかなか辛かった。講演の内容はといえば、かなりベーシックなことを簡単に話された感じでした。ワシントンD.C.やニューヨークで聞いた講演は、かなり政治的でシンプルかつ理論的で刺激的なものでしたが、今回は理論家の名前も挙げず、ジェンダー、セクシュアリティ、アイデンティティの構築性とは何かについて、同性婚やインターセックス、トランスジェンダーなどの例を引きつつ、精神分析も簡単に使いながらレクチャーしたという感じ。きっと、大勢の人が聞きに来るという会の性格に合わせたんだろうなぁ。

それでも、通訳を聞いていると、格段に難しくは聞こえました。日本語に訳してしまうと、漢語になるので、かなり難しく聞こえる気がする。体内化、とか、耳慣れない単語も出てくるし(理論に関心のない人は、「難しすぎる」といっていたし、理論的なことに関心がある人は逆に、「もう少し突っ込んだことが聞きたかった」といっていたので、なかなか皆が満足する講演っていうものはあり得ないものだなと痛感しました)。質疑応答にも、バトラーはかなり簡単に答えていたうえに、通訳によって微妙なニュアンスや様々なものが零れ落ちてしまうのは、少し残念でした。

バトラーと会ったら何を話していいのか本当は前もって考えておくべきだったのだろうけど、質問がたくさんありすぎて、緊張。結局、学部の演習でバトラーのファンタジーについての論文を読んだばかりだったこともあって、表象の暴力について質問することに。質疑応答のときに幼児ポルノについて質問され、「ファンタジーや表象と実践は違うと思う」とかなりシンプルな答えしか返さなかったこともあり、もう少し突っ込んで聞きたかったのだけど、最終的には「アメリカと日本は状況も違うし、国家による検閲は反対だけれども、この問題に答えを出すことはできない。いつも実に難しい問題だと感じている」という答えをもらって終了。帰る道すがら、「ああ、講演を聞いているときに、ポジティヴなアイデンティティとポジショナリティ、責任、倫理の問題はどうなんだろうと思ったのに、そちらを聞くべきだった。表象の暴力については、答えは容易に予測できたのに」と反省。そもそも初対面の学者と話すのが上手くないうえに、英語でさらに緊張が高まってしまい、失敗でした。

にしても。バトラーの英語は親切だったなぁ。通常の2倍程度のスピードで、はっきりと外国人向けに話してくれていたし。質疑応答も、切って捨てるように明快というよりは、ゆっくりと、あちらこちらの立場のひとに配慮しながら、かなり穏当なことをいう感じ。

バトラーが、理論的にジェンダー、セクシュアリティ、アイデンティティをめぐる革命を行ったのは間違いないことだと思うけれど、ポスト・バトラーの理論家っていつ出てくるのだろうか。『ジェンダー・トラブル』から15年。そろそろ新しいパラダイムがあるといいのになぁ…。

ご挨拶

2006-01-01 00:00:00 | よしなしごと
旧年中はお世話になりました。
今年もよろしくお願いいたします。
って少し早いですが…。

アメリカの在外研究で2年近くご挨拶を失礼していたので、たくさんの方たちの連絡先がわからなくなってしまいました。
ご挨拶を失礼している方々、申し訳ありません。

それではまた。