Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

連載 BLスタディーズ2

2007-12-13 11:15:13 | 本を読んだ
なんだか途中まで書いたんだけど、ネット上にチマチマと文章書くのが面倒くさくなってきた。でも乗りかかった船だから完成させることにします。こんなことを書いている暇があるんだったら、論文書いたほうがと思うんですが、まぁいいや。今日も少し書いたら切り上げるので『連載』にしました(笑)。

この前の日記には、些細な意見の違いなんてどうでもいいのにと書いたんですが、やっぱり「些細」じゃないなぁと思うので、続き。

ええっと森川さんは、この間のデータから、腐女子がモテないという結論を引き出されて、やおいやBLの内容との関係を探ろうとするのだけれど、このような追求は、「モテない腐女子像を退けようとする学者たちのやおい論や腐女子論の思潮と、真っ向うから対立する危険性をはらんでいる」といい、その思潮とは、ジェンダー論の傾向で、前回の『腐女子マンガ大系』の学界の書き手による文章には明確にその傾向があったらしい。

うーん、具体的に誰をさしているのか、よくわかんないんですが(金田さんだけは名指しだけど。きっとわたしがこんなところでチョコチョコ書くより、森川さんが仮想敵(?)にされている方が直接反論なり、応答されたほうがいいんだろうなぁ)、「モテない腐女子像を退けようとする学者たち」というのが、どうもいるのかなぁ? わたしの知るかぎりでは、杉浦由美子さんなんかは、かなりその傾向がありましたが、彼女は学者じゃないし…、でもきっと、おっしゃるからには存在するんでしょう。わたしはBLという表現形式には関心があっても、腐女子というカテゴリーはともかく、実態はどうでもいいし、モテ非モテもどうでもいいので(っていったら、終わってしまいますが)、ここの部分は飛ばします。でも正直にいえば、前回の『大系』で、むしろジェンダー分析がされないことにわたしは違和感をもったし(だって男同士が性交渉する作品を女性ばかりが(腐男子もいますが)読んでるんですよ! 変な現象じゃないですか?)、表象の暴力の問題もさらっと流されていて(明らかに当事者じゃないひとたちの領有が起こっているというのに。今回は石田さんが論考を書かれていましたが)、森川さんと印象はまったく逆です(きっと信じている神が違うんだと思います)。

で、こういうやおいを考察する際の、既成の学問分野がカルチュラル・スタディーズと女性学であることが、これらの原因である、と森川さんはおっしゃって、カルスタ(略すの嫌いだけど、長いから略す)と女性学批判を行われている。

カルスタは、人種問題があり宗教問題があり、これらが焦点となる政治風土を背景とした社会での左派の理論武装で、日本は「歴史・人種・宗教風土」を「大きく異にする」という。うーん。わたしの琴線に触れるのは、ここです。こういう批判って、どうなんでしょう?(もう論じつくされている問題でもあり、今さらでもありますけど)。

例えばマルクス主義でもいいですし、構造機能主義(笑)でも、精神分析(これは半分保留)でもいいですけど、まぁそういう大きな理論の枠組みがあるところでは、その理論的枠組みの適用可能性を論じることって、まだ意味があると思うんですよね。大きな物語ってどうなの?でもいいですけど。でもカルスタって、そもそも既存の学問の境界線を壊しましょうというような学問的実践であって、何というか、ポスト構造主義のなか、ミシェル・フーコーが「知の道具箱」呼んだような、たんに分析のための小さなツールに過ぎないんじゃないんですかね? そんな小さなトンカチみたいなものを、「西洋」を実体化してそこに帰属させ、二項対立的な「日本」を作り上げたりするよりは、トンカチのオリジンなんて、どうでもいいじゃないと考えるほうが、現実に即しているように思います。森川さんのいうような批判自体が、「西洋」を実体として作り出しちゃうんじゃないのかしら?

もちろん、ひょっとしたらカルスタ総体を神として信じているひともいるのかも知れませんが。しかし具体的なテクストを分析するときには、ここは「オーディエンス」という概念を核に分析してみようとか、少なくともわたしは、その程度のことしかやらないし、できないです。そんな概念のクレジットに、漢字がついていようと、カタカナがついていようと、それはたいした問題じゃないと、わたしは思います。

うーん。また体力がなくなったので待て次号!
いったいいつ終わるのやら。