運動や学問でやってはいけないこと。
1)相手に(「自分に」でも、結果としては一緒だけど)反省を迫る
2)どちらがより抑圧されているか犠牲のピラミッドを作る
3)相手に(自分に)ないものをあげつらう
まぁこれらのことはだいたい何も生み出さないですね。それどころか、百害あって一利なし。ただ今は政治状況が悪いせいなのか、アイデンティティの複合性の意味を間違って把握しているのか何なのか、こういうことを他人に求めるひとって、いますよね。基本的には良心的な意図から出てきているのはわかるのです。けれど、これは本当にまずいんじゃないかと、いつも思う。
考えるとうんざりしてきたので、詳しくは今度書くとして、わたし個人としては、それぞれが自分のやりたいこと、関心のあることを、やっていけばよく、「いろいろあって全部いい」の精神でゆるゆると好きなようにやればいいんじゃないかと思うのですよ。何が重要で何が重要でないかは、そのひと個人の置かれている立場や関心やさまざまなものによって違うし、それを非難してもしかたないんじゃないかなぁと思います。こういうことって行き着くのは最終的には、「内ゲバ」でしかなくて、もう少しわたしたちは70年代の経験から学んでいいんじゃないでしょうか。
誰が何をいってもいい。そのひとの属性によって、発言のオーセンティシティは決まったりしない。ただ同様に、批判する権利も万人がもつ。それでいいじゃんって思うんですが。
1)自分が反省するのは自由(ただ集合的カテゴリーを使わないように)
2)自分の反省をアピールするのはそのひとの勝手
3)他人に反省を迫るのだけは止めましょう
といつも思います。
1)相手に(「自分に」でも、結果としては一緒だけど)反省を迫る
2)どちらがより抑圧されているか犠牲のピラミッドを作る
3)相手に(自分に)ないものをあげつらう
まぁこれらのことはだいたい何も生み出さないですね。それどころか、百害あって一利なし。ただ今は政治状況が悪いせいなのか、アイデンティティの複合性の意味を間違って把握しているのか何なのか、こういうことを他人に求めるひとって、いますよね。基本的には良心的な意図から出てきているのはわかるのです。けれど、これは本当にまずいんじゃないかと、いつも思う。
考えるとうんざりしてきたので、詳しくは今度書くとして、わたし個人としては、それぞれが自分のやりたいこと、関心のあることを、やっていけばよく、「いろいろあって全部いい」の精神でゆるゆると好きなようにやればいいんじゃないかと思うのですよ。何が重要で何が重要でないかは、そのひと個人の置かれている立場や関心やさまざまなものによって違うし、それを非難してもしかたないんじゃないかなぁと思います。こういうことって行き着くのは最終的には、「内ゲバ」でしかなくて、もう少しわたしたちは70年代の経験から学んでいいんじゃないでしょうか。
誰が何をいってもいい。そのひとの属性によって、発言のオーセンティシティは決まったりしない。ただ同様に、批判する権利も万人がもつ。それでいいじゃんって思うんですが。
1)自分が反省するのは自由(ただ集合的カテゴリーを使わないように)
2)自分の反省をアピールするのはそのひとの勝手
3)他人に反省を迫るのだけは止めましょう
といつも思います。