Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

いろいろあって全部いい

2006-12-26 14:43:47 | よしなしごと
運動や学問でやってはいけないこと。

1)相手に(「自分に」でも、結果としては一緒だけど)反省を迫る
2)どちらがより抑圧されているか犠牲のピラミッドを作る
3)相手に(自分に)ないものをあげつらう

まぁこれらのことはだいたい何も生み出さないですね。それどころか、百害あって一利なし。ただ今は政治状況が悪いせいなのか、アイデンティティの複合性の意味を間違って把握しているのか何なのか、こういうことを他人に求めるひとって、いますよね。基本的には良心的な意図から出てきているのはわかるのです。けれど、これは本当にまずいんじゃないかと、いつも思う。

考えるとうんざりしてきたので、詳しくは今度書くとして、わたし個人としては、それぞれが自分のやりたいこと、関心のあることを、やっていけばよく、「いろいろあって全部いい」の精神でゆるゆると好きなようにやればいいんじゃないかと思うのですよ。何が重要で何が重要でないかは、そのひと個人の置かれている立場や関心やさまざまなものによって違うし、それを非難してもしかたないんじゃないかなぁと思います。こういうことって行き着くのは最終的には、「内ゲバ」でしかなくて、もう少しわたしたちは70年代の経験から学んでいいんじゃないでしょうか。

誰が何をいってもいい。そのひとの属性によって、発言のオーセンティシティは決まったりしない。ただ同様に、批判する権利も万人がもつ。それでいいじゃんって思うんですが。

1)自分が反省するのは自由(ただ集合的カテゴリーを使わないように)
2)自分の反省をアピールするのはそのひとの勝手
3)他人に反省を迫るのだけは止めましょう

といつも思います。



オタクになる才能

2006-12-24 06:42:03 | よしなしごと
常日頃から、「オタク」になれるのは、ひとつの才能である、という風に思う。というか、すべてのオタクが天才であることはないけれど、ひとつの道を究めるひとは、やっぱり必ずオタクなのではないか。ま、当たり前ですが。

で、わたしはやはりこの「オタク」になる才能が、欠けてるんですよねぇ…。趣味は充分に暗いと思うのだけど(じゃなきゃ、20代を大学院なんかで、過ごしませんよねぇ)。この間あるひとに、「あなたはつねに何かにはまっているけれど、会う度にその対象が違う」と指摘されましたが、その通り。というか、依存することに依存しているのであって、基本的には熱しやすく、冷めやすい。

だから語学も上手くなんないんだなぁといつも思う。わたしが好きなのは、「新しいことをマスターすること」であって、それ以上の努力ができないのである。いつも思うのだけれど、8割方できた気になるのよりも、残り2割を仕上げて完璧にするほうが労力が掛かるものなんですよね。なんとか楽器で一曲弾けるようになるのと、細かく楽譜通り仕上げていくのであったら、後者のほうが時間が掛かる。そして、前者の伸び幅は大きいからやる気がわくけれど、後者のほうは本当に努力と根性が必要なんです。で、それがない。きっと。

外国語だって、何もできない状態から、「水下さい」「有難う」「違います」がいえるようになるのは、本当に大きな進歩です。おおっという感動がある。そのうちに看板が読めるようになり、文章が読めるようになり、お話だって通じるようになる。それは楽しい。しかしその段階を過ぎて、細かなイディオムを覚えたり、抽象的な単語を増やしたり、正しい発音をマスターしようとし始めると、途端に労力の割りに報われる率が低くなる。そのときに踏ん張れる努力家のひとが、語学をできるようになるのであって、わたしは本当にそういう作業に向かないのだなぁと、今の職場にいるとつくづく思うのである。

ここ数年、はまったものを考えると、オペラに車の運転に高橋大輔。あとは細かく、○○語の習得をちょこっとだけ、とか小さなブームが死ぬほど。嫌いなブームとしてネオリベ。でもいまだにルッツとフリップのジャンプの違いを見分けようとも思わないし、実際できないし…(関係ないけど、佐野稔のコーチっぽい好き勝手な解説って好き。勝手に採点してくれたりするし。去年の全日本の恩田美栄の演技のときに、国分太一が「みんなで行こうよ、トリノへって感じですよね。何とかならないんですかねぇ」といったときには、あまりの薄っぺらさに殺意を感じました。穏やかじゃなくてすみません)。

で、なんでこんなことをつらつらと書いているかというと、過去にひとつだけ、心の底からはまったものといえば、少女漫画だったなぁと少女漫画の歴史を追いながらつくづく思ったからである(社会学も一応極めなくてはいけないんですが、8割理解から10割近くになったなぁというよりも(そういうことが可能かどうかは知らないけれど)、8割方(?)習得したあとに、その8割がどんどんアップデートされている感じ。社会現象は(理論も)動くから。そこが歴史学などのある程度対象が固定化されている学問との違いで、それなりに自分に向いている分野を選んだ気はするけれど、でもこうやって「理解した気になったら興味を失う」っていうのも社会学をやった副作用のような気もするからよくわかんない)。

わたしの読書経験は年代の割には古いというか、中学校時代に萩尾望都の『トーマの心臓』(連載開始が1974年。まだ小学校にも行ってない)を読んで感動し(それまで、『りぼん』とか『なかよし』を付録目当てに買う女の子たちの気持ちはあんまりよくわかんなかった。小学校のときは漫画が禁止されていたし、恋愛ものってつまんないしどーも興味わかない(当たり前)と思っていたからである。買っていたのは『コロコロコミック』330円。月1000円の小遣いのなかからかなりの痛手でしたが、おかげでドラえもんの秘密についてはかなり知っている。あとはピアノの先生のところに置いてある『週刊(少年?)サンデー』。小学1年生が毎週読んでいい本じゃなかったように思うのだけど、今思うと、あの週一の雑誌がわたしのなかに住む「オヤヂ」を育てたとしか思えないんですよねぇ…。あの『サンデー』のおかげで、世の中で女性はどう(性的対象として)見られているのかを学習したし、「あたしって可愛いから何しても許されるの」と思っている女の子のナルシシズムって恐ろしく誤解に満ちていて、馬鹿みたいと思っちゃったんですよ…。わたしがフェミニストになったのは『サンデー』のせいだったという、真実だったら恐ろしい事実ですが、自分の人格形成に少年漫画の果たした役割って大きいって、実は本当に真実なんですよ。怖い)、初めて少女漫画に関心をもったんでした。いやー、あまりに繰り返して読んだんで、英語の教科書を暗記するように知らず知らずのうちに台詞を暗記してしまい、台詞の穴埋め問題をやったらきっと今でも満点が取れてしまうような気がする(とくに2巻)。

それから花の24年組といわれるひとたちの漫画はほとんどすべて買い揃えたのですが(で、死ぬほど読んだんですが。才能があったら漫画家になってたな。なかったから仕方なく教員やってますが)、実家を離れているうちに全部親によって古本屋に売り払われてしまっていました。しくしく。いや、『風と木の詩』と『エロイカより愛をこめて』、『妖子』(池田理代子)は残っていましたが、エロイカはともかく、その選択基準がまったくわかりません。母よ。

で、わたしが少女漫画から距離を取ったのは、明らかに、同人誌系(やおい)作家が台頭してきた頃なんですよね。尾崎南とかCLAMPとか高河ゆんとか。少し遅れて水城せとなとか山田ユギ(←変な字を書いていた頃)とかもなんか読んだ気もするんですが、当時ははまるということはなかったなぁ。ちょうどJ-POPも、松本隆・筒美京平コンビ全盛期を過ぎて、TMネットワークなどの小室サウンドが出てきた頃にはもう聴かなくなったのにすごく似てる(この間お店で、恐らく松田聖子のトリビュートアルバムがBGMとしてかかっていたけれど、今さらながらよく歌詞を聴いてみると、妙に女性の性的媚態がメタファーとして入っていて、ウエットにいやらしくて、呆然としました)。ちなみに4歳違いの妹は両方とも好きだったから、なんかシンクロするものがあるんじゃないかと思うのだけど。

で、「腐女子問題」に触発されてつらつらと考えるのは、なんでわたしは尾崎南とかが好きじゃなかったのだろうかという問題ですね。どーしてでしょー? これがよくわかんないんですよねぇ…。漫画読みはやめなかったけれど、でも「少女漫画」は卒業して、柴門ふみとか、「女」くさい漫画のほうにいったような気がする。まぁ実際ティーンエージャーを卒業するころには、実際の恋愛のほうが遥かに楽しくなっているものだし、いつまでも「少女(漫画)」じゃねーだろ、という気もしますが(個人的ライフステージ)、でもここできっとやおい系の漫画に流れるひとと、女性コミックに流れるひとと、何かを分つ点というものがあるような気がするのです。

(関係ないけれど、漫画評論って作品そのものを分析したものって、あまり面白くないような気がする…。読みは多様なんだし、自分勝手に読ませてくださいという気になる。やっぱり面白いのは読者論で、評者がどうその漫画を読んだのか、ということを抜きにしては面白さはないんじゃないかなぁと個人的にはやっぱり思う。藤本由香里さんなんかが、やっぱりその点上手いと思うんですが)。

まぁよくわかんないんですけど、っていうかわかんないから考えているんですけど、ここらへんで、自分の抱えている問題はフェミニズムの問題なんじゃないかという自覚があったことが大きいような気がしないでもないです。確かにわたしは、「女」であることに違和感がなかったわけではないけれど、「男」になりたいと思ったことは一度もない。「わたしはみんなが期待するようなかたちでの女」ではないかたちで「女」でいたいのであって、「女であること」自体が嫌なわけではないわけですから。あの頃のやおい系のものには、ホモフォビアと同時にミソジニーの匂いを嗅ぎ取っていたような気がします。現在のBL系のものとは、何だか少し違うような気もする。ここから先はもう少し考えて&もう一度読み直してから書くべきだと思うので止めますが、はまったひとのサイドからの意見を聞いてみたいです。

なんだかどうでもいいことで、長くなってしまいました。この辺で。

杉浦由美子著『腐女子化する世界』と『オタク女子研究』

2006-12-22 00:20:41 | 本を読んだ
基本的には、あんまり本を読んで、とくにネット上に批判がましいことは書きたくはないんだけれども、杉浦由美子さんの『腐女子化する世界』と『オタク女子研究』に関しては、あまりにちょっと…なのではないかと、久しぶりに…という気分になった。

まず『腐女子化する世界』(ラクレ新書)を読み始めて、「あれ? またやっちゃったのかなぁ?」と思った。やっちゃったというのは、もっている本を二度買いすること。最近ボケに拍車がかかっているうえに、買った本にカバーを書けて貰うことが多いので、同じ本を二度買ってしまうことがないわけではない。それをまたやっちゃったんじゃないか?って思うくらい、読んだことのあった気がする本だったわけです。

しばらく読み進めて、『腐女子化する世界』が『オタク女子研究』というその前に出された杉浦さんの本とほとんど内容が同じだったからだということに気がつきました。いや、同じようなテーマの本だから、そんなに違うことは書けないのかもしれないけれど、新書やこんな薄い本で、批判の対象にしている『最後のY談』の中村うさぎ他の引用箇所までが同じっていうのは、ちょっとどうかと。結局、『腐女子化する世界』は、『オタク女子研究』に「腐女子化は格差社会を生き抜く知恵」という最終章をちょこっと付け加えただけの本、というような感想をもちました。

テーマが同じなので、ある程度の重複は仕方ないのかもしれないけれど、ここまで重なっていると、さすがにちょっと「お金返してくれないかなぁ…」という気分。同じテーマでも違う切り口で書くとか、やり方はいろいろあるはずな訳で、ほぼ半年のうちに同じような重複する内容で本を出すのは度胸があるなぁと…。

まぁそれはさておき。やっぱり内容に賛同できないのが、違和感としては大きかったです。中村うさぎと森奈津子がやおいを、自分が入らない幻想であることから、自己否定感が強い妄想、「女であることが嫌いなんでしょうか?」(森)「…わたしもそうなんだよね」(中村)と語ることに対して、一貫してそれを否定する。

女の子は同性愛的妄想が好き。男ばかりではなく、『コミック百合姫』が発売されているから女性同性愛も好き(ネット上で彼女の知識がかなり間違っているという詳細な批判を読みましたが、ここのコミック名他、訂正された模様)。だから自己否定なんて関係ない。男を対象にするのは、異性愛者の女は男が好きだから「健全」な反応。

って、ボーイズラブが年間100億市場とも、120億市場ともいわれているのに、『コミック百合姫』って何部売れてるんでしょうか? 私見では、どうももう危ない気がしますが…。この非対称性に目をつぶることは(しかも「女の子は同性愛的妄想が好き」っていうことの説得的根拠は何にもない…)、わたしにはやっぱりできないように思います。異性愛者の女は男が好きだとしても、なぜそれが同性愛的妄想でなければならないのか、については、かなりの理由付けが必要であるし、可能であると思います(また別に書きます)。

しかも「『リバーシブル』(男役と女役が入れ替わること)は腐女子界では一番嫌われます。『二元論で語れないものは嫌いだわ!』ってすごいファシストなのですね、腐女子のみなさん」という件には、やや脱力しました。わたしはこれはこれでジェンダーの問題を考える際に重要な問題を提起していると常日頃から思っていたのですが、「ファシストなのですね、腐女子のみなさん」で説明終わりです。なんだか…、あまりにこの手の現象に愛がないなぁっていうか、「腐女子」が「売れる」テーマであることは間違いないんでしょうけれど、それをきちんと解明したいという気力や誠実性、愛情がまったく感じられないことに、ちょっと疑念をもってしまいました。

「なぜ、社会でバリバリ働く女性たちがボーイズラブを読むのか? それは単純にいってストレスが多いからだと思われます」。ボーイズラブは「気軽」な娯楽だというのは間違いないとしても、ではなぜ、ボーイズラブなんだろうか? やはり社会学者としては、そこを解き明かして欲しい。ちょっと肩透かしを食らった気持ちです。そこまで要求するのは要求しすぎなんでしょうか?

全編を通して、腐女子はそんな特殊な人じゃないし。モテモテの腐女子も多いし。っていうことを恐ろしいほどに力説する杉浦さんに、わたしはむしろ興味をもちました。腐女子はある意味、社会に適応して、現実に恋愛をしたり結婚をしたりしているひとたちである、という現象自体が、やはり中島梓もいうように、面白い現象であり、理解可能な現象(つまりは腐女子の世界が、ある意味でのジェンダー秩序へのプロテストであり、また既存のジェンダー秩序への適応を促すものである)という気がするのです。

日記ではこれ以上書きませんけど。でも『オタク女子研究』、「予想外に40代・50代の男性たちにも好評だった」と後書きで書かれる杉浦さんに、「そうだろうなぁ…」と納得。予想外というよりも、やはり40代・50代の男性たちの幻想に合わせた視点で腐女子をポップに語った本であって、腐女子の世界に寄り添って書かれているようには思えなかったからである。一言でいえば、腐女子への愛があんまりない腐女子本だなぁと、残念に思いました。