goo blog サービス終了のお知らせ 

Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

35歳問題について

2008-02-05 00:39:40 | 社会問題
こうだくみが、「35(歳)以上になると、羊水が腐ってくる」と発言したことをめぐって、ネット上で問題となり、アルバムのプロモーションなどを自粛することが決定したほか、CMなども放映中止になったりして、かなりの騒ぎになっている。騒げればそれでいいのかも知れないけれど、意外です。

35歳のまえに子どもを産んでおいたほうがいいと、自分のマネージャーにいうのも大きなお世話だし、公共の電波での発言には、気をつけたほうがいいのは勿論である。しかし、「羊水が腐るなんて、事実無根のことをいうなんて、ヒドイ!」というみんなの調子をみてると、「う~ん、じゃあ、35歳以上になると、卵子が劣化するから、早く子どもを産んだほうがいい」発言だったら、どうだったんだろうという気持ちを抑えきれない。

だって、日頃から、35歳卵子劣化説、だから女は子どもは早く産んだほうがいい!って、しょっちゅうみんなが堂々といっていることだもの。「正しい」知識に基づいていなかったから悪いのなら、この「科学的」言説だったら、どうだったんだろう?

産婦人科の先生が研究会で、35歳以上の「高齢」出産と20前などの「若年?」出産のリスクはどちらが大きいかという問題がよく話題になるんですが、とさらりとおっしゃっていて、「え~? 若ければ若いほどいいとはいわれるけれど、若すぎるリスクなんていう言説はあんまり巷では聞かないよなぁ」とびっくりしました。周囲の女性が、生殖にかんすることを心配してお医者さんに聞いても、「年齢は関係ないから、焦る必要はないですよ」「いつでも産めますよ」みたいなことしかいってもらえず、具体的に子どもを作ろうとしたり、不妊治療などを始めてから、確率的には自分があまり時間が残されていないグループに入っていると知って愕然とするという話と(野田聖子議員なども、知らなかったといっていましたね)、それなのに公然と「35歳以上はダメ!」といわれているというあまりのギャップに驚きます。

個人のプライバシーに関することについては、口をつぐみ、自己決定のときに必要としている(現時点での)「科学的」知識は淡々と与えるというふうな逆転はされないのかなぁといつも思います。

悲惨な事件だけれども

2006-07-04 13:39:09 | 社会問題
近年、マスコミを賑わせていた鈴香容疑者の事件も、ひと段落ついたようだ。娘の彩香ちゃんの死因もわからないし、狭い町で起こった殺人事件の真相は、藪に包まれたままだ。容疑者だと内心思っている鈴香容疑者に、事前にインタビューしている映像は、ある意味エゲツナイなぁとあまり正視できるものではなかった。

彩香ちゃんは鈴香容疑者に殺されたのかどうか。そうだとしてもありえるなぁと思うし、違ったとしても、そうかと納得するような気がする。

それにしても、彩香ちゃんの生前に「中絶のお金がなかった」、「産みたくなかった」とか「育てたくない」などと鈴香容疑者が語っていた発言ばかりが(殺人をしかねない根拠として)クローズアップされているけれど、それはどうなんだろうか。鈴香容疑者は、そういう発言をすること自体が、子どもに対する虐待にあたるということすら、理解していないような気がする。

やはりと思うしかないのだけれど、鈴香容疑者のうちはあまり裕福ではなく、常日頃から父親に暴力を受けていたという。そのような家庭で育った容疑者は、「子どもを可愛がる」ということがどういうことか自体を、すでに学んでいないのだと思う。つまりは、可愛がり方がわからないのではないかという気がする。

カップラーメンばかりを食べさせられていた、よく外に放り出されていた、その間は鈴香容疑者は売春したり、男のひとと付き合っていたみたい。このような断片的なエピソードも、鈴香容疑者にしてみれば、虐待している意識はなかったのではないか(もちろん頭の片隅には、疑念がよぎったとしても)という気すらする。きちんとした食事を毎食食べさせてもらい、さまざまな局面で気にかけて貰うという育てられ方を自分がしていない限り、子どもにもそうしてあげなければならないということがわからないのではないかと思う。

意地になって子どもを引き取って離婚したものの、お金はないし、どう子育てをしていいのかもわからず、途方に暮れていたのではないかという感じがする。人間は、自分の経験を超えることを他人に施すことはできないのだ。むしろ恐ろしかったのは、インタビューのなかで「彩香をいかに愛していたのか」を切々と訴える容疑者の言葉は嘘であるように思えなかったことだ。主観のなかでは、子どもを愛しているつもりだったのではないかという気がする。

お金がないながらも七五三の衣装を着せて写真を撮ったり、「母親はこういうことをするんだろうな」ということを見よう見まねでやってみたりはする。でも本当に子どもを育てるということの意味はよくわからない。だからこそ、彩香ちゃんが亡くなったことによって、鈴香容疑者は、現実に裏切られることなく、安心して「母」として振舞うことができるようになったのではないかと思う。現実の子どもはときとしてうざったいこともあるが、そのようなこともなくなる。「子どもを亡くした母」としての役割、「母」の幻想を演じること。そのことによって、彩香ちゃんの生前、「きちんとしたよい母」ではなかったという自責の念も薄まるのではないか。白々しいほどに過剰なまでの「母」のイメージを演じることで、まさに自分が本当に「母」になったような気持ちに、生まれて初めてなれたのではないかと憶測してしまう。そして、豪憲君を殺すことによって、「母」としての自分が確認できるように思われたのではないかと憶測してしまう。

いや、本当に勝手な憶測なのだけれども。子どもは親を選べないし、亡くなった彩香ちゃんや豪憲君には可哀想な事件である。現代日本のさまざまな意味での貧困と無知が折り重なったようにして引き起こされた事件に、悲惨だなぁという気持ちが禁じえない。


努力すれば報われるか?

2006-05-16 00:17:27 | 社会問題
昨日は、スケートのジャパンオープンを振ってまで、NHKスペシャル、小泉政権の5年を問うを観たけれど、正直にいえば、あまり面白くなかった。地方と中央の格差がどのように生じているのか、原理的には明らかにされていないかったので。今日は、討論だったが、一番伝わったのは視聴者のファックスが読まれるときの竹中大臣の表情で、…この人は、確信犯なんだなぁと(当たり前だが)。

にしても、最近は、「格差」がキーワードになってきているけれど、改革(経済成長)か格差かっていう問題設定自体が間違っていると思う。改革こそが格差を生んでいるのは間違いないけれども、現在のような単純労働力を使い捨てるような経済成長のあり方は、長期的には経済の破綻をもたらすのは、必至だと思う。単純労働力では、発展途上国にはかなわないのだから。最低限の保障をしないで、将来、どうやって治安や税制、医療制度を維持していくのだろう。年金をかけてない層は、将来的には確実に生活保護世帯になる。今は企業に負担でも、年金、保険のない雇用を拡大することは問題を先送りすることになる。日本では格差を覆い隠す、人種の問題は、アメリカのようには、今はないのだし。

…あまり沢山日記に書き始めると、何だか満足してしまって、論文にしようという気持ちを忘れてしまうので、書き過ぎないようにしよう。

『論座』で国立大学の学長アンケートで、独立行政法人化をどう評価するかというアンケートがあって、概ねポジティヴに評価されていたので、少々驚いた。が、ネガティヴに評価すれば、自分の大学が、「改革」についていっていないことになるので、自分の大学のネガティヴキャンペーンをするわけはなく、当たり前か。そんななかで、ネガティヴに評価している大学は、むしろ誠実だといえると思う。記述になると、医学部や理系をもたない小規模大学は、とても苦戦しているというのがわかる。文系には辛いトレンドだ。運営交付金を毎年削減していって、大学が経営できるのか(授業料は、値上げにつぐ値上げだし)。他の大学は、5パーセントの純減をどうやって、達成するつもりなのだろうか? 文系のようにほとんど人件費が多くを占めるところで、人員を削減するのは、なかなか困難だと思うけれども。

大学や教育に携わっていると、格差がまさに教育を通じて、拡大されるのを目の当たりにすることになる。それは本当に辛いことだ。せめて、きちんとした基礎的な教育を施した人材を輩出することにすることぐらいが、良心の呵責に耐えることである。あーあ。最近は自分にできる範囲のことを、きちんとやっていくことにしようと思う。ただ、やる気のない学生にやる気を起こさせることはできないので、それは仕方ないと思うことにもしている。(というわけで、授業でレジュメを切ってこない学生には、コメントも何もしないことにします。ない論文のプランをわたしが作ることはできないし、そこまでするのは僭越だし。ただ評価は、きちんと公平にします。って誰に向かっていっているんだか)。

話をNHKに戻すと、努力が報われる社会を、というフレーズが実に多かったけれど、わたしたちのような仕事は、努力が報われるのかなぁ? 努力して基礎的な作業を継続しなければ、途端に浦島太郎になってしまい、まともな業績は全く残せない。けれども、努力したからといって、凄い論文が書けるかといえば、それはそれでまた別の話なのが辛いところ。

水に落ちた犬

2006-02-07 14:15:55 | 社会問題
日本でニュースの報道のされ方を見ていると、つくづく日本社会は「変わりにくい社会」だと思う。つまり何が問題なのかが明らかにされず、「水に落ちた犬は打て」(魯迅は、犬は叩いたほうがいいっていったんだっけ?)とばかりに、一度問題が起きると徹底的に何もかもが批判されるが、結局何が問題だったのかはわからないまま、人々の興味が薄れると問題が終わってしまう。最近は社会的制裁が厳しいので、とにかく問題が発覚しないように、打たれないように気をつけるけれど、本当に問題を理解してひとは動いているようではないみたい。これでは何も解決されないのになぁと、東横インの問題をみていて思った。

西田社長の最初の会見は、いかにもまずかった。「年に1-2回しか使われない障害者用の施設を何で作らなきゃいけないの?」とばかりのあの口調。まぁアメリカだったら(といいたくないけど)考えられない。裁判制度が充実していたら、障害者が団結してクラスアクションを起こして、できるだけお金をむしりとって、それでNPOでも作っちゃえば、って感じの、絶対に許されない差別発言でしょう。

でもわたしが不思議なのは、一転して謝罪した西田社長に対して、焦点は「本当に反省しているのか」。声紋を分析したり、会見の瞬きの回数を数えたり。…どうでもいいじゃん、そんなこと。社長は豪邸なのに、ホテルは安普請って、豪邸を建てたこと自体は、個人の自由の範疇ではないか(まあそのお金は消費者からでてるわけですが)と思う。

社長が反省しているというのだったら、声の調子だの、お辞儀の角度だの、そんなことはどうでもよくて、これから先どういうように改修工事を進めていくのか、その計画の全貌を明らかにし、いつまでに達成するということを、社会に向かって約束するべきであると思う。そして、反省の意味をこめて、障害者団体にお金を寄付するだとか、財団を作るだとか、意味のあることをやって欲しいよ。

そしてわたしたちは、「利益を追求する」ということがどういうことなのか、公共性を剥ぎ落として経済合理性を追求している現在の風潮のなかでこの事件が起こったのだということを、もう一度考えるべきだと思う。そして何よりも、この騒ぎのなか、開店当日、100パーセント客室稼動したというのが信じられない。わたしだったら、絶対に泊まらない。東横インに「お宅に泊まるつもりだったけど、キャンセルします。つきましては代わりのホテルを紹介してください」くらいのことはいうべきだと思う。

東横イン、わたしも出張で泊まったことがあるけれど、予約したひとは「圧倒的に安い」といっていた。わたしは、部屋においてある宗教的な啓発本のようなものが好きではなくて、あんまり快適なホテルじゃないなぁと思った記憶があるくらい。

消費者は、安ければいいのか。不買運動などを通じて、できる限りのことをする義務があるのではないか。それはひとりひとりの自覚の問題だと思う。差別には加担しないという。そうでなければ、「東横インって数字がついてたのは1045店を目指すつもりだからだったんだぁ、安いね、今度利用しようか」という宣伝効果で終わってしまう。

社長は辞任しない、今まで自分のことを「高級な人間」だと思い誤っていたというのだったら、目に見える形で責任を果たすべきだとわたしは思う。どのような形の「社会貢献」でもいいから。




入試業務のミス

2006-01-23 23:29:10 | 社会問題
センター試験の監督ミスの発表

大学入試センターは22日、岡山市の山陽学園大試験場で21日に実施された国語試験で、終了のチャイムが鳴る前に監督者が試験を終了させ、試験時間が15秒短かった恐れがあると発表した。事前に監督者の時計合わせをしていたが、秒単位まで合わせていなかった可能性があるという。23日中に事実関係を確認し、確保されていないことが分かれば、28日に再試験を行う。

九州大学(福岡市)は22日、福岡市内の試験場で行われた大学入試センター試験の数学IIで、試験を監督した九大の男性教員の携帯電話が鳴ったと発表した。試験中に携帯電話の着信メロディーが2秒間鳴ったという。

どれだけ気をつけていても、ミスは起こるものだけれど、なかなか大変ですね…。わたしも気をつけよう…。