Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

司法の限界?

2006-07-05 14:41:46 | よしなしごと
少し前になるが、光市の母子殺害事件が差し戻された件について。見ていても本当に痛々しい事件だと思った。

もちろん、女性が生後1年に満たない子どもとともに殺害されるという事件自体も、相当痛ましいものではあるのだが、その後女性の夫が、すべての人生を事件の犯人を死刑にすることに捧げているのを見て、このひとの人生は、この痛ましい事件から離れることはないのだなぁという意味でも、本当に痛々しい感じがした。

残りの人生のすべてを、この事件のために捧げる、というのは、やろうと思っても簡単にできることではない。事実、この男性は、日々悲惨な事件の記憶が薄れそうになるのに抗って、懸命に事件を社会的にも、自分のなかでも風化させないために、最大限の努力をし、事件発見時の衝撃や憎しみを、懸命に思い出そうと努めているそうである。

憤りと憎しみに満ちた人生を余儀なくされるということは、辛いことだろうなぁ。

この犯人は18歳と少しであるという年齢と殺害人数が2人にも関わらず、その残虐性と反省の念が見られない点などが加味され、死刑になる公算が高まってきた。「極刑にして欲しい」という男性の願いは叶いそうである。

しかし、と思うのだが、わたしはこの男性は、この少年が死刑に処されたからといって救われるのだろうかと考えると、少し心配になってきてしまう。少なくともわたし自身は、何か理不尽なことが起こったときに、その加害者が死刑になったとしても、それでも救われない気がするからである。いや、もちろん、男性とわたしは同一人物ではないから、すっきりとして新しい人生を始められるというかもしれないけれど。

むしろ、今まで支えにしてきた、「犯人を極刑にしたい」という唯一の生きる支えを失って、呆然としないかと心配してしまう。それとも、ホッとするのだろうか。ホッとしたとしたら、それはもう憤りに満ちた人生を生きなくてもいいという事実に対する安堵なのではないだろうか。

何か理不尽な目に遭ってしまった際に、一番いいのは、もちろん、理不尽な出来事が生起する前の状態に戻ることができることである。当たり前か。しかしそれが不可能であった場合、ひとは何によって、救済されるのだろうか?

もちろん、司法はひとつの方法だろう。それを否定する気は毛頭ない。しかし、例え加害者が死刑になったとしても、それだけでひとは救われない気がする。金銭的解決も、お金を貰ったとしても、事件前の平和は戻ってこないと思う。金銭で人命を生き返らすことはできないのだから。

「反省して欲しい。自分がしでかした出来事がどれ程、残虐な行為だったのかを、自覚して欲しい」と思うのかも知れない。しかし司法の制度のなかで、反省の念が、減刑に通じることを思うと、「形式的な反省の念」をどこまで信じることができるのかと思う(現に加害少年は反省をしている「振りをして」いたのに、「本当は」反省していないのではないかという疑惑を、他人に出した手紙などから呼び込んだ)。

しかし、やはり最終的には、相手にことの重大さを重く受け止めてもらうことによってしか、ひとは救われないのではないかとも思わざるを得ない。自分自身が、相手を赦し、起こってしまった悲惨な事件を受け入れ、その事件とともに淡々と生きていこうとすれば、そのようなプロセスは不可欠なのではないか。相手が例え反省していなかったとしても、折り合いをつけていくことは可能かも知れないけれど。

とかいっても、まぁよくわかんないです。わたしは当事者ではないから、勝手なことはいくらでもいえるけれど。

戦後、近年まで、少年犯罪、凶悪犯罪は、減少の方向をたどってきたけれど、ただ加害者に対して「反省する」「被害者の立場に立って考えることのできるようにする」というようなことがどれくらい真剣に取り組まれてきたのかは、疑問ではあると思う。やはり家庭的にも恵まれず、級友に花火を下着に入れられるようないじめを受けてきた加害者が、そのようなことを学ぶ機会が充分に与えられてきたのだろうかと思うと、現在の司法のシステムは、そのようなことに対応していないのではないかと思う。

話はまったく変わるけれど、親告罪の犯罪に対して、わたしたちは果敢に立ち向かって、裁判などに訴え、「犠牲者」ではなく力強い「サバイバー」になることを求めがちである。もちろん、そのことによって力を貰い、前向きに生きていくことができれば、それはそれで素晴らしいことだと思う。しかし、わたしは、「つねに力強く前向きなサバイバー」であるという必要はないとも思うのだ。圧倒的に大きな力によって傷つけられた「被害者」としてその被害を受け止め、自分自身を癒していたとしても、ひとは必ず次のステップに歩き出すのではないかと思う。自己を哀れんだり、後ろ向きに考えたり、壊れやすく傷つきやすい小さな存在だと思ったりする権利も、人間はもっている。重要なことは、最終的に、本人が満足した充実した生を生きることなのではないか。

とりとめもなく、そんなことを考えた。





悲惨な事件だけれども

2006-07-04 13:39:09 | 社会問題
近年、マスコミを賑わせていた鈴香容疑者の事件も、ひと段落ついたようだ。娘の彩香ちゃんの死因もわからないし、狭い町で起こった殺人事件の真相は、藪に包まれたままだ。容疑者だと内心思っている鈴香容疑者に、事前にインタビューしている映像は、ある意味エゲツナイなぁとあまり正視できるものではなかった。

彩香ちゃんは鈴香容疑者に殺されたのかどうか。そうだとしてもありえるなぁと思うし、違ったとしても、そうかと納得するような気がする。

それにしても、彩香ちゃんの生前に「中絶のお金がなかった」、「産みたくなかった」とか「育てたくない」などと鈴香容疑者が語っていた発言ばかりが(殺人をしかねない根拠として)クローズアップされているけれど、それはどうなんだろうか。鈴香容疑者は、そういう発言をすること自体が、子どもに対する虐待にあたるということすら、理解していないような気がする。

やはりと思うしかないのだけれど、鈴香容疑者のうちはあまり裕福ではなく、常日頃から父親に暴力を受けていたという。そのような家庭で育った容疑者は、「子どもを可愛がる」ということがどういうことか自体を、すでに学んでいないのだと思う。つまりは、可愛がり方がわからないのではないかという気がする。

カップラーメンばかりを食べさせられていた、よく外に放り出されていた、その間は鈴香容疑者は売春したり、男のひとと付き合っていたみたい。このような断片的なエピソードも、鈴香容疑者にしてみれば、虐待している意識はなかったのではないか(もちろん頭の片隅には、疑念がよぎったとしても)という気すらする。きちんとした食事を毎食食べさせてもらい、さまざまな局面で気にかけて貰うという育てられ方を自分がしていない限り、子どもにもそうしてあげなければならないということがわからないのではないかと思う。

意地になって子どもを引き取って離婚したものの、お金はないし、どう子育てをしていいのかもわからず、途方に暮れていたのではないかという感じがする。人間は、自分の経験を超えることを他人に施すことはできないのだ。むしろ恐ろしかったのは、インタビューのなかで「彩香をいかに愛していたのか」を切々と訴える容疑者の言葉は嘘であるように思えなかったことだ。主観のなかでは、子どもを愛しているつもりだったのではないかという気がする。

お金がないながらも七五三の衣装を着せて写真を撮ったり、「母親はこういうことをするんだろうな」ということを見よう見まねでやってみたりはする。でも本当に子どもを育てるということの意味はよくわからない。だからこそ、彩香ちゃんが亡くなったことによって、鈴香容疑者は、現実に裏切られることなく、安心して「母」として振舞うことができるようになったのではないかと思う。現実の子どもはときとしてうざったいこともあるが、そのようなこともなくなる。「子どもを亡くした母」としての役割、「母」の幻想を演じること。そのことによって、彩香ちゃんの生前、「きちんとしたよい母」ではなかったという自責の念も薄まるのではないか。白々しいほどに過剰なまでの「母」のイメージを演じることで、まさに自分が本当に「母」になったような気持ちに、生まれて初めてなれたのではないかと憶測してしまう。そして、豪憲君を殺すことによって、「母」としての自分が確認できるように思われたのではないかと憶測してしまう。

いや、本当に勝手な憶測なのだけれども。子どもは親を選べないし、亡くなった彩香ちゃんや豪憲君には可哀想な事件である。現代日本のさまざまな意味での貧困と無知が折り重なったようにして引き起こされた事件に、悲惨だなぁという気持ちが禁じえない。