Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

大学教員は何もいうなっていわれても…。

2007-01-27 15:35:23 | よしなしごと
なんというのか、つね日頃から納得がいかないなぁと思うのは、男性が「大学教員のくせに、『女一般』の問題を語るな」という陰口をいうことです(あ、この場合の男性も大学教員です。なぜかこういう陰口って本人に聞こえてくるし、わたし自身も、他の女性大学教員のことをこう批判している場面に遭遇することがあるので、さもありなんと思う)。

フェミニズムのなかには、専門職批判という伝統が長くあって、自分自身が立身出世をして地位をあげるのではなく、「女」の問題を考えよう、というスタンスが強くありました。これならわかるんですけどね、専門知批判や、単なる平等主義女性解放論批判として。

しかし、何でフェミニストでもないひとに、「大学教員のくせに」っていわれて、わたしが大学教員だからって、その発言内容の妥当性が批判にさらされなければならないのか?と思うと「?」だと思っていたのですが、最近謎がとけたのです。

主婦は抑圧されている。ので、働いていると抑圧されていない、ということなんですね。なーんだ。不払い労働をしている無職のひとに対し、賃金を得ている働く女性は経済階級が上だから、抑圧されていない、むしろ主婦を働く女性が抑圧している、という階級的ピラミッドがあるらしいのです。…。

「働く女性VS主婦」ってそんなに自明な構図でしょうか? 妊娠を機にした離職率は7割ですから、働く女性もいつ、主婦になるかわからないし、主婦が働いたら「女性解放だ、万歳!」ってなわけではないでしょう。なんだか単純だな。そもそも、今専業主婦をやれるひとって、夫の給料が高いってことを意味しているのであって、それはそれで経済階層的には(世帯で見れば)高いことのほうが多いと考えるほうが妥当でしょう。

で、これに対して、さらによくある中産階級批判として、「低賃金で働かなければならない女性」「主婦になって保護されたり、暖かい家庭を作る権利を侵害されている女性」たちがいるのだ! っていうことで、「家庭」や「主婦」の価値を守って、なおかつ中産階級主婦を「恵まれているのに文句をいう抑圧者」として名づけるという論法があります。

こういうのってどうかと思うのだよねぇ…。「家庭」や「主婦」の価値を守りたいなら、そんな過酷な労働をしているひとたちを口実に使うのも倫理的にどうかと思うし、すべての専業主婦がそんなにぬくぬくと幸せかどうかだってわかんないじゃないですか、と思うのだけど。

こういう発想ってすべては経済や階級でしかモノゴトを計れない旧態依然とした数十年前のマルクス主義的発想のような気がします…。例えば性暴力ってそんなもんじゃない気がするんですよね。どんな階層に属していようが、例えば夜道で襲われるとして、そこで問題になるのは、まず「女」であること、そして「美人」「ブス」とか「年増」「ギャル」とか性的対象としての値踏みでしょう。だからこそ、振り向いたら「ブス」だったとか、「オカマ」だったとか、そういう一方的な評価を押し付ける漫画にみんなが笑えるのは、同様のコードを共有しているから、だと思うのですが…。むしろ専門職だけど(だから)女としての魅力はない、とか、いろいろな貶め方が女性の場合可能なのは、いくら働いていようが何だろうが、女性としての評価という尺度から逃れることが難しいこととにある、んじゃないかと思います。

それに、身分が高いからこそ象徴的に暴力の対象になることだってあるわけだし、家庭にいたって、社会に繋がっていないわけではないし、家庭内にだってDVがあるかもしれない。恵まれているからいいだろ、というようにはならないと思うんですが…。それに専門職の職場にだって(だからこそ?)、セクハラがないわけではない(これは対女性だけではなくて、本当にさまざまな意味での暴力は現代社会に蔓延しています)。

何よりも、専門職の女、さまざまな知の権力を(相対的に)行使することのできる女はマイノリティを代表しないので、何もいうなというのだったら、男性の教員だって同様に何もいえなくなるはずなんじゃないかと思うのですが…。勝手に女をカテゴリー化して、これは抑圧されている、とか、こいつは抑圧されていない、誰々はこういってもいい、とか分類しようとすることじたい、勝手に女を分類する権利をもっていると信じている家父長制的な振る舞いとしか思えない。そこはどう整合性がつくのか…謎です。

それに、働いていたって、専業主婦のいるシステムから、何かの恩恵に与っているわけじゃ、全然ないし。専業主婦がわたしにご飯を作ってくれているんだったら、それは感謝しますけど、わたしの利益になっているわけでもないし…。「大学教員は主婦じゃないから抑圧されていないくせに」というひとの奥さんは専業主婦ではないんだろうなぁ、きっと(と思いたい)。

こういうことをいわれ続けていると、本当に仕事を辞めたくなってきてしまいます…。疲れるよ。




奇跡を見た!

2007-01-12 12:29:49 | よしなしごと
アメリカの製品をネットで買って、日本に送ってもらった。以前は、アメリカの友人宅に送って受け取ってもらい、日本に来るひとに頼んでもってきてもらうなどという手間を掛させていたのだが、アメリカ内送料も日本に送る送料もそれほど違わないということで、チャレンジしてみたのだ(日本で輸入代行しているところをみつけたけれど、0をひとつつけて、10倍近くの値段で売っていたので、びっくりした。買うひとは、恐らくアメリカでの価格を知らないのだろうけど。自分で航空券買って行ったほうがましかも)。

あー、正直にいって、まったく期待していませんでした。あのアメリカの会社が、海外に製品を無事に送るなどという難易度の高い技をできるわけがない(アメリカ国内に送ることすらきちんとできないのに。この手のトラブルでは、もう何度も泣きをみてきた)。きっと数ヵ月後に着くんだろうなぁなどと思っていたら、なんと、10日足らずでUPSで到着した。本当にびっくりした。

手痛い関税を取られたが、それでも無事についたとは…。と思ったら、五月雨式に、またUPSから電話が掛かって来て、もうひとつ荷物が来ているという(電話が来るのは、荷物と引き換えに関税を貰うため)。フィラデルフィアになかった製品は、シカゴから出荷されたらしい。すべてを引き取って、伝票(?)をみてびっくりした。

シカゴから来た宛名表、
名前、間違っている。
住んでいる市区名、間違っている(郵便番号はあっていたけど)。
アパートの部屋番号、なくなっている。
電話番号、滅茶苦茶(日本の国番号がすでに84になっている)。

…フィラデルフィアから来た荷物がなかったら、絶対に単独では着かなかったよなぁ…。そうそう、これがアメリカの底力でした。こういう仕事をしてくれる、やる気も責任感もない(当然ですが)非正規雇用の低賃金労働者がたくさんいて、簡単な作業すら、まともに機能したことがない…。なんだかひどく懐かしい気分にさせられました。

到着したことだけでも、やっぱり奇跡だわっ。


富士見二丁目交響楽団シリーズ

2007-01-07 22:40:42 | 本を読んだ
ちょっと前までは、CDショップのクラシックコーナーは、スケート用のインストゥルメンタル曲一色だったんだけど(トリノオリンピックの後。「トゥーランドット」とか)、最近は、『のだめカンタービレ』一色。ドラマ化も好評のようで、広範な人気を博していて、サラリーマン向けの雑誌に「クラシックトリビア」なんかが特集されているのをみると、ちょっとびっくりしますね。どうもおじさん人気も高い模様。

なんですが、同じクラシックでも、学生に推薦されて、秋月こおの富士見二丁目交響楽団シリーズ(全30巻くらい?)を読んでみました。15年近くにわたるシリーズで後半はだらけて面白くないなどという感想もあったのですが、一気に読んでしまえば、むしろ後半の音楽論(?)的なところのほうがわたしには興味深く、BL風味のクラシック音楽小説、といった趣でした。

しかし。この懐かしい感じは何だろう…と思えば、今は無き(?)少女漫画の世界の小説版、なのだなぁと、しみじみと思いました(連載開始が1992年だとしても)。

ハンサムで、長身で、資産家の息子で、オペラ歌手かと思われるようなバリトンの美声の持ち主の天才指揮者桐ノ院圭という完全無欠のヒーロー役の設定自体が、なんだか懐かしい少女漫画。それに対してヒロイン(っつーか「受け」)の守村悠季は、新潟の農家の跡継ぎ(!)を振り切って東京に出てきた無名のバイオリニスト。身長は175はあるけれど、ひょろっとしていて、「ドンくさい眼鏡君」で、眼鏡を取ったら(替えたら)ハンサムって、70年代の少女漫画かぁと身悶えしてしまいました(いや、本当に面白かったんですよ)。

桐ノ院圭は、川べりを散歩していて、暗闇の中でバイオリンの練習をしていた悠季の音色を聞いて、「僕のバイオリンを見つけた!」と運命を感じます。これは、アレですね。真っ暗なスタジオのなかの練習で、周囲にみそっかすだといわれていたノンナの才能をひと目で見破ったミロノフ先生!っていう、『アラベスク』(山岸涼子)の世界ですね。

せっかくヒーローに見抜いてもらった才能なのに、ヒロインの悠季はウジウジしていて、付き合うようになっても、「どうせ僕なんか、才能も無いのに、釣り合わない。捨てられてもいいから、せめて傍にいさせて」とかなんとか、グジグジ悩む、「ドジでダメなわたし症候群」全開です。「君のすべてが好きなんだ。君には才能があるんだよ」というヒーローの力を借りて、どんどん成長していくヒロイン。古典的少女漫画の王道ですね。

しかし。ここでBLである必然性があるのは、ミロノフ先生は「ノンナに(表現の)女性性を教えることはできない」(←これを読んだときは、流石にちょっとなぁと思った記憶が)とかいって突き放したり指導したり、つねにメンターとして振る舞うのに対して、男同士であるがゆえに、「君はいつも僕のガーディアンでなくてもいいんだよ」と悠季は桐ノ院にいい渡します。まぁいってみれば、対等な二人のビルデゥングスロマンが成立していくところが、ミソ、なんでしょうね。

当初は「僕はホモじゃない。変態。社会の敵」と強いホモフォビアをみせる悠季なんですが、突き詰めてみると、彼の戸惑いはホモフォビアというよりも、自分がフェミナイズされることへの恐怖、のように見受けられる気がする。自分の肉体が欲望を覚えるたびに、「汚らしいオカマ」になってしまったとか、「自分の中の牝が」といったように自分を捉えるのは、ホモフォビアであるよりも強いミソジニーのほうを感じる(こういった前半に出てくる差別表現は、後半で世間のホモセクシュアルに対する抑圧にけなげに耐える二人の愛というかたちで、複線にならなくもないんだけど、差別表現であると自覚しているのだったら、もう少し補足してもいいような気もする。まぁ90年代前半だから仕方ないんだけど)。

悠季が内なるホモフォビアと闘うときにも、桐ノ院の男らしい身体は美しくて大丈夫なのだけれど、自分の貧相な身体、欲望を汚らしいと思う、っていうのは、ホモフォビアとミソジニーがそのようなかたちで結びついていることのしょうざなのかも知れないけれど…。

ふたりは「結婚」したり、悠希は甲斐甲斐しく食事の支度をしたり、まぁ生活感溢れる生活を楽しむのですが(これは結婚に夢をもっている女の子へアピールするBLなのかなぁ? せっかくのBLなんだから、外食でもして、あんまり生活臭ないほうが楽しいんじゃないかと、わたしなんかは思ってしまうのですが)、やはりなぞられているのは男女の排他的なラブラブの結婚生活です。悠季を慕う男の子空也ちゃんに、食事の支度をしてくれるから「マミー」と呼ばれたりして(『ツーリングエクスプレス』でシャルルが「ムッター(ドイツ語でお母さん)」と呼ばれていたのを彷彿とさせますが)、ゲイでありながらも擬似的な「家族」(いってみれば、二人が大切にする交響楽団もアットホームな擬似家族的関係です)を作り上げていく。

何はともあれ、面白かったです。何よりも、「真剣に愛し合う二人の純愛」が、傍目にはコメディの域にまで昇華されていることが、物語に軽やかさをもたらしています。とくに真面目な桐ノ院のメロメロぶりが、笑える、笑える。本人たちは苦しんで咽び泣いてるのに、悪いなぁと思いつつ、本人の苦悩が他人の娯楽、という不条理さが結構胸を打ちます。とくに有名な最初の強姦シーンで、なぜか大音量でワーグナーを掛けるあたりは、切羽詰った桐ノ院と苦しんでいる(快楽に喘いでいる?)悠季には悪いなぁと思いながらも、ここまで笑わせてもらったラブシーンは初めてでした。

まぁロマンティックラブイデオロギーに忠実なBL小説なんですが、そういえば少女漫画の『のだめカンタービレ』では、ロマンティックラブイデオロギーは、結構とっくに死んでますね。追い掛け回していた先輩がせっかく自分からキスしてくれたクライマックスシーンで、ピアノに思い悩むのだめは「今それどころじゃないんでちゅよー!!!」と絶叫して怒る、あたりは爆笑でした。そこまでは面白かったんだけど、最近は、ちょっとだれてるなぁと残念。



謹賀新年

2007-01-05 01:09:06 | よしなしごと
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
本当に、何というか、日本社会が悪いほうに改編されていくのが、少しでも止まるといいなぁと願わざるを得ません。皆様にとってもよい一年になりますように。