Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

大学は尊敬されている?

2006-01-20 10:48:14 | よしなしごと
この間、よその大学の先生たちとフランクに話していて、「今の大学は大変だ」という話になったのだけれども、「大学の先生に対しても世間の評価は厳しいし」っていったら、その場にいるほとんどの先生たちに(わたしより年配)「いや、大学の先生は尊敬されていると思うけど」っていわれて、リアリティの違いに少し驚いた。どうでしょうかね?

わたしがさまざまな事例を取り上げたら、何だかわたしが(相対的に)若くて、社会学という分野だから誰でも一言あって専門家として尊敬されにくいから、っていうまとめにされて、少々不満。まぁそれもあるかも知れないけど、それだけじゃないと思う。わたしが今、学生だったら、大学が何を提供してくれるのかって、やっぱり問いかけると思うし、実際にすでにそうなっていると思うのだけれど。のんびりとした大学の春は終わったのだと自覚したほうがいい。

国立大学だって、授業料は年間50万円以上するし、独立行政法人になってから、また上がったし、裕福な家庭だったら何ともないお金だけど、普通のサラリーマンにとっては、やっぱりかなりの金額だと思うんだよね。それに下宿代まで入れたら、年間150-200万円としても、相当の負担じゃないのかなぁ?(うちの大学の学生は、つつましく大学の付近に住んで、自転車で通っている。住所をみると9割近くがそうなので、びっくりする…。東京の大学生活とは程遠い真面目な暮らしだよね。偉すぎ)。そうしたら、今更だけど、この大学から何を得られるのかって考えないかなぁ? 無条件に学問や先生を尊敬なんてできない、と思う。もう世間は収益に基づいて大学を判断している。

また大学に収益を求めるようになれば、ここまで雇用が悪化しているなかで、大学の教員が相対的に恵まれていると思われるのは、当然のことだとは思う。わたしは教育は社会の基本だと思うから、初等・中等教育の教員の給料が切り下げられ、研修という名で長期休暇は削られて職員室に漫然と待機することを求められる現状で、どれだけの優秀な教員が確保され、モティベーションを持ち続けることができるのだろうと考えると、暗澹たる気分になるけれど。こうしたなかで、大学教員に対する眼差しも、厳しいものにやっぱりならざるを得ない。あなたたちは社会の役にも立たないことをして、呑気なものね、って確実に思われていると思う。こう考えるわたしが、自虐的なんでしょうかね?
 
わたし自身は、大学には、大学独自の価値に基づいた教育機能が必要だと思っているし、せめてアメリカ並みに学部は教養大学化してなんとか大学としての最低限の教育機能を守りたいという気持ちはあるけれど、わたしの切羽詰った危機感は、どの教員でも持っている訳ではなく、温度差はあるのだなぁ…と思った。と同時に、世間の大学批判のベースにあるものは、理解できると、残念ながら思ってしまった。

質のよい教育を提供していくには、わたしたち教員にゆとりが必要だなぁとも思う。卒業論文の指導も、ひとりひとり個別に時間をかけれたら、かなりましになると思うのに、そんな時間はとても取れない。結果、自分から来る学生には、なんとか時間をやりくりして指導をするものの、来ない学生にまで、追いかけて行くことはとてもできない(しなくてもいいのかも知れないけれど)。暇な時間には、論文を読んだり書いたりして、研鑽を積まなくてはならないと思うものの、週末になったら、寝るだけで精一杯。自分が磨耗してしまうときには、心の余裕もなくなっていくのを感じる。できるだけ、前向きになろうと思っているけれど。

わたしはペシミストなのかなぁ?