なんというのか、つね日頃から納得がいかないなぁと思うのは、男性が「大学教員のくせに、『女一般』の問題を語るな」という陰口をいうことです(あ、この場合の男性も大学教員です。なぜかこういう陰口って本人に聞こえてくるし、わたし自身も、他の女性大学教員のことをこう批判している場面に遭遇することがあるので、さもありなんと思う)。
フェミニズムのなかには、専門職批判という伝統が長くあって、自分自身が立身出世をして地位をあげるのではなく、「女」の問題を考えよう、というスタンスが強くありました。これならわかるんですけどね、専門知批判や、単なる平等主義女性解放論批判として。
しかし、何でフェミニストでもないひとに、「大学教員のくせに」っていわれて、わたしが大学教員だからって、その発言内容の妥当性が批判にさらされなければならないのか?と思うと「?」だと思っていたのですが、最近謎がとけたのです。
主婦は抑圧されている。ので、働いていると抑圧されていない、ということなんですね。なーんだ。不払い労働をしている無職のひとに対し、賃金を得ている働く女性は経済階級が上だから、抑圧されていない、むしろ主婦を働く女性が抑圧している、という階級的ピラミッドがあるらしいのです。…。
「働く女性VS主婦」ってそんなに自明な構図でしょうか? 妊娠を機にした離職率は7割ですから、働く女性もいつ、主婦になるかわからないし、主婦が働いたら「女性解放だ、万歳!」ってなわけではないでしょう。なんだか単純だな。そもそも、今専業主婦をやれるひとって、夫の給料が高いってことを意味しているのであって、それはそれで経済階層的には(世帯で見れば)高いことのほうが多いと考えるほうが妥当でしょう。
で、これに対して、さらによくある中産階級批判として、「低賃金で働かなければならない女性」「主婦になって保護されたり、暖かい家庭を作る権利を侵害されている女性」たちがいるのだ! っていうことで、「家庭」や「主婦」の価値を守って、なおかつ中産階級主婦を「恵まれているのに文句をいう抑圧者」として名づけるという論法があります。
こういうのってどうかと思うのだよねぇ…。「家庭」や「主婦」の価値を守りたいなら、そんな過酷な労働をしているひとたちを口実に使うのも倫理的にどうかと思うし、すべての専業主婦がそんなにぬくぬくと幸せかどうかだってわかんないじゃないですか、と思うのだけど。
こういう発想ってすべては経済や階級でしかモノゴトを計れない旧態依然とした数十年前のマルクス主義的発想のような気がします…。例えば性暴力ってそんなもんじゃない気がするんですよね。どんな階層に属していようが、例えば夜道で襲われるとして、そこで問題になるのは、まず「女」であること、そして「美人」「ブス」とか「年増」「ギャル」とか性的対象としての値踏みでしょう。だからこそ、振り向いたら「ブス」だったとか、「オカマ」だったとか、そういう一方的な評価を押し付ける漫画にみんなが笑えるのは、同様のコードを共有しているから、だと思うのですが…。むしろ専門職だけど(だから)女としての魅力はない、とか、いろいろな貶め方が女性の場合可能なのは、いくら働いていようが何だろうが、女性としての評価という尺度から逃れることが難しいこととにある、んじゃないかと思います。
それに、身分が高いからこそ象徴的に暴力の対象になることだってあるわけだし、家庭にいたって、社会に繋がっていないわけではないし、家庭内にだってDVがあるかもしれない。恵まれているからいいだろ、というようにはならないと思うんですが…。それに専門職の職場にだって(だからこそ?)、セクハラがないわけではない(これは対女性だけではなくて、本当にさまざまな意味での暴力は現代社会に蔓延しています)。
何よりも、専門職の女、さまざまな知の権力を(相対的に)行使することのできる女はマイノリティを代表しないので、何もいうなというのだったら、男性の教員だって同様に何もいえなくなるはずなんじゃないかと思うのですが…。勝手に女をカテゴリー化して、これは抑圧されている、とか、こいつは抑圧されていない、誰々はこういってもいい、とか分類しようとすることじたい、勝手に女を分類する権利をもっていると信じている家父長制的な振る舞いとしか思えない。そこはどう整合性がつくのか…謎です。
それに、働いていたって、専業主婦のいるシステムから、何かの恩恵に与っているわけじゃ、全然ないし。専業主婦がわたしにご飯を作ってくれているんだったら、それは感謝しますけど、わたしの利益になっているわけでもないし…。「大学教員は主婦じゃないから抑圧されていないくせに」というひとの奥さんは専業主婦ではないんだろうなぁ、きっと(と思いたい)。
こういうことをいわれ続けていると、本当に仕事を辞めたくなってきてしまいます…。疲れるよ。
フェミニズムのなかには、専門職批判という伝統が長くあって、自分自身が立身出世をして地位をあげるのではなく、「女」の問題を考えよう、というスタンスが強くありました。これならわかるんですけどね、専門知批判や、単なる平等主義女性解放論批判として。
しかし、何でフェミニストでもないひとに、「大学教員のくせに」っていわれて、わたしが大学教員だからって、その発言内容の妥当性が批判にさらされなければならないのか?と思うと「?」だと思っていたのですが、最近謎がとけたのです。
主婦は抑圧されている。ので、働いていると抑圧されていない、ということなんですね。なーんだ。不払い労働をしている無職のひとに対し、賃金を得ている働く女性は経済階級が上だから、抑圧されていない、むしろ主婦を働く女性が抑圧している、という階級的ピラミッドがあるらしいのです。…。
「働く女性VS主婦」ってそんなに自明な構図でしょうか? 妊娠を機にした離職率は7割ですから、働く女性もいつ、主婦になるかわからないし、主婦が働いたら「女性解放だ、万歳!」ってなわけではないでしょう。なんだか単純だな。そもそも、今専業主婦をやれるひとって、夫の給料が高いってことを意味しているのであって、それはそれで経済階層的には(世帯で見れば)高いことのほうが多いと考えるほうが妥当でしょう。
で、これに対して、さらによくある中産階級批判として、「低賃金で働かなければならない女性」「主婦になって保護されたり、暖かい家庭を作る権利を侵害されている女性」たちがいるのだ! っていうことで、「家庭」や「主婦」の価値を守って、なおかつ中産階級主婦を「恵まれているのに文句をいう抑圧者」として名づけるという論法があります。
こういうのってどうかと思うのだよねぇ…。「家庭」や「主婦」の価値を守りたいなら、そんな過酷な労働をしているひとたちを口実に使うのも倫理的にどうかと思うし、すべての専業主婦がそんなにぬくぬくと幸せかどうかだってわかんないじゃないですか、と思うのだけど。
こういう発想ってすべては経済や階級でしかモノゴトを計れない旧態依然とした数十年前のマルクス主義的発想のような気がします…。例えば性暴力ってそんなもんじゃない気がするんですよね。どんな階層に属していようが、例えば夜道で襲われるとして、そこで問題になるのは、まず「女」であること、そして「美人」「ブス」とか「年増」「ギャル」とか性的対象としての値踏みでしょう。だからこそ、振り向いたら「ブス」だったとか、「オカマ」だったとか、そういう一方的な評価を押し付ける漫画にみんなが笑えるのは、同様のコードを共有しているから、だと思うのですが…。むしろ専門職だけど(だから)女としての魅力はない、とか、いろいろな貶め方が女性の場合可能なのは、いくら働いていようが何だろうが、女性としての評価という尺度から逃れることが難しいこととにある、んじゃないかと思います。
それに、身分が高いからこそ象徴的に暴力の対象になることだってあるわけだし、家庭にいたって、社会に繋がっていないわけではないし、家庭内にだってDVがあるかもしれない。恵まれているからいいだろ、というようにはならないと思うんですが…。それに専門職の職場にだって(だからこそ?)、セクハラがないわけではない(これは対女性だけではなくて、本当にさまざまな意味での暴力は現代社会に蔓延しています)。
何よりも、専門職の女、さまざまな知の権力を(相対的に)行使することのできる女はマイノリティを代表しないので、何もいうなというのだったら、男性の教員だって同様に何もいえなくなるはずなんじゃないかと思うのですが…。勝手に女をカテゴリー化して、これは抑圧されている、とか、こいつは抑圧されていない、誰々はこういってもいい、とか分類しようとすることじたい、勝手に女を分類する権利をもっていると信じている家父長制的な振る舞いとしか思えない。そこはどう整合性がつくのか…謎です。
それに、働いていたって、専業主婦のいるシステムから、何かの恩恵に与っているわけじゃ、全然ないし。専業主婦がわたしにご飯を作ってくれているんだったら、それは感謝しますけど、わたしの利益になっているわけでもないし…。「大学教員は主婦じゃないから抑圧されていないくせに」というひとの奥さんは専業主婦ではないんだろうなぁ、きっと(と思いたい)。
こういうことをいわれ続けていると、本当に仕事を辞めたくなってきてしまいます…。疲れるよ。
当事者にしか語れないんだったら、生きている人間は「死」については語れなくなってしまいますよね…。
わたしはむしろ、なんで「オンナの問題」にだけ「私小説的なもの」を求めるのか、それが不思議です。「マイノリティの問題」でもいいですけど…。それって一種のポルノグラフィックな視線だと思いますよ、正直にいって。
「女性大学教員は、女一般のことを語るな」って言う奴は、厳密な意味での私小説でも書いているのかな?
自分にも当てはまる、そこんところを見ていないわけだから、そう言う奴はロジカルではない。何らかの感情に影響されての発言です。たぶん醜い感情ね。
…そうなんでしょうかね? 本当だとしたら、最近の階級の再編成は、最低限の正義や公共性といった感覚まで見事に再編成してしまっているように思います(正義や不平等といった概念が心を打たなくなってきているのは本当だと思いますが)。こういう社会は嫌ですね。
階級の重要性は高まっていると思いますが、すべてを階級の問題に還元すること、もしくは、すべてを階級のメタファーで語ることは間違いであり、知的怠慢であるとも思います。階級とは独立のほかの問題があり得る、階級概念は万能ではないという基本のキを忘れたマルクス主義に対して、特に若い世代が嫌悪感を示すのは、理由のあることなんじゃないでしょうか? ネオリベラリズム反対を説くひとの一部の、保守的家族観、ジェンダー観などは、まだ保守のほうがましではないかと思うときがあります。
じゃあ、年度末コンパはパスタにしましょうか。
>人が人を恨まずに
では、やっぱりあのスパゲッティ屋さんに行きますか!
実際、大部分の収入が高い人は低い人をどうでもいいと思ってるし、低い人はそれを敏感に察知して反発してるからね。
残念ながらそれが世の現実なんだと思う。ユニセフ職員は超高給のくせに自分のサイフからはろくに金出さないで、人には募金してくださいだし。難民問題を研究してる人も学会で酒飲んでワハハ笑ってるのも現実。いつか日本も血を見るような社会にならねばいいが。人が人を恨まずに済むのが美しい国ですね。
負けないでください!
と言いたいところですが、こればかりは先生の自由意志で。
ファイトです。