なんでもない毎日。

それなりに楽しい日々。

長谷堂城

2008年09月26日 | 伊達な旅
長谷堂城も来年の大河ドラマを前に、天地人の幟がはためいていました。
が、米沢と違い、最上義光vs直江兼続となっており、その辺りはさすが最上氏のお膝元って感じでした。
山頂までは行きませんでしたが、八幡口には真新しい駐車場も完備されており、来年へ向けての準備に抜かりは無いようです。

慶長出羽合戦において伊達と上杉がグタグタな中、唯一最上は頑張った!ってイメージが私的にあります(笑)
長谷堂城は直接的には伊達関連史跡では無いのですが、ほらあの長谷堂城だし。
残念だけどここには風車は無いんだよ(苦笑)


来年の大河では最上さん大活躍だといいね~。
特に長谷堂城は最上さん的に見せ所だしね!
…無理だよね(涙)






資福寺跡

2008年09月25日 | 伊達な旅
資福寺は輝パパから招聘を受けて、虎哉和尚が住職となったお寺。
ここに儀山公(9代政宗)夫妻と、伊達輝宗、遠藤基信のお墓があります。

国道13号線から県道7号高畠川西線へ入ってしばらくすると、資福寺跡の看板があるのでそれに従って向かいます。
さらに少し行くと“資福寺跡50m”の看板があるので、車はその近くに路駐して徒歩で向かう事をオススメします。
うっかり車で向かおうとするとあっという間に通り過ぎてしまいます(苦笑)
なにせ50mですから。
個人宅の裏手にあるので、ちょっとドキドキしながらの墓参りでした。

輝パパのお墓のすぐ傍に、輝パパのお墓を守るような感じに基信のお墓がありました。
殿にとって基信が輝パパに殉死してしまったのって大きな痛手だったけど、でもそれだけ輝パパと基信の主従関係って強固だったんだなって、ここへ来て感じる事ができました。

夫婦と主従それぞれの墓の位置が良い距離感なんだな…。







↑儀山公の墓。




↑伊達輝宗公の墓。




↑遠藤基信の墓。


風が強かったせいで、手向けた線香が良く燃えること燃えること。
儀山公に手向けた線香は、瞬く間に灰と化しました…。





米沢城

2008年09月24日 | 伊達な旅
伊達政宗は米沢城で永禄10年8月3日(1567年9月5日)に生まれました。

米沢城で殿の痕跡は生誕の地の碑しか無いのですが、一応訪れてきました。
上杉神社へお参りをして、10数年ぶりに稽照殿へ行ったのですが、ここ建て増ししたんですね、以前より広くなってました。
そして兼続の有名な愛の前立ても飾られていたのですが、その脇に来年の大河の主人公との解説がなされていたのですが、
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に怖れられた男
ってあった…いつの間にやら信長まで加えられてる!(笑)
これを見て、来年の大河ドラマ「天地人」の兼続に対して“過ぎたるは猶及ばざるが如し”って言葉を送りたい気分になりました。
(あくまでも“「天地人」の”兼続に、ですよ。)
地元なんだから、もっと地に足をくっつけた紹介をすればいいのに。

米沢市内は大河バブル前夜って感じで、至る所に天地人の幟やポスターがありました。
来年は観光客もものすごいんだろうな。






成島八幡神社

2008年09月23日 | 伊達な旅
成島八幡神社
宝亀8年(777)の創立と伝えられる。
奈良時代光仁天皇の御代、蝦夷が乱をおこし、大伴駿河磨を援軍として派遣、宇佐神宮に念じて勝ったため、勅命を得て八幡神社を建立した。
大同2年(807)将軍坂上田村麻呂が戦勝を祈願し社殿を造営する。
永保元年(1081)源義家は社領を寄進し、以来長井氏、蒲生氏、伊達氏、上杉氏と歴代の藩主の崇敬をあつめた。
現在の拝殿は伊達宗達が永徳3年(1383)に造営したものであり、本殿は上杉氏4代綱勝公が順応3年(1664)に造営した。
仙台市の大崎八幡宮(国宝)は伊達政宗が成島八幡宮を分霊して創建した。

(案内板より)


片倉小十郎(景綱)は成島八幡神社の神職の息子さんで、最初は輝パパの小姓だったけど、遠藤基信が「この子は出来る子」と輝パパに推挙して、殿の近侍になったのだとか。
拝殿が1383年に造営されたって事は、もちろん改築や修理はされているでしょうけど、殿や小十郎もこの建物を見ているんだ、と思うと感慨深いです。






並松土手(舘山城跡)

2008年09月22日 | 伊達な旅
舘山城跡(一の坂)
天正15(1587)年時の米沢城主・伊達政宗は舘山に巨大な新城を築こうとした。
南北に堀をうがち、堤を築いたが、本丸築城までに至らず、天正19年岩出山に移封された。
この堤跡は並松土手と呼ばれている。

(案内看板より)

この並松土手、舘山の国道121号線沿いにあるのまでは調べられたのですが、具体的な場所が分からない。
仕方が無いので事前に米沢市の観光課へ問い合わせをして、説明+地図+画像をいただき、そのおかげで見つける事が出来ました。
事前に画像を見ていなかったら、完全に民家の石垣としか思わなかったわ(笑)
看板の設置されている場所は国道沿いで、駐車場も無く路駐も無理だったので、別な場所に遺されていたのを見てきました。
この付近、随所にこの堤跡が見られるそうです。
殿の遺物を自宅の石垣に出来るだなんて、ものすっごーく羨ましい!
舘山城が完成されていたら、どんなお城になったのでしょうね…。






↑案内板設置場所。ボタン式信号のすぐ脇。



↑写真を撮影した場所。御成山公園入り口付近で、国道121号から曲がるとすぐに見えてきます。



↑舘山城跡。舘山矢子町の小樽川と大樽川(鬼面川)の合流地点の山にあったと言われているそうです。現在は東北電力の施設がある場所。
ここが輝パパの隠居城なのかな?

遠山覚範寺跡

2008年09月21日 | 伊達な旅
遠山覚範禅寺跡
天正14(1586)年、伊達政宗の父・輝宗の菩提を弔うため、この地に造営した。
真東に米沢城、西北に輝宗の隠居した舘山城がよく望める適地である。
夏刈の資福寺から虎哉和尚を招いて開山とした。
輝宗に殉死した遠藤基信ら3人の牌所も境内に設けられた。
天正19年、政宗の移封に従って岩出山に移り、慶長年間、仙台の北山に移転し現在に至る。
米沢に残された堂宇は伊達氏のあとに米沢を支配した蒲生時代、取り壊されたか焼失したものと思われる。

(案内看板より)


行き方は、県道245号線にある西明寺の案内板をたどって山の方へ向かい、突き当たり(のように思える)の所で西明寺は左折するのですが、覚範寺跡へは真っ直ぐ舗装されていない道へ入り、両脇にリンゴ畑を見ながら少し登ると、行き止まりの場所に案内板があります。
駐車場は無いのですが、ちょっとしたスペースがある(行った時は堆肥の山があった)ので、そこへ車を停めました。











遠山覚範寺跡は遠山町の西明寺の付近、とまでは分かったのですが、現地へ行って良く分からず、西明寺の方に伺ってたどり着きました。
そのお尋ねした方が西明寺の住職さんで、遠山覚範寺保存会(のようなもの)の元会長さんとの事で、覚範寺の事や西明寺を整備した際の苦労話や、寺の周辺一帯から土器や鏃なんかが出土する話などを伺いました。
一応、兼続にも縁のある寺なので話を振ってみたのですが、それには喰い付いて来なかったの(笑)

西明寺もでしたが、覚範寺跡は高台にあって、米沢市内を見下ろせる景色の良い場所でした。



山形“伊達”ツアー

2008年09月20日 | 伊達な旅
本日は相方姉妹と友人と4人で、山形へ伊達ツアーに行ってきました!
多少道に迷ったりもしましたが、ほぼ予定通りに目的地を回ることが出来ました。
日帰りだったので早朝から夜遅くまで、寝不足でスイマーとの闘いでしたが、車内はとってもハイテンションで楽しかった
今回行った先以外でも、伊達関連史跡は結構山形にも残っているので、近いうちに再訪できたらいいな

喜多の墓・田村家墓所

2008年01月15日 | 伊達な旅
片倉家廟所の次に、喜多の墓と田村家の墓へ。

喜多の墓も113号線沿いに一応案内が立っているので、片倉家廟所の駐車場に設置してある看板で確認して、見落とさないように左側を注意して見てください。

喜多の墓は階段を登って、滝の観音の裏手にありました。
案内板と墓石が囲われているので、これが喜多の墓なんだなって分かりましたが、何も無かったら「この石は何だろう?」って思うだろうな...。
片倉喜多は、殿の乳母(養育係)であり、小十郎の異母姉であり、鬼庭(茂庭)綱元の異母姉でもある、すごい女性です。
喜多に関しての史料が残っていないようなのですが、後に愛姫の従兄弟・田村宗顕の息子の定広が名跡を嗣いだそうなので、功績は大きかったんだろうなと。


喜多の墓の脇の道をさらに進むと、広い道路(行き止まり)に出ます。
その道路を横切り、再度杉木立の中へと進んでいくと、田村家の墓所があります。
ここには愛姫の父・田村清顕と、田村定広の妻の阿菖蒲の父・真田信繁(幸村)の墓があります。
行ったのが夕方で、どれが誰の墓なのか分からず、1箇所の墓石の前に真田六連銭が入ったお菓子が供えられていたので、これが幸村の墓なのかなぁ?と半信半疑ながら、手を合わせてきました。
勿論、愛姫のパパのお墓にもね(これは多分真ん中だろうな、って)。

白石に田村家の墓所があり、さらにそこに真田幸村の墓があるなんて、今回殿にガッツリはまって色々調べるまで、全然知りませんでした。
愛姫の意向で片倉重長が宗顕を白石に呼び寄せるのに、どこまで殿が係わっていたのか、それとも全く愛姫の独断だったのか、その辺も気になったり。

因みに。
田村家墓所の写真は暗くてヤバ気な雰囲気になった為、お蔵入りにしました
11月末の夕方に墓参りなんて行くもんじゃないですね






私達は喜多の墓の入り口近くに路駐しちゃったのですが、





↑この行き止まり部分へ車を停めれば、ちょうど喜多の墓と田村家墓所の中間点になります。

片倉家廟所

2008年01月14日 | 伊達な旅
白石城から片倉家廟所へ。

国道113号線を走っていると左側に案内板が出るので、迷わずにたどり着けました。
片倉家廟所の手前には一般の墓地があるので、駐車場も完備されてます。
階段を登って、一般の墓地をぐるりと回ると、杉木立の間に片倉家廟所が見えてきます。

ここには初代から十代までの歴代片倉小十郎と、7代目の奥方が葬られてます。
因みに写真で手前に映ってるのが、二代・重長、その奥に映っているのが、初代・景綱の墓です。
十代のみ石碑ですが、他は全部阿弥陀仏像です。


ここへお参りに行けて満足していたので、うっかり傑山寺へ行くのを忘れていた事に、後ほど気づきました...バカッ





白石城

2008年01月13日 | 伊達な旅
当信寺を後にして、白石城へ向かいました。

ここの天守閣は白河の小峰城同様、木造建築という事で、内部は木の香りがしました。
出入り口は“耳センサー”付き自動ドアでした(笑)
お城の正面は仙台に向いているとあったのですが、どっちが正面なのか分からなかったです…。
この地に小十郎以下、歴代の片倉小十郎が居城していたのですね。


お城のある増岡公園内に、白石城歴史探訪ミュージアムという施設があります。
1Fで温麺の昼食を食べたりお土産を購入して、2Fの展示室を見学して(殿が小十郎に宛てた「俺が考えて決めたことなんだから、つべこべ言わずに白石を貰っときな!(超意訳)」って手紙の写しがあった )、3Fで「鬼小十郎帰るに及ばず」を見てきました。
いやぁ、謙さん若い!!
この3F、シアターと待合所があるのですが、その待合所にテレビが置かれていて、ビデオが繰り返し流されています。
内容は、「独眼竜政宗」を特別編集したもの。
えっと、“政宗と小十郎”と“秀吉と小十郎”と“小十郎と喜多”だったかな?
いやもう思わずガン見してきました。
ずーっと上映しているからでしょうね、所々テープが傷んでいて...愛されてるよね小十郎。
「鬼小十郎帰るに及ばず」も面白かったです。
大阪夏の陣の話で、阿梅ちゃんを連れて帰るエピソードも盛り込まれてます。
そして小十郎が宍戸錠...(笑)

ここでのオススメのお土産は、やっぱり小十郎パリパリ漬けです
あ、後、お城の隣のベニマルで購入した足軽まんじゅうも美味しかったです。