なんでもない毎日。

それなりに楽しい日々。

当信寺

2008年01月10日 | 伊達な旅
丸森町より白石市へ。
なぜか途中で道に迷い、白石に嫌われてるのかと思いました


まずは当信寺へ向かいました。
このお寺には、真田信繁(幸村)の遺児、阿梅と大八のお墓があります。
なぜ白石のこのお寺に真田さんの遺児のお墓が?って理由はお寺の説明文より。


真田阿梅・大八の墓
元和元年(1615年)大阪夏の陣のとき大阪方の名将・真田幸村
落城と自分の最後を覚悟し、智勇兼備を見込んだ敵将片倉重長
阿梅と穴山小助の娘の養育を託した。
重長は幸村の遺児、阿梅・阿菖蒲・おかね・大八たちを
白石城二の丸で密かに養育し、阿梅は重長の後妻に、
阿菖蒲は田村定広の妻に、おかねは早世、
大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り伊達家に召抱えられた。

阿梅と大八守信の墓はこの当信寺に、
阿菖蒲の墓は蔵元勝坂の田村家墓地にある。
片倉重長は、真田幸村夫妻の菩提を弔うため
大平森合に月心院を建立した。



私は今回、白石に行くのに下調べをしていて、この事を始めて知りました。
さらに、大阪夏の陣で伊達と真田が戦っていたのも、同じく今回始めて知りました。

因みに、阿菖蒲の夫である田村定広は、愛姫の従兄弟の田村宗顕の息子です。



ここ当信寺ではこの阿梅と大八の墓の他に、もう1つ説明版が設置されている墓が存在しました。
その墓に葬られている人は

白石老人

誰なのこの人?すっごく気になるよ!
説明板を読んでも、どこの誰で何をした人なのか、サッパリ分からないんだけど(笑)
ぶっちゃけ、阿梅と大八よりも、白石老人の話題で大盛り上がりでした
だって気になる~。







駐車場は、あるのかどうかも含めて分からなかったので、車通りも少なく路肩も広かったので、路駐しました。

初陣の地

2007年12月03日 | 伊達な旅
殿が初陣を果たしたのは天正9(1581)年の事。

梁川八幡神社より阿武隈川沿いを走る国道349号線を通り、宮城県の丸森町へ。
国道349号線から国道113号線へ入りしばらく走ると、道路脇に看板が立っています。





今回は行きませんでしたが、この近くに金山城址があります。
今は一面田んぼが広がるこの地で、伊達氏と相馬氏の攻防が繰り広げられ、そして殿が初陣を迎えたのですね。





梁川八幡神社

2007年11月28日 | 伊達な旅
梁川八幡神社
所在地:伊達郡梁川町大字八幡
戦国時代、阿武隈川に沿った中通り地方は「仙道」と呼ばれていました。
この仙道を舞台に勢力拡大を狙っていたのが、天下を狙う東北の雄としてその名を轟かせた伊達政宗です。
政宗が初陣を飾ったのは16歳の時。
梁川町の北のはずれにある森には、天正10年(1582年)4月、政宗が父輝宗とともに戦勝を祈願した、伊達家の氏神である梁川八幡神社があります。
梁川八幡神社は伊達66郷の総社で、かつて流鏑馬の神事も行われていたと言われます。
梁川城を鶴が岡、八幡神社を亀が岡と呼び、梁川城から梁川八幡神社までの参道沿いには、延々と続く松並木があったとされています。
やがて、伊達政宗が仙台城を築いた際、ご神体も仙台城下に移され、「亀岡八幡宮」となりました。
-「阿武隈川の歴史と文化」より-






この地で殿が初陣に際して戦勝祈願をしたのだそう。





さらにここで愛姫受け渡しも行われたのだとか。
(...でもこれって史実?)

殿や愛姫はこの地においてどんな事を思っていたのかな...などと往時を偲んでみる。






駐車場は龍宝寺の前、鐘楼のある所にスペースがありました。
たぶんここに停めてOKだと思います。

Let's Party!

2007年11月24日 | 伊達な旅
相方姉妹と仙台へ行ってきました。
墓・城跡・神社・寺・神社・寺。
いやあ楽しかった!

帰り道、白石に差し掛かったら、白石城がライトアップされているのが見られました。
なんだか得した気分。

次はどこへ行こうかな?

伊東肥前の碑

2007年11月12日 | 伊達な旅
俗に仙台佛と言われ天正16年(西暦1588年)7月
伊達・佐竹両軍が窪田城(久保田城)で相対した際
伊達政宗の臣伊東肥前重信は手兵30人余騎と共に
伊達政宗を救い戦死したので、伊達家ではその後
参勤交代の途上必ずここに籠をとめて香花を手向けたと言われる。

郡山観光協会


午前中、風が少し強かったけど、天気が良かったのでちょっとお出かけ。
以前から「伊東肥前の碑」があるのは知っていたけど、肥前という人が何をした人なのか知らなかったのです。
それが今回、永岡慶之助の「伊達政宗」を読んで、何をした人なのかを知り、さらに歴代の仙台藩主が必ず香華を手向けたってエピソードを知り、これは行かなくっちゃ!って漸く思い立った次第。

場所は郡山市富久山町久保田にある日吉神社の境内。
ここはこの郡山合戦で伊達軍が陣を構えたと言われている場所なのだそう。
永岡版の小説では“山王山”って言ってる場所に当たるのかな?
この郡山合戦、殿にとっては人取橋合戦に続いて「今度こそ死ぬな 」って思った戦い。
なんせ伊達軍600に対して、佐竹・芦名連合軍4000!
戦闘が始まれば当然の事ながら伊達軍は圧されっぱなしで、とうとう殿も砦を出る程にまで負け戦になりかけていたとか。
でも、殿の運レベルってすごかったんでしょうね、人取橋の合戦と同様になぜか敵が引き上げてしまったと。
そして、伊東肥前はこの戦いで討ち死にしてしまったのですね。

殿を助けてくれてありがとうございました!って、碑に手を合わせてまいりました。


相方の情報では、他の小説においては殿と小十郎が肥前を見捨てた事になってるのもあるようですが...





伊東肥前の碑(日吉神社境内)