なんでもない毎日。

それなりに楽しい日々。

太閤の道(2)

2009年10月20日 | 伊達な旅
勢至堂峠、頂上にはこんなものが存在します。



土塁。
関ヶ原合戦の際、上杉が徳川勢を迎え撃つのに、景勝の本陣・堂谷坂陣を築いたそうなのですが、その際に勢至堂峠にも陣地を築いた跡のようです。
(というより堂谷坂陣から勢至堂峠まで街道部分を含めて一体の史跡なのかな?)
ちなみに幕末の戊辰戦争においても使用されたそうです。
この付近の峠の土塁跡って戦国時代に築かれて、戊辰戦争で再利用されてるの多いよね。
堂谷坂陣跡は国道294号を須賀川側からトンネルへ向かって走ってると、道の両脇に「天地人」の旗が立っていて"堂谷坂陣跡"って看板も設置されているので、今しばらくの間は迷わずに訪れる事が出来るかと思います。
うっかりスピードの出し過ぎで通り過ぎる可能性はあるけど(笑)
ちなみに私達は伊達関連史跡ではないので華麗にスルー。







結構立派な土塁だったけど、写真に撮るとイマイチなんだよね…。



あ、土塁の説明杭は朽ち果てようとしておりました。
説明が読みたかった。




峠より須賀川方面を望む。
こちらから登ったのではないので、道が分かりにくかった…



峠より郡山方面を望む。
こっちは道が分かるでしょ


そして今回のベストショット



↑クリックすると少し大きめの画像が見られます。

道らしい雰囲気が一番感じられた場所。
ここすっごく良かった!
写真を見返してはウットリしている腐女子がここに一人…。

この太閤の道、峠から両側どちらも500メートル程、道が残っているようです。
須賀川側には道を下ると殿様清水があるのです。
が、私達は元来た道を引き返しました。
これが正解だった。




草ボーボーの階段(笑)



勢至堂トンネルと国道294号線。
この位置からトンネルって見たこと無いから、ちょっと新鮮だった。

実は下ってから気付いたのですが、この草ボーボーの階段を登らずとも、太閤の道へ行ける所を発見。
階段のある方とはトンネルを挟んで反対側に旧道が残されてます。
ここを少し歩けば、太閤の道へ繋がる登り道(…というか太閤道そのものなんだと思う)が現れます。
こっちの道は階段ほど草まみれではなかったです。
チッ…。
超草まみれの階段を登りきると、左手の登りが峠への道、右手の下りが旧道への道となってました。

太閤の道(1)

2009年10月19日 | 伊達な旅
日曜日、久しぶりに相方と"殿の時間差追っかけ"に行ってきました。
場所は「太閤の道」こと勢至堂峠。





豊臣秀吉が天正18年(1890)に小田原で北条氏を滅ぼした後、奥州仕置をする為に白河から会津へ向かうのに通ったのが白河街道。
その白河街道に勢至堂峠があります。
この時に街道整備を命じられたのが伊達政宗。
秀吉は白河⇒長沼⇒勢至堂峠⇒黒森峠⇒背炙峠を越えて会津へ入ったのだそう。
1ヶ月程の突貫工事で勢至堂峠と黒森峠は何とか整備が間に合ったけど、滝沢峠の整備が間に合わず、背炙山を越えたのだそうです。
背炙山の頂上付近には"関白平"って呼ばれている景色の良い場所がありますよね。
蒲生氏郷も会津入りの際に、このルートを通っているようです。
この勢至堂峠も黒森峠も現在はトンネルが出来ているので快適に通過できますが、黒森峠の旧道を何度か通った事があるのですが、あの頂上の岩壁を切り開くのは難儀したでしょうね…。


まず須賀川市方面から勢至堂峠へ。
旧道が通れればと思ったのですが、旧道は通行止めとなっておりました。
そこでトンネルを抜けて郡山市側へ。
トンネルの脇に太閤の道へ向かう階段があるとネットで見たので、その階段を探したのですが、郡山市側に階段がありました!




階段?!
超草に覆われてますが…
一瞬怯みましたが、私達"殿の時間差追っかけ"隊、これしきの困難では引き下がりませんとも!
と、果敢に草ボーボーで足元が全然見えない階段を登りました。
階段を登った場所はちゃんと下草も刈られている山道となってましたが、登るに従ってまた道が草で覆われてしまい。
本当にこの道でいいのかな…って不安になった頃に道標を発見。



頂上の史跡まであと150メートルって!



道標付近の道はこんな具合。
たまに下草を刈ったり、人が通ったりしてるんだろうなって感じ。



道にごろりとあった石碑の一部?
道中の安全を祈った仏様かなぁとか思ったんだけど、どうだろう。



そして勢至堂峠に到着!
頂上付近はちょっとした空間が広がってました。



頂上に立つ藩界表石。
平成7年に発見されたそうです。

新編会津風土記 文化六年(一八〇九)
道ノ右ニ表石ヲ立テ是より西北会津領ト刻メリ
又道ノ左ニ茶屋アリ
此峠ハ安積 岩瀬 二郡ニ跨リ絶頂ヲ限トス
守山領勢至堂村ニ跨ル坂ナレハ勢至堂峠と称ス

(説明杭より)
ちなみにこの表石を立てたのは、元禄12年(1699)10月22日ともありました。


手元にある歴史春秋社「新版 上 会津の峠」の勢至堂峠の説明だと、天文14年(1545)に蘆名盛氏がこの道を作る前には、人一人がやっと通れる狭い道だったとか。
それを天正18年(1890)に伊達政宗が豊臣秀吉の命により、幅三間(約5メートルくらい)の街道に整備したのだそう。
会津、新発田、村上の藩主の参勤交代の路であり、江戸送り廻米が年間3万~5万俵も通過していたそうです。
重要な街道だったんですね。

寶華殿

2009年09月07日 | 伊達な旅
9月6日に松島の瑞巌寺へ行って来ました。
6月に行ったばかりなのですが、今回は平成21年9月から平成28年3月頃まで本堂の修理に伴い、修理中に普段は非公開の庫裡と寶華殿が特別公開となり、さらにその寶華殿が9月6日まで特別開扉をしているとの事で、急遽参拝しに向かいました。

陽徳院御霊屋(寶華殿)
陽徳院の背後の高台にある伊達政宗公の正室陽徳院田村氏愛姫(1568~1653)の墓堂で、万治3年(1660)孫の綱宗によって造営された。
宝形造、銅版葺、9尺(2.72m)四方の周囲に匂欄(手すり)つきの回廊を廻らし、正面に向拝と木階を備える。
内部は三方板壁で金箔を貼り、天井等は極彩色の花が描かれ、須弥壇に念持仏と政宗・愛姫夫妻の位牌が安置されている。

(瑞巌寺パンフレットより)

確か永岡慶之助さんの政宗小説の中で、この寶華殿を特別に拝観させてもらったって書かれている部分があって、いいな~うらやましいな~と思っていたので、この寶華殿が特別拝観となった事がホント嬉しくって!




パンフレットにも記載があるように、寶華殿は高台にあるので階段を登って向かいます。




階段を登りきると煌びやかな寶華殿が姿を現します。




夫妻の位牌と念持仏が安置されている内部が特別開扉で拝観できました。
位牌は大書院にてこれまた特別公開されていた政宗公・忠宗公の大位牌と同じく、両脇に迦陵頻伽がデザインされていました。
外側は平成18年から3年をかけて修復されたのですが、内側は創建当時のまま。
壁の金箔や梁の所の模様は確認出来ましたが、天井は位置的に見えませんでした。
壁にも何か絵のような物が描かれていたのではないかと思いますが、色が剥落してしまってか何が描かれているのかは分かりませんでした。
瑞鳳殿も外側しか拝観出来ませんが(開扉ってするのかな?)、きっと内部はこんなんだろうなと思いながら拝観しました。
巨大な仏壇だと思えばいいのかしら?
青龍殿に展示されている陽徳院像のパネルが飾られていました。




虎がいた




全体的に瑞鳳殿等と同じく黒と金のいかにも伊達な配色ですが、瑞鳳殿ほど派手じゃない、女性らしい造りとなってました。




扉は左右・内外同じデザインが施されてました。
一番上の花が薔薇のように見えたのが何の花だったのか気になりました。
ブドウと梅は分かったのですが、他の花も何なのか分からなかった…。













明治に解体された天麟院の御霊屋もこんな感じだったのでしょうか…。
永岡慶之助さんが小説内で大絶賛していたのが、実際に拝観して良く分かりました。
ここで愛姫は永久の眠りについているのですね。
念持仏と夫婦の位牌を拝む事が出来て、特別開扉期間中に訪れる事が出来て本当に良かったです。


この寶華殿は瑞巌寺本堂の修理が完了すると、また非公開となるそうなので、特別公開中に拝観される事をオススメします。
本堂に安置されている時には遠くからしか拝めない、大位牌とご本尊も間近で拝む事ができますので。

松島

2009年06月24日 | 伊達な旅
友人と2人でぷらり日帰りで松島へ行ってきました。
天気予報では晴れって言ってた(ような気がした)ので傘を持たずに行ったら、雨がパラパラと降ったり止んだり。
晴れ女の私にしてはめずらしい…と思ったのですが、でも外を歩いている時にはほとんど降られずに建物内にいる時に降られたので、ほとんどぬれる事なく暑くもなく。
強運?

高速バスと電車を利用して松島海岸駅に到着したのが10時頃。
海沿いをふらふらと歩きながら、とりあえずは瑞巌寺を目指しました。
本日6月24日は伊達政宗公毎年忌の法要があるのです。
10時半頃にはお寺に到着したのかな、ちょうど法要が始まりまして、太鼓が叩かれる中、お坊様が本堂へ来るのから見ていたのですが、来るわ来るわお坊様が30人くらい?
この大勢のお坊様が一斉に読経を唱え始めた瞬間、その迫力と荘厳さにブワッっと鳥肌が立ちました。
殿の法要があるって!ってだけで、どんな雰囲気なのかは全然知らずに訪れたのですが、こんな素晴らしい法要を拝む事が出来るとは思わず、とても感動しました。
伊達家18代目当主もいらっしゃってました。



瑞巌寺 本堂



瑞巌寺 庫裡

法要の後で本堂と宝物館を見学して、次に円通院へ向かいました。
円通院は政宗公の嫡孫・光宗公の菩提寺。
ここのお寺では数珠作り体験を行っているので、せっかくだからと数珠を作ってきました。
これが思った以上に熱中しちゃって、自分への良いお土産が出来ました。
数珠を作った後に敷地内の見学をしました。
光宗公の霊廟「三慧殿」がこぢんまりとした霊屋なのですが、厨子の扉の内側に薔薇と水仙が描かれていて、さらにダイヤ・ハート・スペード・クローバー・十字架も描かれていて。
この図柄のせいで霊廟が覆屋の中に秘匿され続けてきた為、創建当時の鮮やかな色彩が現在まで残っているのだそう。
てっきり修復しての色彩だと思ってたのでビックリでした。

円通院を後にして、次は天麟院へ向かいました。
ここは政宗公と愛姫の長女・五郎八姫の仮霊屋。



本来の霊屋は明治時代に取り壊されてしまったのだとか。
どんな霊屋だったんでしょうね…。
天麟院を後に、円通院・瑞巌寺・陽徳院(愛姫の廟所がある)を通り、お昼ご飯を食べに松島さかな市場へ向かいました。



松島カキバーガー!
これを食べに松島へ行ったのです!!
松島カキバーガーセット(カキバーガー+ドリンク+メカナゲット)を食べてきました。
想像していたほどカキの味はしなかった(笑)けど美味しかったです。
メカナゲット(メカジキ)も美味しかった。

食後に五大堂を見学したり、お土産を購入しながらプラプラと散策して、帰路に着きました。
今年の秋以降、瑞巌寺 本堂の修復工事に合わせて、普段は非公開の庫裏と愛姫の霊廟が公開されるので、また訪れようと思ってます。

豊景神社

2008年12月30日 | 伊達な旅
この豊景神社は、天正16年(1588)6月の伊達政宗vs佐竹・芦名連合軍による「郡山合戦」の兵火で社殿が焼失したのだそう。
焼失した時は阿武隈川沿いに集落があったようですが、その後はこの辺りに移転しているらしく、仙台と江戸を行き来する際にこの辺りを通ってるんじゃないかな?と勝手に伊達スポットにしている神社。
神社にあった由緒を見ると結構古い神社らしく、源頼家・義家の時代まで遡るみたい。
太々神楽が有名なようです。

地元史みたいのがあれば、この近辺の殿に縁のある場所がもっと分かるんだろうな…近くに図書館あるから調べてみようかな?





会社にあった熊手を納めに行く、という大義名分を掲げて仕事途中に訪れました。
忙しいのに余裕かましてたら、やはり仕事が終わらなかった…。

伊達宗勝の墓

2008年11月29日 | 伊達な旅
殿の末息子、伊達兵部くんのお墓が高知市の五台山にあります。
五台山内の道は一方通行なので、対向車を気にすることなく走行することが出来ます。
五台山へ入ってすぐに兵部くんのお墓の案内板があるのですが、それは無視をしてさらに上へと登っていきます。
展望台へ行く道と竹林寺への近道との分岐点に駐車場があり、そこに車を停めて公園管理事務所の脇にある“へんろ道”を歩いて墓へ向かいました。
ここにもちゃんと案内板がありまして、墓まで175mだったかな?距離も書いてありました。

伊達宗勝は伊達騒動の後に山内家預けとなり、そのまま土佐で亡くなりこの地に埋葬されてます。

でも私、伊達騒動を良く知らず、「樅の木は残った」も読んだ事が無くて。
船岡城址へは今年の春に訪れたのにね。
今回ここへ訪れる為の下調べをしていて、原田甲斐を斬った柴田外記が長宗我部元親の孫だって事を始めて知りました。
繋がるねぇ…。



高知旅行2日目(前)

2008年11月27日 | 伊達な旅


宿舎から見えた咸陽島、干潮時には歩いて渡れるそうなのですが、この日は見た感じ無理そうでした。
この日は宿毛市から宇和島市へ向かい、宇和島伊達家関連の施設を見学。
前日の足摺サニーロードもキレイに海が見える場所がありましたが、56号線もとてもキレイに海が見える場所があって、思わず歓声を上げてました。
途中脇道にそれると紫電改展示館があったんですよ、時間があれば立ち寄りたかったな。


まず最初の訪問地は和霊神社



和霊騒動で殺害された山家清兵衛が祭神、と言っても和霊騒動に関しての知識はほぼ皆無。
殿と秀宗君の親子関係の行き違いのとばっちりを受けた感じなのかな?
とりあえず1日無事に旅を出来ますようにとお参りしてきました。
この鳥居、石の鳥居としては日本一の大きさなんだとか。



和霊公園と神社前を流れている川の間の道路にPの標識があったので、ここに車を停めて大丈夫みたいでした。


次に向かったのが宇和島城



天守閣はちっちゃくて可愛かったです。
中の階段は以前訪れた松本城と同じく、まるで梯子を登っているかのような急なものでした。
手すりがないと怖くて登れない…そして下りはもっと怖い。
3層目からの眺めは素晴らしかったです。



宇和島湾も良く見えました。



駐車場は北登山口の前に1時間150円の有料駐車場があります。


宇和島城を後にして、伊達博物館へ。
訪れた時に博物館内に誰も居らず、貸し切り状態で見学することが出来ました。
殿と秀宗君の鎧が隣同士に並んで展示されてました。
今年の大河を見ていないので知らなかったのですが、宇和島伊達家8代目当主の伊達宗城さんは“幕末四賢侯”と称されたそうです。
同じ伊達家と言えど、仙台と宇和島、幕末頃には随分と違くなるもんだなと。
あ、竹に雀の家紋もね(笑)




次に天赦園へ向かいました。



藤の季節はさらにすばらしい光景なのでしょうね。
“天赦園”は殿が作った「酔余口号」という漢詩から採ったそうです。
馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
家紋の竹に雀にちなんで、いろんな種類の竹が植えられてました。
竹も種類が沢山あるんですね。



伊達博物館から向かうと、駐車場の場所が分かり難くて…。
56号線から入ると分かりやすいのかもです。


本当は天赦園の後に秀宗君の墓参りをしたかったのですが、時間切れで宇和島を後にしました。

伊達家のふる里ウォーキング

2008年10月05日 | 伊達な旅
阿武隈急行鉄道の全線開業20周年記念事業イベント・仙台/宮城DCイベントの『伊達家のふる里ウォーキング』に相方と友人の3人で参加。
梁川駅からやながわ希望の森公園までの約8km、伊達家ゆかりの地を廻りながらのウォーキングコースでした。






スタート・ゴール地点はもとより、コース途中でも何箇所にもこの仙台/宮城DCの幟が立ってました。
むすび丸かわいい~。



射箭神社
御八郎様と称される疱瘡の神様。
流行の時には臨時に厄除けの祈願が行われたといわれている。
何代目の伊達さんと関連あったんだっけっかな…案内板撮影忘れて不明(涙)
この後、伊達市梁川美術館で太田良平さんという方の彫刻作品を鑑賞。



古町観音堂
文明17年(1485)再建され、本尊は約20cmの小仏で行基の作と伝えられている。
12代伊達成宗建立の伝説がある。



岩地蔵
広瀬川の畔にある磨崖仏。
風化しているのと、対岸にあるのとで、何が彫ってあるのかは見えなかったです。



心字の池(梁川城本丸)
梁川小学校の校庭にありました。
伊達政宗に因む片葉の葦や片目の鯉の伝説があるのだとか。
殿も天正10年(1582)4月に、八幡神社参拝した後にここへ宿泊しているそうです。
庭園は伊達氏領有時代からの遺構、後ろにある石垣は江戸初期の須田氏時代の櫓跡。
ここは小学校・中学校・高校が隣り合ってあるのですが、梁川城本丸跡・東昌寺跡・金沢堀跡・岩地蔵の史跡がありました。





北三の丸跡
伊達氏時代には大手門として使用されてた、と案内板で見たような>おい。
ここ草刈りされてなくて、相方と友人は蚊に刺されてました(苦笑)



興国寺(須田長義墓)
須田さんって上杉氏の配下の人だそう。
上杉氏が会津へ転封された時、梁川も上杉氏の領地だったんですね。



天神社
ここには松前藩の家老蠣崎波響が献納した石灯籠があるそうです。



梁川亀岡八幡宮
ここは去年11月に1度訪れています。
伊達政宗初陣の際に戦勝祈願をした神社です。
神社の隣に龍寶寺と鐘楼があるのですが、この鐘楼の鐘を自由に撞いて良いとあったので、撞いてきました!



輪王寺跡
11代伊達持宗の祖母蘭庭禅尼の菩提寺、って事は9代伊達政宗の奥さんですね。
この輪王寺と東昌寺(4代伊達政依の菩提寺)と亀岡八幡宮は仙台に移されてます。



ゴール!
スタートから2時間かからないで到着。
昼食におにぎりと豚汁が振舞われました。
おにぎりのパックにむすび丸の大中小のシールが張ってあった(笑)



今回のスタッフはむすび丸のジャケットを羽織ってましたが、実は梁川町にはこんな素敵な法被があるんですよ。
確か青年会のだったかなぁ?
それが今年いっぱいでこの法被は終わりなんだそう…勿体無い。


春の日帰りバス旅行の際にこのイベントを知り、でも前日の4日には白石で鬼小十郎祭もあって、どちらへ行くかちょっと迷ったのですが、初志貫徹でウォーキングに参加しました。
城下町って車を利用するより、徒歩や自転車で回るのがベストなんだと良く分かるコースでした。
贅沢を言えば、見どころポイントに史跡の解説をしてくれる人が配置されてたならな…と。
案内板だけではちょっと分かり難い所もあったので。

殿が訪れた頃の梁川ってどんな町並みだったのかなと、遠い時代に思いを馳せた1日を過ごしました。

最上義光歴史館

2008年09月28日 | 伊達な旅
今回の山形“伊達”ツアーの最後の訪問地は最上義光歴史館です。
残念な事に鉄の指揮棒は展示していなかったのですが、三十八間金覆輪筋兜がロビーでお出迎え。
この兜は織田信長から義光が拝領したと伝えられ、慶長出羽合戦の際に受けた弾傷が残ってます。

殿からの書状も展示されてありました。
殿19歳の時、小手森城の合戦で勝利を収めた事を報告する内容だったのですが、この勢いで須賀川どころか関東まで手中にしてみせるぜ!的内容だったのですが、余程嬉しかったのか追伸が余白にちまっと書いてあったのが可愛かった~。
この頃からすでに二階堂さん家を手中にする気満々だったんだね殿。
そういや小手森城の戦いって撫で斬りの時のか…。

義光とお東の方はとても仲良し兄妹だったようで、お東の方へ宛てた手紙に自分の名前を「よしあき」ってひらがなで書いてあった、というのを見てちょっとほのぼのとしました。

義光は大変筆まめで字の上手な武将でした、ってあるけど、伯父と甥ってのも似るものなのかな。
文学的才能が豊かってのも…血は争えないって事?





このキャラクターがなんだかいい味だしてる。
音声ガイドと単眼鏡を無料で貸し出してくれる、良心的な博物館でした。





駐車場は館のすぐ側に有料のがあるのですが、霞城公園内に停めれば無料なので、余程お天気が悪い時意外はお城を散策しながら博物館へ向かうのをオススメします。

山形城跡

2008年09月27日 | 伊達な旅
山形城跡
延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼(最上家初代)が築城したと伝えられ、現在の城郭は11代城主最上義光(最盛期57万石)が築いたものが原型とされています。
本丸、二の丸、三の丸の3重の堀と土塁を持つ輪郭式の全国有数規模の平城で、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れたことから「霞ヶ城」とも呼ばれていました。
現在の二の丸の堀や石垣は、最上家改易後、鳥居忠政により大改修されたと伝えられています。

(パンフレットより)

山形城跡は現在「霞城公園」と呼ばれているようで、“かすみがじょう”だなんて二本松と同じなんだ、って思ってたのに“かじょう”って読むんだって。
城跡を目の前に、どこから行けばいいのか分からず、周辺をぐるぐるしちゃいました。

今回の伊達ツアーで、実は最大の目的がここ山形城跡にある
最上義光公勇戦の像
をこの目で拝むこと!だったのです。
日本一カッコイイ銅像って噂を聞いて、写真では見たことがあったのですが、やっぱり実物を見に行かないとねって。
いやあもう銅像が見えた瞬間、全員が大興奮!!

慶長5年(1600)秋9月、怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀将直江山城守のひきいる2万3千余の大軍をむかえ、自ら陣頭に立って指揮奮戦し敵を撃退してよく山形を死守した山形城主最上義光が決戦場富神山にむかって進撃せんとする英姿であり、鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります。
右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で、「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻んであります。

(碑文より)

復元された東大手門が無料で公開されていて、そこにいらした方から山形城の事を詳しく解説していただいたのですが、この義光公の銅像が指揮棒で長谷堂城を指しているって聞いた時、興奮が最高潮に!
伯父さまカッコよすぎですっ!!







↑銅像の台座の左すみっちょにねこさんがいました。
銅像の周りに数匹のねこさんがいて和みました~。







山形は最上家改易後は幕府直轄領となったそうですが、南に上杉氏、東に伊達氏、北に佐竹氏では直轄領も納得です。
会津松平家の初代保科正之公も一時山形へいた事があるのですね。
山形城は現在復元工事中で、完成予定は平成40年との事。
平成40年…!?