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『時が滲む朝』楊 逸
芥川賞が何を目指しているのか知らないが、
純文学の新人に与えられる賞だと思っていた私は、
どうやら思い違いをしていたらしい。
楊逸は、前回同賞候補になった「ワンちゃん」も読んだが、
純文学もなにも日本語の適正な用法
(無論そんなものは無いのだが、読者が出来るだけその情景や心境を疑似体験すべく読み取れるような表現という意味で)
においていかにも厳しい。
もちろん、楊逸は中国人なのであるから、
通常の読み物として、或いは、日常に使う言葉としては驚くべき日本語の使い手と言って良い。
しかし、純文学のタイトルを与えるかどうかに、外国人である事を斟酌すべきではない。
今回の受賞は北京オリンピックの年でもあり、
他に卓越した作品もなかった事もあり、彼女には幸運だったのだろうが、
芥川賞の選考がいくぶん時代背景に影響され、政治的な配慮がなかったとは言えないだろう。
天安門事件の時の民主化を叫ぶ学生達の気分は、
日本における、1960年の安保闘争と、
1960年代末から1970年にかけての全共闘運動・大学闘争を思い起こされるが、
中国の学生が『アメリカのようになろう!』と親米であったのに対し、
日本の学生が『反米』を示唆していたことは、
煎じ詰めれば、右向きか左向きかの違いはあるにしろ、
親のすねかじりがにきびを爆発させるステージを求め、
持て余す白濁のエネルギーをぶつける対象を政治運動に見い出したに過ぎない。
文中においては、そんな彼らも年月を経てバラバラになり、
日本やフランスや中国で、
にきびの痕があばたになるように、時を置いた風船がしぼむように、
いくぶん傷心を抱えながら、現実の生活を生き延びることを余儀なくされる。
日本人も中国人もない。
目の前にあるのは、、、現実のみだ。
★★★☆☆
本書をご提供いただいたAさんありがとうございました。