陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「天使のタブロー」(一)

2013-10-10 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


紅い陽だまりの部屋で、画布のなかの少女は優雅に微笑んでいた。

朝の柔らかな陽射しは、石膏デッサンには適しているが、人物画にはいたって不向きだった。
外光をおおきく採るために設けられた広い天窓から夕陽は覗いている。斜めに深く流れこんでいる、その日名残りの赤光は、そのモデルの白い肌を内側から透かし見させるかのように、ひときわ輝かせていた。

「ひみこ、どうしたの?」
「ん…なんでも、ない」

熱い視線を送るかおんに気づき、ひみこは慌てて瞳を逸らした。
くすっと、艶やかな微笑みがモデルの唇から洩れる。ひみこの頬があんなに朱に染まっているのは、夕映えのせいではないことをかおんは知っている。すこし媚態をおくると、ぱぱっと火が灯ったように真っ赤になる。そこがまた愛らしい。ほんとうに幼い太陽のような人だ。

だが、キャンバスに向かうまなざしは、とても真剣で、それはどんな私情もさしはさまない冷静な観察者の目だ。ひみこがそんな画家のまなざしをすることを、さびしく思うかおんだった。ただの対象として見られているという、このまなざしに縛られた関係から、かおんは解き放たれたかった。

画架の影に顔を隠しながら、ひみこはパレットの上で絵の具をこねくり回して、こころを落ち着けた。
長年使い込んだ木製パレットの、あの独特の香りを嗅ぐことが、この絵仕事への意識を目覚めさせてくれる。ほんの微量の配分の違いで、同じ色は二度とこの世に生まれてこない。生乾きの画布に新たな色を重ねるときも同じ。油彩はやり直しが利くと油断して、塗り重ねをしつこくすると、色が喧嘩しあって画面が重たくなってしまう。描かれたものへの感情を緩めることは、構図を壊し、線を甘くし、色を軽くさせてしまう。

──まったく、もう、かおんちゃんってば…。

よくも毎回、同じポーズをとり続けられるものだと思う。
かおんは、図ったかのようにいつも、前回のポーズを再現してみせた。脚の組み方、腰のひねり。首の傾げ方、瞳の向き、髪のなびかせ方。果ては指の微妙な曲げ具合までが、狂いなく再現される。そして、いつもかならず優しい笑顔まで用意する。

それは、乳いろの大理石に永遠の笑顔をとどめた、美しい女神の彫像のようだった。
石膏デッサン用の滑らかな白い模刻ではなくて、真作のもつ脆さのうえにある儚い美しさだった。
どうかすると他者の視線に耐えられないような壊れやすさをみせながら、研ぎすまされた意志の強さが蒼い瞳に籠っている。

絵画制作は、すでに生まれた者と、やがて生まれ出るものとの、神秘な対話なのだ。
ふしぎなことに手間をかければかけるほど、紙のうえで描いたフォルムが、こう生きたいのだと訴えてくる。こうありたいのだと、想像を投げてくる。それは神に吹き込まれた創造の息吹だ。ミケランジェロは石の中に埋められた神様を解放するのが芸術家の仕事だと言ったらしいけれど、まさにその心地だ。期せずして、画家の腕が動き、線は流れ、影が乗り、色は跳ね上がり、肉のマッスが踊りだす。作品は、やがて自立して、画家の手を離れたひとつのいのちとなろう。だが、そうなるまで育て上げるのは、画家の役目であり、また楽しみでもある。そして、どこで筆を擱くのかも、迷いどころである。

かおんが目の前にいなくたって、想像力で補って描くことだってできる。
ひみこの瞳は、彼女のすべてを捉え尽くしていた。それに、モデルの本質に囚われずに、色や形を変えることだって画家の自由だった。絵画は写真とは違うのだから。

だが、それをかおんは喜ぶだろうか?
それは自分のでっちあげた美化された偶像にすぎない。何より、ふたりで一枚の絵をつくりあげるという、このあたたかな安らぎの時間を縮めたくなかった。だから、ひみこはかおんが来なければ、絶対勝手に筆入れしたりしない。未完成の絵は、次の逢瀬の約束手形だったのだから。




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