陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「夜の月(あかり)」(二)

2009-09-27 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


両親は出かけていて、自宅にはいま誰もいない。
暇さえあれば近所で走り込みするのが日課だったが、あいにく留守を預かっているので、ルームランナーで我慢しているのだった。

「水のなかってのはいいもんだ。水に潜るってことは、別世界に近づくってことさ。なにも嫌なことが聞こえない。言わせない。近寄ってこない。からだが軽い。いいもんだな。うんうん、よきかな、よきかな」

金メダルを獲得した青年も、あの世界を覗いてしまったのだろう。
クライマーズ・ハイという言葉がある。登山者の興奮が極限状態に達し、通常、危険を察知するであろうほどの恐怖心が麻痺してしまう現象のことだ。スイマーにもランナーにもハイはある。長時間肉体を酷使しつづけ、人間の臨界点を突破するような状況に至ると、気分が高揚しすぎて、自分がどこに居るのかわからなくなってくる。真琴のような短距離走者の場合、ゴールに滑りこんでも、足がとまらず、延々と走り続けたくなる。まるで、そのまま走っていれば、やがてこの星を飛び出し、宇宙にまで泳ぎ出すのではないか、無限の国へと迷いこんでいってしまうのではないか、そんな心持ちに包まれることがある。多くの競技者が飽くことなく記録に挑戦するのは、ただ勝ち星を重ねたい、賞賛を得たいがためではない。むしろ、その一瞬のきらめきのような夢心地に酔いしれるあの快感が忘れられないからではないだろうか。五輪メダリストの、「チョー気持ちいい」という、感情を表沙汰にしないことを美徳とする日本人からすれば新感覚のこの発言も、けっして傲岸不遜といえるのではない。その忘我の状態に浸ったままであれば、その言葉しか出しようがないのである。

真琴はさかんにルームランナーのベルトを回した。
ベルトに幅があり走行面積が広く、馬力もいいので、運動負荷のない傾斜もよく考えらた設計のマシンである。かなり本気を上げて走っても壊れることはない。疲れを知らない水車のように、足の下で地面がひたすら回りつづける。防音装備をしているので、音が漏れることはない。真琴はむちゃくちゃに走り回った。走っても走ってもどこにも辿り着かない。目の前にあるのは、華々しいゴールインを果たした競技者を映したが、今は消えたテレビ。そのテレビの語らない向こうへ行ってみたかった。真琴は怒りを叩きつけるように、地面を蹴りつけるようにして走った。

十数分その運動が続き、室内が静まり返った。
手すりに両手で掴まった真琴は、肩で息をしていた。只でさえ真夏日の正午なのに、冷房も入れない室内で、汗は瀧のように流れていく。まるで水を浴びているかのようだ。しかし、頬を濡らしているのは汗ではない。

「ちくしょう、ちくしょう、あたしだっておめでとうって言ってやりたかったさ。なのに、なんでなんだよ…」

中学一年の七月末、あの夜のプールで。
紅い鱗のような肌を晒しながら、彼女は言った──「水の中で女王みたいに振る舞えたヒナコは、今夜、この水のなかで死んでしまうの。でも…マコには、また会う。きっと、会う。それまで、さよならね」

真琴が再会を期して、他校の特待生待遇を蹴って、一般入試をクリアし入学したのが乙橘学園高等部。
そこに、彼女が夜のプールで別れたきり、転校して消息不明だったあの親友の姿はなかった。しかし、その親友・九鬼ヒナコはこの八月、天火明村近くの川沿いで、もの言わぬ骸となって発見された。台風で増水したがための水難事故と処理されたが、なぜ被害者がこんな鄙びた土地勘の無さそうな場所にいたのかは解明されなかった。真琴がそれを知ったのはつい昨日、中学の同窓会に参加してからであった。級友たちは「更衣室のヒナコさん」の末路をおもしろおかしく茶化して、せせら笑っていた。

親友をかつて虐めていた水泳部の同級生たちは、高校になってからもそこそこの成績を上げてはいた。
彼ら彼女たちがなんらの悪びれもせずに、その訃報を流布する姿に真琴は嫌気がさし、一次会で切り上げて帰途についたのであった。



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