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平成十六年八月中旬のことだった。
その日、日本国中があるひとりの青年の成し遂げた快挙に湧いていた。高校生の頃から頭角を現し、日本選手権で世界記録を塗り替えて勝利したその水泳選手は、アテネ五輪の水泳競技、男子百メートル平泳ぎで金メダルを獲得した。つづく二百メートルの二冠を達成。勝利を確信した青年は、こぶしで水を叩き付けながら、こう叫んだ──「気持ちいい、チョー気持ちいい!」。この言葉はその年の流行語になり、やがて、青年は四年後の北京五輪でも人類史上初の新記録を叩きだし、二連覇を達成する。イスラム圏で日本人旅行客が無残な事件に巻き込まれ、日本経済はまだ失われた十年からの回復の兆しが見えない。とかく世相が暗かったその年、北朝鮮の拉致被害者が無事帰国を果たした知らせとともに、その泳者の勝利こそは、まことに日本国民の愁眉を開かせた朗報であった。
その競技中継を、お盆の里帰りで自宅のブラウン管から見つめていたのは、早乙女真琴だった。
私立乙橘学園高等部一年A組、陸上部所属のホープ。当年きって、花の十六歳。昭和と平成世代が混在するあの1988年生まれ。クラスでの人望も厚く、教師や先輩からの覚えもめでたく、体育委員を務めている。中等部の後輩たちからも慕われていて、一年生では村の名士たる大神家の次男坊・大神ソウマと並ぶ人気者である。その彼女の横に、いつも金魚のふんのようにひっついているのが、運動音痴で学業も冴えないみそっかす、あの来栖川姫子なのだから、人の縁というものはよくわからない。
早乙女家は、父が市役所職員をしながら実業団所属の駅伝のコーチ、母が病院勤めの栄養士で共働き家庭。
どちらかといえば中流家庭で、三十五年もの住宅ローンを組んで購入した新築一戸建てを、地方都市に構えている。姫子にとっては姉御肌の真琴だが、意外なことに、やんちゃな末っ子。年の離れた兄が二人おりどちらも大卒で、すでに就職して独立している。長兄はすでに妻子持ちであり、次兄も恋人がいるのでめったに実家には寄り付かない。そのため、真琴は両親から可愛がられていたが、甘やかされて育ったのではなければ、とくにひどく問題になるような荒々しい反抗期を経験したわけではなかった。真琴がこれまでの生涯で、ただひとつ、両親の意向に逆らったのは、乙橘学園高等部への進学であった。父母は、実家から電車通勤できる距離にある、体育大学系統の附属高校進学を切望していた。乙橘は私立のエリート校であるとはいえ、西日本の山間部にあり寮生活を送らねばならない。共稼ぎ家庭とはいいながら、三人の子を大学に行かせてやるのはローン持ちの身には少々つらい。真琴がどうしてもそこがいい、そこに進学しなければ陸上も止めると言い出す始末なので、しぶしぶ許したのであった。幸いなことに、乙橘学園OBOG会による、スポーツ優秀者の奨学金を給付されることになったので、早乙女家の家計も大助かりなのであった。
中学生の頃からまずまずの学業成績で、かつ、短距離走では目覚ましい活躍を見せる真琴の前途は、明るいはずだった。あの事件が起こるまでは──。
「チョー気持ちいい…か。そうだな、ほんと、そうだな」
リビングの端にあるルームランナーで足慣らしをしていた真琴は、テレビを消して独りごちた。
そして、いっそう回転速度を高めた。水泳と陸上は似ている。他の競技者たちが自分の背中を追いかけてくる焦燥感。わずか数分、数秒の狂いで結果が変わるという重圧。それを克服して、自分ひとりだけがテープを切った時のえも言われぬ快感。自分が叩きだしたスコアに誰も辿り着かなかったという歓喜。ただ勝つというだけではない。偉業の優勝者とは、自分だけの名前を伏した頂を、一国をおしいだくのと同じなのである。その栄誉は肉体の限界を迎えるまでの、わずかな期間しか得られない。たとえ後から生まれたものが乗り越えることがあったとしても、その時代、その技術、その能力による勝利は、永遠に語り継がれる。勝利の味を知っているのは、血の滲むような努力を成し遂げた者だけだ。そして、頂点を極めた者だけが辿り着く無我の境地と孤独も。
真琴には、かつて、スポーツに携わる者としてのその努力と栄光とを分かちあう、唯一無二の親友がいた。水に潜った十三歳の彼女の前に出る者はほとんどいなかった。もし彼女があの五輪に出場していたならば、このテレビの前で自分はどうふるまっていただろうか。水を走るその姿を一顧だに疎かにせずに見守っていたはずだ。いま、首から下げたお守り袋とともに。