──志摩子さんのばか!志摩子さんのばか!志摩子さんのばかっ!ばか、ばか、ばか、大バカも~ん。
三月中旬のある博物館へいく道すがら。
今年で十八歳の二条乃梨子は、呪文のように、その禁忌の言葉を口にしていた。
今から思えば、あのときの忠告にしたがうべきだった。
卒業前に喧嘩や仲違いのひとつやふたつ、済ませておくべきだったのかもしれない。
毎日顔合わせして、朝に言い争っても夕方に和解できるような距離にいられるうちに。さもないと、うかつにささいなことで喧嘩して、仲直りもできぬままに、ふたりが離別してしまうことだってあるのだ。いつか、謝ろう、謝ろう。そう思いながら、忙しさにまぎれて、会う機会をうしなってしまい、後悔を胸にかかえたまま、こころがしなびれていってしまう。
私はあのひとを傷つけたのだ。そんな罪悪感に染まりつづけながら、その後の人生をむだに苛まれて送ってしまうだろう。ときどき、どうしようもなく滅びたくなるような誘惑とたたかい、ささやかな娯楽につかのま気を紛らわしながら、生き続けるような人生を。
乃梨子はそんな大人には、なりたくないと思っていた。
だとすれば。挑戦するのは今このときだ。この春をおいて、他にないだろう。
──戦わなきゃいけないんだ。
誰と?
自分と。
喧嘩しなきゃいけないんだ。
誰と?
あのひとのなかに棲んでいる、手を握っているだけのおとなしい妹と。
だって、あのひとはそれだけの、言い争うだけの値打ちはあるようなこと、してくれたんだもの。こんなにも、ふたりがふぞろいの春に、そんなにもふとどきなことを──。
乃梨子を追いかけて歩みをやや早めていた志摩子は、きゅうに立ち止った。
たまたま乃梨子が振り返ったときで、その視線が通じたことが彼女をとめたのかどうか、さだかではない。着物の志摩子は、あのいつもの惜しむようなあいまいな笑顔をうかべて、振り袖の袂をしぼって、こちらに手を振っていた。
──まりあ様、まりあ様。どうかお許しください。私はこの挑戦を、どうしてもしなければいけないんです。
背を向けた乃梨子はコートのポケットに隠した手に握ったものに、願をかけた。それは、リリアン女学園学生だけが所持することを許される生徒手帳。裏表紙をめくったカバーには、まりあ観音の写真。そのイコンは、あのうつくしいひととおなじに、古い写真に写っている日本女性がするような、あの消え入りそうなふしぎな微笑みをたたえていたのだった。
乃梨子はその聖像の笑顔と、遠くにあって手を振っている笑顔とを見比べた。
「ばか」を贈ったのは、もちろん写真ではない顔のほうだ。「ばか」という言葉なんて、すぐさまはね返してしまわれるような、あの美しいお顔に。海に雪のつぶてを投げるような、甲斐のないものだと分かっていても。砂に火を放つような虚しいものだとしても。
「…乃梨子のばか」
志摩子さんにあびせた「ばか」よりは、はるかに少ない。でも、それは口に出したものだ。景気づけに顔にはたく張り手のようなもの。姉に送り続けたふとどきな言葉がそれで打ち消せるわけもない。ばかになって、こんなばかなことをやらなくちゃ、とこころ決めした。自分に言う「ばか」も案外気持ちがいいものだ。
乃梨子はそのイコンをだいじに握りしめると、自分を待っている笑顔に挑むような心持ちで、もと来た距離を戻りはじめた。
近づいてくるその愛しい姉の顔は、なにも知らぬげに微笑んでいた。
【了】
三月中旬のある博物館へいく道すがら。
今年で十八歳の二条乃梨子は、呪文のように、その禁忌の言葉を口にしていた。
今から思えば、あのときの忠告にしたがうべきだった。
卒業前に喧嘩や仲違いのひとつやふたつ、済ませておくべきだったのかもしれない。
毎日顔合わせして、朝に言い争っても夕方に和解できるような距離にいられるうちに。さもないと、うかつにささいなことで喧嘩して、仲直りもできぬままに、ふたりが離別してしまうことだってあるのだ。いつか、謝ろう、謝ろう。そう思いながら、忙しさにまぎれて、会う機会をうしなってしまい、後悔を胸にかかえたまま、こころがしなびれていってしまう。
私はあのひとを傷つけたのだ。そんな罪悪感に染まりつづけながら、その後の人生をむだに苛まれて送ってしまうだろう。ときどき、どうしようもなく滅びたくなるような誘惑とたたかい、ささやかな娯楽につかのま気を紛らわしながら、生き続けるような人生を。
乃梨子はそんな大人には、なりたくないと思っていた。
だとすれば。挑戦するのは今このときだ。この春をおいて、他にないだろう。
──戦わなきゃいけないんだ。
誰と?
自分と。
喧嘩しなきゃいけないんだ。
誰と?
あのひとのなかに棲んでいる、手を握っているだけのおとなしい妹と。
だって、あのひとはそれだけの、言い争うだけの値打ちはあるようなこと、してくれたんだもの。こんなにも、ふたりがふぞろいの春に、そんなにもふとどきなことを──。
乃梨子を追いかけて歩みをやや早めていた志摩子は、きゅうに立ち止った。
たまたま乃梨子が振り返ったときで、その視線が通じたことが彼女をとめたのかどうか、さだかではない。着物の志摩子は、あのいつもの惜しむようなあいまいな笑顔をうかべて、振り袖の袂をしぼって、こちらに手を振っていた。
──まりあ様、まりあ様。どうかお許しください。私はこの挑戦を、どうしてもしなければいけないんです。
背を向けた乃梨子はコートのポケットに隠した手に握ったものに、願をかけた。それは、リリアン女学園学生だけが所持することを許される生徒手帳。裏表紙をめくったカバーには、まりあ観音の写真。そのイコンは、あのうつくしいひととおなじに、古い写真に写っている日本女性がするような、あの消え入りそうなふしぎな微笑みをたたえていたのだった。
乃梨子はその聖像の笑顔と、遠くにあって手を振っている笑顔とを見比べた。
「ばか」を贈ったのは、もちろん写真ではない顔のほうだ。「ばか」という言葉なんて、すぐさまはね返してしまわれるような、あの美しいお顔に。海に雪のつぶてを投げるような、甲斐のないものだと分かっていても。砂に火を放つような虚しいものだとしても。
「…乃梨子のばか」
志摩子さんにあびせた「ばか」よりは、はるかに少ない。でも、それは口に出したものだ。景気づけに顔にはたく張り手のようなもの。姉に送り続けたふとどきな言葉がそれで打ち消せるわけもない。ばかになって、こんなばかなことをやらなくちゃ、とこころ決めした。自分に言う「ばか」も案外気持ちがいいものだ。
乃梨子はそのイコンをだいじに握りしめると、自分を待っている笑顔に挑むような心持ちで、もと来た距離を戻りはじめた。
近づいてくるその愛しい姉の顔は、なにも知らぬげに微笑んでいた。
【了】