「どうしたの?!」
「ご、ごめんなさい…」
拡声器をさかさまに当てたかの如く、声が尻すぼみになった姫子は、叱られた仔犬のようである。
床にはお湯が散らばり、変形した蓋が飛んでいる。幸い中身は落ちていないようだが。ゆであがった麺のうえには、気球のようにパンパンに膨らんだかやく入りの袋が…。取り出し忘れてお湯を注いだのだろう。カップ焼きそば愛好家がやりがちな初歩的なミスだった。さいわい袋は破れてはいない模様。
「そちらは私がいただくから、姫子は残りのほうを」
──と、千歌音が姫子のやり方を真似て、蓋開けして湯切りをしようとしたら。
なんと、まあ! どばどばと穴から流れ落ちてきたのは、どす黒い醤油のごとき液体。湾岸戦争時の地中海に流れた重油を思わせる、至極不吉な色だ。これは、ほんとうに人間の食べものなのだろうか? 関東のつゆはやたらと濃いと聞くけれど、さすがにこれは…。千歌音の胸に不安が兆しはじめる。姫宮千歌音よ、お前はイカ墨パスタを全否定するのか。
「この麺つゆの黒さは…うどん県民に嫉妬した東京人の陰謀なのかしら」
「…そっか。ソースを先に開けてしまっていたんだ」
千歌音がなにげなく言い放った陰謀論は、姫子にあっけなくかわされてしまう。
というか、失敗すると自分のことで手一杯になり、他人の感情に配慮できない点はあいかわらずの姫子である。この百合夫婦も、世のご家庭にならって、出汁の味を巡って台所が戦場と化すという嫁姑バトルの儀式を乗り越えていく時期なのかもしれない(なんのこっちゃ)。
がっかり顔の姫子。
食べられないことはなかろうが、かなり薄味のソースになってしまう。
「姫子が火傷しなくてよかったわ。それにしても、茹でるわけでもないのにお湯を捨てる料理なんて…」
「そう。そのお湯もおいといて、スープが作れたはずなんだけど」
ひとつはすでに流し台の穴に吸い込まれてしまい、もうひとつは味付けされたお湯だからどうにもならない。
「しかも、このカップ焼きそばは、かつお節が鉛筆の削りカスなのね…」
ぱんぱんにふくらんだ袋をみつめながら、千歌音がぽろりと。
姫子ときたら気づかなかったようで、赤面恐縮である。あきらかに不良品なのだが、付属のかやくが確認できないものだから、買い物ミスを責められるものではない。それにしても、これは人間の食べ物なのだろうか。千歌音の疑念はいよいよもって深まるばかりだ。お嬢さま育ちだから仕方がない。
二人分とも台無しで、それ以上買い置きしていない。そもそも、即席めんというやつは失敗しようのない料理のはずだから、予備があるはずもなし。
しかし、そこはさすがの姫宮千歌音。
偶然をチャンスに変える、絶望を絶対に変える女。百合の歴史史上、最強にして最愛の攻めの名を勝ち取った女である。姫子の悲しみは笑顔にするのが、わが務めとばかりにすぐさま対処を。
「だいじょうぶよ、姫子。私がなんとかするから」
部屋のサイドテーブルにある、こじゃれた電話の受話器をもちあげる。
乙羽はまだ起きているだろう。なにがしかの夜食を持ってこさせればいい。要するに、何かあれば、いつもメイド任せな千歌音である。やはり他力本願か。純粋培養お嬢さまなのだから、致し方ない。
「──あ。待って、千歌音ちゃん」
すかさず、何かを思い出した姫子。
よりによって、胸の谷間から一通の封筒をとりだす。なぜ、そんな場所にというよりも、そこによく挟まっていたのが不思議なくらいだが、彼女の尊厳にかかわることなので気にしないでほしい。
【目次】神無月の巫女×姫神の巫女二次創作小説「召しませ、絶愛!」